80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

大晦日、ふと思ったことがある。

2016年12月31日 14時05分47秒 | 考える
夜と昼・・・。

暗いか、明るいか、或いは寒いか、多少暖かいのかの違いだけで、
時間の経過そのものは、昼夜に関わりなく、しっかりと過ぎていく。 

こちらが眠っていようと、徹夜していようと、何の気づかいもしない。 
ひたすら滞ることなく、黙々と時を積み重ねていく。

もっとも、よくよく考えてみれば、何らかの理由で、時間が停止した場合も、
私自身の感覚も停止してしまうだろう。
結果、肝心の 「時間停止」 を認識することができない。   

認識のしようがない!!


ひょっとしたら、「時間の停止状態」 は、私が気づかないだけで、周期的に、
かつ日常的に、さらには頻繁に起こっているのかもしれない。

10分おき、1時間おき、1日おきに、1年間、あるいは10年間、時間が停止
している。
そういう可能性だってあるんじゃないか? ・・・そんな気がしてきた。
 

まぁ、いずれにせよ、当の私自身には、それを知る術がない。
「知らぬ間の時間停止」 は、私に対して、何の意味も、変化も与えない。

そんなこんなで、何の当てもなく時が過ぎて、なぜか、明日は元旦・・・。

時の流れに身を任せ・・・~♪ (テレサ・テン)  

いつの間にやら、明日は70回目の・・・いや正確には71回目の新年だ。

「しんねん」 と打ったら、「信念」 と変換された。 

まぁ、毎年、新年に誓う信念 ・・・ 例によって、多分・・・ 「今年こそは・・・!!」 

昨日も、今日も、明日も、何ら変わらぬ時の流れなのだが、
年の瀬、大晦日、元旦 ・・・ 呼び名が変わるだけで、何となく気分も変わる。


人間とは、本当におかしなものだ。

それはともかく、皆様、今年一年、本当にお世話になりました。
ありがとうございました。


明年もまた、変わることなく、どうぞよろしくお願い申し上げます。 

アリバイ・存在証明

2016年12月30日 07時48分37秒 | 考える
12/29(木) 晴れ

朝、食事中に使っていたスプーンを飲み込みかけて、目を白黒・・・。 
作り話のようだが、本当の話。


何かの加減で、喉の奥に押し込んでしまったようだ。
さすがにおっちょこちょいの私でも、本当にスプーンを飲み込んでしまう
ことはできずに、事なきを得た。


これはさすがに人生初の出来事ではないかと思ったが、よくよく考えてみると
そうだったのか・・・? などと、首をひねってしまうのが、また何とも情けない。

年末・・・、何か、ここに来て、目標が、見えなくなってしまった。
来年の自分が、ほとんど読めない・・・!!


とってつけたような能力アップは、もうあきらめ、このまんま、単純に、
へんてこりんな人間でいてみようか、
・・・などとというのは駄目だろうか? 

12/30(金) 晴れ

7:00 薬を飲む。
自己分析(?)・・・一応、病人なんだったと思う。

薬を間違えず、私に手渡してくれる人がいる。
薬を調合してくれる人がいる。
診断して薬を指定してくれる先生がいる。

人と人とのつながり。
おかげさまで、私は、今日も元気で、ぶらぶらと 「風来居士」 を演じていられ
るというわけだ。


人と人とのつながりに感謝 !! 
人との触れ合いに万歳 !!


そのくせ、他人との関わりを恐れる理由・・・。

人から何かしてもらう。
まぁ、それはそれで良しとしよう。

が、その返礼に何かせねばと思う。
何をするべきか?
それを、いつも考えてしまう。
 

そもそも、私は、他人の好意に値するものを持っているのだろうか?
・・・何も無い。
何も出てこない。

ずっと、それが積み重なり、しこり (強迫観念) になっている。

「ずう~っと、他人から恵んでもらって、平気で生きていくだけなのかね。」
このところ、頭の隅に住み続け、居座っている 「名も知らぬ老人」 が問う。

私のプライドはギョッとして、激しく首を 「横に」 振り続けるばかり。 

そんなイメージが付きまとって離れない。

居士・・・仏教用語
在家のまま、仏門に帰依した男性。
男性の戒名の下に付ける称号。
それを信条とする人。
<一言居士> ・・・ これかも!!
<慎重居士> ・・・ 私の場合、少なくとも、こちらではないな。

いつも風来故事と書きかけてしまう。
自分の名前が分からずに「辞書引き」・・・。
何とも情けない話だ!!

「故事来歴」からの連想。
故事・・・昔あった事柄。 古くから伝わっている事柄。
こちらはちょっと名前として使うには抵抗がある。

しかし、伝記などを読んで、生き方を真似てみる、真似しようと試みる。
他人の人生を再構成して生きてみる。
私の生き方とはちょっと違うが、そんなのも案外いいかもしれない。

もっとも、人真似をしようとしても、所詮、自分の人生を生きることから
離れることなど決して出来はしない。


この歳になって、無理やり、自分がやりたくもないことをやる必要などない
のではないかと思う。


とは言え、逆に何もせずにグズグズと歳を重ねていくのも、何かもったいない
ような気もする。


今頃・・・?
今さら・・・?

そう、だって仕方ないじゃないか !!  
やっと今、気が付いたんだから・・・。

で、来年は、何をしたらいいと思う・・・?

クリスマスに想う

2016年12月25日 16時49分03秒 | 考える
2016年12月25日(日) クリスマスに

人生は、良くも悪しくも、「自分の生き方」 をしていく。 
それ以外に方法はない。
いくら偉人の伝記を読んで真似ようとしてみても、
所詮は、自分に都合のいい一部分を偉人の人生に重ね合わせて
いるだけのことに過ぎない。
 

私の人生は、ただ一度だけ・・・、二度目はない。
今後、自分の描いてきた夢や希望がかなう保証など、どこにもない。
無論、過ぎ去った時をやり直すことなど出来ようはずもない。

過去も未来も、単なる考え方でしかないのだ。 
過去を取りもどすことは勿論のこと、未来を先取りすることなど
出来るはずがない。

今現在、この瞬間、この場所こそが、唯一、私に許された時間、
そして私が自由に生きていける場所だ。

何をしようかなどと考えているこの瞬間も、現在そのもの。
流れゆく時間の一部、いや、「過ぎ去りつつある現在の総て」 だ。

考えてみれば、今日はクリスマス。 
そろそろ今年一年の整理をする時間だろう。

母の逝去、自身の入院・・・。
例年に比べ、今年は、やることが多かったような気もする。
しかし、よくよく考えてみれば、
実際には、総てが他人に丸投げだった。

自分で、何かをやった、やれたという感覚がない。
 
 

今更どうなるものでもないが、今年も、残り一週間。 
こうしている間も容赦なく、時間は過ぎ去りつつある。

70代初心者・・・。

今、そして今後、何を考え、どうすればいいか?
一週間で結論を出すのは無理かも知れない。 
この古ぼけた頭で考えるには、あまりに短かすぎる。

今度の誕生日、いや、もうちょい、来年の年末までには何とか・・・。  
まぁ、とにかく大急ぎで、考えてみることにしよう。


・・・難しいかなぁ・・・?    ・・・ 

思いを語る ・・・ 夜明け直前に思う

2016年12月20日 18時41分02秒 | 考える
思いを語る ・・・ 夜明け直前に思う

人生に「遅すぎる」ということはない。 

・・・そう、思いたい。

過去の自分の行為、それが本当に役に立った事例を探してみる。
 

・・・・・無い・・・!! 

常に、楽なことばかりやって、やろうとして、無駄な行為を重ねている。


とは言え、無駄な行為を重ねていって知ることもある。 

自分の無力さ、そして必要のない行為を繰り返す愚かさ。

大体、意思疎通のないところに、有効な行為なぞ生まれようはずもない。 


たとえば食事、相手が食おうと食うまいと、人間として、準備だけは
せねばならない。
当然、そこに金がかかる、時間もかかる。
 

結果、相手が、私の用意した食事を取ろうと、取るまいと、 その行為が、
彼の行動に、そして当の自分にも、影響を与えていることは間違いない。
 

無駄を防ぐには、徹底した、互いの意思疎通しかあるまいと思う。

人は、存在を認知された時から、他人と関わらずに生きていくことなぞ
出来はしない。


他人の世話にならず、他人に関わらず、「孤」として生きるなどとは、
青春期の夢想、夢物語でしかない。

現実社会においては、言うまでもなく(?)、不可能なことだろう。

現在、12月20日(火)、午前6時10分
弟が出掛けてから、すでに1時間になろうとするが、まだ外は闇の中
部屋には暖房がつけてあるが、それでも、外の冷気が染み込んでくるよう
に感じる。
今日もまた、一日中、冬のど真ん中だろう。

70代、じっと現状に耐えていくことも、ひとつの勇気なのかもしれない。  
だが、私は、ただ待つばかりというのには、とても耐えられそうにない。

6時45分、ふと見れば、大分外が白んできている。
今日は、いい天気になる予感・・・。

夢かも知れないが、今日もまた、他人とのいい関わりを求めて生きていく。 

2016年12月20日 朝

またまた夢の話など

2016年12月19日 14時42分36秒 | 考える
働く意味、目的を持つ必要性、→ 家族のために、恋人のために、
(学びのために) 目的意識は気力を生む。

だが、この頃、目的意識に、あまりこだわりすぎるのも、どう
なんだろうと考え始めた。

目的意識・・・何となくどうでもいいような気がしてきた。

「玄冬の門 (五木寛之)」の影響かも知れない。

格好つけて生きていこうとしても、そうそううまくいくわけもない。
また、たとえうまくいったとしても、所詮は独善の域を出ない。

「俺たち2人、お互い、必要以上に干渉し合わない方がうまくいく
のではないか?」


そんな風にも思う。

人は、他人から必要以上に当てにされると、逆にやる気を無くしてしまう。
う~ん、まぁ、 「逆もまた真なり」 なのかもしれないが。

適度に当てにして、適度に放置・無視するくらいが良いのかもしれない。

今年も残り、約半月、ゆっくりと日々が埋まっていく。

たとえ、通院でも何でも、とにかく、その時、やることが決まっている、
あるいは何となくやりたいことがある、それはとても有り難いことだ。



12月11日(日) 朝。
夢を見た。

今年最後のイベント。
仲間と一緒にいつもの温泉に出掛ける。
10数人での集団行動。

時が経ち、帰り時刻になる。
帰りがけに、皆で集まって写真を撮ろうということになる。 
仕度をし、仲間に遅れて出口を出る。
見ると、仲間が一人も待っていない。

探し回ってみたが、どこにも見当たらない。
従業員さんも、一緒になって探してくれたが、どこにも見当たらない。

泣きたい気分で、入り口まで戻ってくると、見た女性が一人待っている。
メンバーの「別所さん」だと名乗る。
「皆さん、あちらでお待ちですよ。」と、先に立って歩き出す。
「すみません。」

後についていこうとするが、彼女、意外と足が速い。
三度目の角を曲がったところで、とうとう見失ってしまった。
今度は、別所さんを探して歩き回っているうちに、何故か非常ベル。

気がつくと、「目覚まし時計」が鳴っている。 
設定した覚えはない。
慌てて止めるが、時刻はまだ、4時50分。
電灯もつきっぱなし。
外はまだ真っ暗だ。

昨夜、ちょっと一休みと横になって、そのまま眠ってしまったらしい。

ただ独り、置いて行かれる恐怖。
ところで、「別所さん」て誰だ・・・?
自らの名前に「さん」づけ・・・??



それにしても、この所、夢を見ることが多くなった。
ことに、独り、置いてきぼりにされる夢・・・。

これは、一体どういう意味だろうか ??

ひょっとすると、私は今、母に先立たれたばかりで、寂しいのかも知れない。 

そう言えば、今度の正月からは、例年と異なり、私には、帰るべき家がない。
といって、妹のように、心安らぐ家庭もない。


弟は、本心はどうか知らないが、私ほど気にしてないように見える。
一人暮らしが長かった分、心が強くなったのかも知れない。

それは私とて同じなのだが、
もしかすると、私は、人一倍、甘えん坊すぎるのかもしれない。

実際、毎年、年中行事として、正月の三箇日は、常に母と過ごしてきた。
来年からは、それも成らずと考えると、胸が痛む。
月並みな表現だが、胸の張り裂けそうな思いとはこれだろうか?

今、母の遺骨と写真を横にして、独り部屋にいる。
たまらなく空しく、哀しい。
 
どうにも、そんな気持が押さえきれない。

気がつくと、外は、大分明るくなってきている。


今日もまた、我が家の時計は、知らん顔で動き続けるのだろう。