80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

今年一年ありがとうございました。 明年もどうぞよろしくお願いいたします。

2015年12月27日 07時41分41秒 | 考える
今年最後の日曜日。
すっきりとした青空。
気持ちのいい朝だ。  


私は、思っていたより (って、正直、そんなことは考えていなかった。)
長生きをしている。
 

小学校入学以前の私を知っている人から見たら、
ここまで長生きするとは、思わなかったのではないだろうか。



まぁ、本人としては、軽口のつもりで (ちょっぴり意地で)
「少なくとも、大還暦までは生きる」 と公言してきた。 

ここまで来ると、軽口のつもりが、次第に本気になってくる。

「大還暦」という言葉が存在する以上、
そんなこと実現出来っこないと決めつけたものでもなかろう。

これまで私は、自分の思うように生きてきたとは思っていない。

だとしたら、今後、50年と7ヶ月弱、
人生をやり直すには充分な時間と言えるのではないだろうか。
 


正直、明日のことは分からない。


が、しかし、やるべきこと (やりたかったこと) がある以上、
やり始めてみない手はない。



私は、他人から見て、どう見えているのか?

もっとも、私が他人を見て、どう思おうと、
他人が何の影響も受けないと同様、
他人が私をどう見ていようと、私自身には大した影響はない。 (・・・?)

まぁ、気分的には、多少、いろいろ思うところもあるだろうが。

と、いうところで、
今年一年、いろいろお世話になりました。

本当にありがとうございました。 

多分、これが今年最後のブログとなります。
どうもありがとうございました。


明年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

皆様にとって、明年も、さらに良い年となりますように。
 

卑屈になるな。

2015年12月26日 08時46分11秒 | 考える
Facebook を流していて、ちょっと気がついたことがある。

世の中にはいろんな人が、いろんな職業、考え方、生き方で、
それぞれに暮らしていらっしゃる。

今でこそ、立派にやっているが、
以前は、皆、それぞれに大変だった方も多いようだ。
投稿の端々に、その思いが見え隠れする。

だとしたら、ひょっとしたら、
こんな私でも、いずれは、何とかなるのではないだろうか?

ふと、そんなことを夢想する。

生き方、考え方は、個人個人で違って当然だ。
しかし、その中から、共通点が、かいま見えて来るような気がする。

折れない心。

人はそれぞれ、生きてきた環境、考え方が異なっている。
しかし、ものを完成させるには、
やはり、「折れない心」 が必要なんだと思う。 

私にも、これだとはっきりと説明が出来ないが、
自分なりに、もっともっと自信を持っていいと思う。
卑屈に生きていく必要なぞは、これっぽっちもない。

諦めなければ、結果は何とでもなる。

夢ばかり見ている。 
現実は、そんなに甘いものではない。
とはいえ、厳しいだけのものでもないような気がしてきた。
言うならば、夢ばかり見ている私は、それなりに幸福なのだろう。

卑屈になってはいけない!!


自分は学歴があるのに出世出来ないなどと
悩む人はどうか本を読んでほしい。
ネットやテレビのようなデジタルだけに頼ると、
考える力が弱くなります。
アナログな本には、すばらしい人生の知恵が
いっぱい詰まっています。 
本を読まないなんて、もったいないですよ。
泉 秀樹 (歴史作家)

ニックネーム

2015年12月25日 07時00分14秒 | 考える
夫婦別姓・・・、いろいろ言われているが、
何かどうでもいいような気がしている。


結婚後、夫あるいは妻の姓を名乗る。

それは、ある意味、ペンネームと同じなのではないだろうか。
私は、個人が指定されるなら、それでいいような気がする。 

無論、自分の名前には、それ相応の思い入れがあるだろうが、

所詮は呼び名にすぎない。

しかも、それは自分自身で決めたわけでもない。
親にしてみても、名前はいろいろ頭をひねって考えるが、
姓を変えることは出来ない。
もっとも、ペンネームは自由につけられはするが。



ニックネーム、あだ名
・・・これは何となく、嫌だな。
 

確かに個人を特定はするが、
たいてい、個人の気にしている容貌、性格を抽象している。

因みに、私のあだ名は 「こんにゃく」 と言った。
小児麻痺の後遺症で動きがクネクネしていたせいだろう。

教室、校舎内では、先生が一生懸命フォローしてくれた。
今でも感謝しきれない。
今は、どうしていらっしゃるやら・・・。


とは言うものの、あだ名は第二の氏名。
所詮は、呼び名に過ぎない。

呼ぶ方はどう考えていたかは知らない。
(多分、慣れで何も考えずに呼んでいたんだろう。)

しかし、さすがに進級するにつれ、次第にそう呼ぶ子も限られてきた。
こちらもそういうものだと慣れて、気にならなくなっていった。

かくて、小学3年、4年、・・・5年頃までかな?
「こんにゃく」 は私について回った。


話変わって、
来年を、どう生きていくか? 

多分、弟の考えは、
確かに、私は兄ではあるけれども、
これほどの馬鹿で役立たずの人間とは付き合うのが大変だ、
ということなんだと思う。

現状、無職・・・。
私に 「熱意」 があるだろうか?
やる気はある。
仕事が見つからないだけの話なのだ。

もっとも、熱意だけで、片づく問題ではない。
ある程度の賢さも技術もあってのことだ。
それがあってこそ、初めてものになる。

定年後に、再就職というのは、結構大変なのだ。
しかも私は、役職もないのに、66の誕生日まで使っていただいている。



人は生きたいように生きればいい。 
勉強も、仕事も、結果としては、そのためのものだ。
人は生きたいように生きる。
そうあるべきなのだ。


興味があるなら、いくら歳をとろうが関係ない。
他人の眼も、その後の結果も、関わりなく、
実行していけばいいだけの話だ。

他人の眼が気にかかるのは、
結局は、自分自らが信じられずに、自己判断を、他人に頼っているだけのことだ。



どちら様ですか?

2015年12月23日 07時20分40秒 | 日記
話が後先になったが、
12月12日(土)の朝ピンポンッという音で目が覚めた。

朝・・・時計は5:50 を指している。 

一度だけの音だったのか、
夢の中の音だったのか。
それとも・・・。

耳を澄ますが、次の音は聞こえてこない。 

玄関に行って、ドアミラーを覗いてみる。

・・・誰も・・・見えない。 

玄関のドアを開ける。
当然かもしれないが、誰もいない。

まぁ、朝の6時前にドアホンをならす人はあまりいない。
よほどの緊急時でなければ・・・。

多分、夢だったのだろう。 


ふと見ると、台所の蛍光灯が切れかかって点滅している。


もしかすると、あの音は、
蛍光灯の断末魔の声だったのかもしれない。

蛍光灯が「ピンポンッ」はおかしいって? 

そんなことはない。
蛍光灯にだって、蛍光灯の言葉があるはずだ。

蛍光灯は人間ではない。
蛍光灯が「ピンポンッ」 と悲鳴を上げていけないという理由はない。

言うまでもなく、人間同士でさえ、いろいろな言語を使い分けている。


とにかく、私ばかりではない。
総てのものに寿命があるということだろう。

どうやら、今回は、蛍光灯に先を越されてしまったらしい。
まぁ、こればっかりは、先を越されても何の文句もない。

どうぞ、どうぞ、お先にどうぞ・・・だ。

さぁ、今日も70歳に向けて、一日が始まる。

それにしても、あのピンポンは、どちら様でしょうか・・・???

私らしさ

2015年12月21日 23時18分40秒 | 考える
私を一生懸命、この歳まで育ててくれた親兄弟、教師、そして友人・・・。
そうだ、私を導いてくれたあの「先生」はどこに行ってしまったのか?

人は歳をとらざるを得ない。
さらに言えば、年齢を重ねるごとに、自分の存在価値が薄れていく。
かわりに、他人の存在感が、次第次第に大きくなっていく。
 

出来得れば、今からでも家族が欲しいと思う。

う~ん・・・?
本来ならば、年齢を追うごとに、
自分の存在感は、増していくべきものではなかったか?
 

時折、考えてしまう。
私は、このまま生きていって本当に良いのだろうか? 

今さらながら、自分の生きてきた過去、自分の経験を
「他人の見た目を通して」 確認してみたいと思う。 

言い換えれば、それを誰かに認めてもらいたいということだろうか? 

時が経ち、日を重ねるごとに、その気持ちが強くなってくる。 
これは、贅沢な願望なのかもしれない。

自分自身をプロデュースする。
私は誰かに必要とされているのか?
それとも、邪魔者なのか?

う~ん・・・やはり邪魔者感が強い。

私らしさ、私の成功とは?
・・・はて?・・・私って、成功至上主義だったのか。


取りあえずは、この期に及んで、老後破産だけはしたくない。
しかし、現実、現状では・・・??
どうなのだろうか?
不安はつのるばかりだ。

公的成功を収めるためには、
まずは、私的成功を成し遂げる。

「終わり」を思い描く。
終わりとは、どういったものなのか?


私は 「本当の成功感」 というものを味わったことがない。

①自分の価値体系を持つ。
②どのような価値観を選択するか?
③その価値観に従って生活する。


「強く望んでいることは、いとも簡単に信じられる。」  
ということは、簡単には信じられないことというのは
それほど強くは望んでいないということになるのだろうか。

若い頃は、当然のごとく、父の後を継いで、よい教師になろうと決めていた。
しかし、それを実現するには、横道に逸れすぎてしまったようだ。

今さらながらだが、女性と、心身共にじっくりと触れ合ってみたい。

それが無理ならば、
ただ、そばにいて、ほっこりとした時を過ごせればいい。

男の傍らには、本来、女がいるべきなのだ。 
主体性と協調性の同居。


年甲斐もなく、ふと、そんなことを思ってしまった。 (正直な話)

気をつけて世の中を見れば、なすべき仕事はいくらでもある。
仕事のないのを嘆じるのは、真に仕事をみつけることに
努力をしていないからではないか。
     松下幸之助
「人生と仕事について知っておいてほしいこと」より