80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

認知症

2016年09月20日 13時20分41秒 | 考える
平成28年 (2016年) 9月12日(月) 7時25分 天気、薄曇り
駅広場のベンチに腰を下ろして、ふと思う。
多分、私自身は、誰から見ても面白くも何ともない人間だ。
・・・だから・・・?

9月20日(火) 朝、今日も雨。
昨日は、小雨に濡れつつ、認知症患者(?)マラソンを見ていた。

認知症=記憶障害。
自身に当てはまる・・・。
私は誰だ・・・?

私は 「風来居士」 として考え、思いを伝えてきた。。

私自身は、先月、思いも寄らぬ形で、入院を体験した。
考えてみれば、ほとんど、人生初めての体験と言っていい。

自分自身、これといって、どうこうという症状が出たわけでなく、診察の結果、
手術した方がよかろうという事だった。
何か実感がないまま、あれよあれよと手術、さらには病室ベッドイン。
すっかり看護師さんたちのお世話になってしまった。

まぁ、誰一人として、人間であれば、歳をとらぬものはなし。
歳をとれば、当然の結果として、病気にかかる可能性も増える。
病気とは言わずとも、体力的に衰えてくるのは自然の成り行きだ。

今、老人の事を考え、老人のために動こうとするのは、自らに保険をかけるのと
同じなのではないか。

「認知症」について考えてみる。

ボランティアの方々、本当に 「認知症」 について理解しているのか?
少なくとも理解しようとしているのか?

私は(まだ)大丈夫・・・。
これって、長い目で見たら、ほとんど根拠のない、取りあえずの安心感。
そしてちょっぴり優越感も・・・?

だって、医者でさえ、治しようがない病にとりつかれる事だってある・・・はずだ。

無論、運動自体を否定するつもりは全くない。
しかし、そんな事も、ちょこっと考えてみる必要もあるのではないだろうか。

今さらながら、これから私は、自分自身は、どう生きていくべきか?
ひとつの方向性、考え方を与えられたような気がしている。

ずっと、頭痛が取れない。

2016年09月19日 05時11分30秒 | 考える
9月18日(日) 4:30 起床
ずっと、頭痛が取れない。

いくら自分では充分納得のいくものが出来上がったと考えても、
世に知られず、作品発表の機会も無かったら、一体何の意味があるのか?
まぁ、ただ自己満足に徹して、黙って生涯を終えていくというのも、
それもまた、ありかもしれないが。

人間関係とは、結局、相手があってこその話だ。


相手も何も無いのでは、独り芝居にもなりはしない。

時間感覚が無茶苦茶なんだ。


母の遺骨処理。
ここまで来たら、業者に依頼すべきかなぁ・・・?
私の入院は、理由にならない。

もしかすると、
そう、私の母ではあったが、彼の母では無かったのも知れない。
要は気持ちの持ちようなのだろう。

「体にまかせてみよう。」

「自分の考えを抑え、無視して、他人に合わせようとしても、長い目で見れば、
ほとんど意味が無い。」


坂口安吾「堕落論」を覗いて、小林秀雄先生がちょこっと身近に感じられてきた。

「去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かったと
いう話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンといっしょに墜落した由で、
この話をきいた時は私の方が心細くなったものだ。それは私が小林という人物を煮
ても焼いても食えないような骨っぽい、そしてチミツな人物と心得、あの男だけは
自動車にハネ飛ばされたり河へ落っこちたりするようなことがないだろうと思いこ
んでいたからで、・・・」

「教祖の文学 -小林秀雄論-」冒頭より


・・・ふ~~ん・・・!!

人は、無理をして、他人の事を思う必要もないのではないか?
考えてみると、何やら意味がありそうで、人から見たら何の意味もない。
大方が自己満足だ。

結局、何にもならない。
ひどい話、あらぬ事を思われ、時には恨みを買う事にもなりかねない。

生き過ぎて、生き飽きて、何か、もういいかなぁ・・・などと。
このまま、母を追いかけて、永い旅に出るのもいいかもしれぬ。
母は、迷惑、面倒だと嫌がるかも知れないが。


でも、多分・・・、私は、結局、死ぬまでこのまま生き続ける事になるのだろうな。
まだまだ、死ぬだけの勇気(?)がない。

他人と話をする事が出来ない。
自分から、話題を持ち出す事が出来ない。

私の容れ物には何も入っていない。
取り出そうにも、取り出すものが何も無い。
それもまた身軽でいいのかもしれない。