<書評の寸評~レビューのレビュー>読みたい書評があり、久々に雑誌『ダ・ヴィンチ』を買う。書評って怖い。あくまでも自分がその書評されている著書を読んでいることが前提だが、評者が、その本の目次を読んで、あとはつまみ食いした程度なのか、全てしっかり読んだのか、そして肝心の内容をちゃんと理解できているのかどうか、すぐに判ってしまう。要は、「読み手」と「書き手」の両面から、その評者のレベルがぜんぶ晒されてしまう。|私が読んだ書評は、難しい言葉を散りばめ、衒(げん)学的ヒネリを加えて、煙(けむ)に巻いてるつもり(?)が、話がとっちらかってて何を言いたいのかが分からなくなってた。考えも論も整理されてない。一番まずいのが、読者が「この本読んでみたい」という気持ちにさせられないこと。もちろん、褒めずに、すっきりとした批判的論評になっていても、読み物として筋が通っていればOK。評者が信頼できると思えれば、「この本は読まなくていいな」という判断にもつながる。|イラストを見るかぎり、どうやら若手のよう。別に年齢差別をするつもりはないが、ベテランでこのレベルだったらマズイ。書評ぐらい片手間でできると思っているのだろう。若気の至りは誰にでも(自分にも)あるが、金を払ってまでそれに付き合わされるのは御免蒙りたい。「そない文句ばっか垂れるんやったら買わなきゃええやん」、たしかにそう。でも、「しばらく買うてなかったこの雑誌は、いまはどないな感じなんやろ」と思うのは普通の感情。また、少なくとも、いまの雑誌編集部がどういうレベルの人に書評を依頼しているのかはわかったので、無駄ではなかった。|思えば、昔はもっといろいろな雑誌を買うてた。いまは雑誌の内容のかなりの部分がネットにもアップされるようになってきたことで、紙の雑誌の衰退が加速しているのかも。|なくなってほしくはないけど、本好きのための雑誌を謳うのであれば、評者も「真の本好き」かつ「筆力もある」ような人選をしなければ、本好きに愛想突かれてまう。若い層に受けようとして、「ポップさ」と「本格」の間で揺れ動くのはわかるが、著書が主役という根本のところは押さえとかんと。|そもそも本を読まない人は、書評も読まない。もう一度、どういう人が書評を読むのか考えなおしたほうがええんちゃうかな。|すばらしい著書(著者)であればあるほど、読者は一時的、あるいは長期的に、その「下僕」にならざるを得ない。人生の貴重な時間をその本のために捧げる。|かりにも、世にすばらしいと言われてる著書や著者を超えられると本気で思えるような人は、すでに作家になっているか、デビューを企てているはず。|書評というのは、ポップでも、ファッショナブルな作業でもない。評者と著書、評者と読者の間の知的レベルに、大きな差があっては務まらない緊迫感のある仕事のはず。それはスケッチを描くようにはいかない。||BGP(Background Plugin):“Tactic” by Glitchmachines ☞ かなりの荒くれ者。
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