柴犬多頭飼い コクマチャどん

コロクロ日記で07年に開設したブログ。15年から『コクマチャ日記』、さらに24年から『コクマチャどん』になりました。

生前整理 最終回

2018-03-02 08:48:07 | 介護

1月中旬にケアマネさんと相談して、年末に体験入所してきた施設に2/1からお世話になることに決めた父。2月いっぱいはマンションを借りたままにして、毎日施設からマンションに通い片付けをしたというところまで書いたのだが、その間のことをまとめようと思う。

マンションに引っ越したとき、一人暮らしなのに前住んでいた家から荷物のほとんどを持ってきてしまった。が、父はすごく真面目な性格で、いいかげんなことが大嫌いなため、すべての荷物に目を通して仕分けをしないと気が済まないタイプ。なので、きっちり進めていきたいのだが、そうしたいと思っても、体が自由に動かないことと『思い出のものだから』とか『もったいない』の気持ちが強く、思うように片付けが運ばなかった。私は父の荷物に対して思い入れがあるわけではないので、退去する日にちから考えてさっさと片付けたいため勝手に仕分けしようとすると、口には出さないけれどムッとする顔をする父。日にちが足りないと言うことで、最初は土日も片付けに行き、しばらくは親子間で険悪な(?)雰囲気になることもあった。

(衣装ケースの大量の服も仕分けが大変だった。業者さんが来られる日より前に、押し入れの中もスッキリ)

遺品整理だと家族や業者さんで仕分けして処分するわけだが、生前整理となると本人がいるので「全部まかせるから片付けて」と言ってくれるタイプの人でないと、ものすごく大変だと言うことをつくづく感じた。また、持ち家の場合片付けに期限があるわけではないのでゆっくりできるが、賃貸だと片付けだけのために借りていれば、住んでもいないのに家賃を払い続けなければならないのでとにかく早く片付けたい。

(90近いおじいさんの一人暮らしとは思えない雰囲気の部屋(笑))

業者さんの見積もりのとき、綺麗に片付けなくてもそのままでいいですよ、こちらがやりますからと言っていただき私も父も気が楽になり、土日はマンションに行かないで休むと決めた。が、残り数日になったところで、やっぱりあれも持ってくこれも持ってくと言いだし、何度もマンションと施設を往復することになった。

(いらない物をまとめては縛ったり箱に入れたりして和箪笥の上にまとめ、持ち帰ったりエコステーションに持って行った)

搬出当日は、父が淋しい気持ちになると思い、私一人で立ち会うことにしたが、ちょうど娘も仕事が休みということで来てくれた。風もない暖かな日だったので、ドアが全開になっていても全く寒くなかったので助かった。かなりのものをリサイクルステーションに持って行ったり、ゴミとして出したりしたので、業者さんに持って行っていただくものは少なくなったが、それでも昔のずっしり重いたくさんの背広など運ぶのが大変な物など残してあったので、段ボール箱に何箱も持ち出されていった。

(マンションに来て一度も着ていないという、すごく重たい背広がたくさん入っているタンス。この中身はそのまま業者さんに処分をお願いした)

業者さんに持って行ってもらおうと思っていた本やCDは退去数日前に、スーツケースに詰め込んで買い取りのお店に持って行ったら、なんと8000円を超える金額になった。本は5~20円のものがほとんどで、高くても400円だったがCDは1000円で売れる物もあった。

(マンションに忘れ物をして、夜、取りに行ったときに見た夜景)

今はネットを利用し、自分で値段をつけて売ることもできる時代だが、写真を撮って送ってっていうことまでやる気力が無いので、せいぜい私にできることと言ったら買い取りのお店に持って行くことくらいだった。電化製品や家具などは綺麗でも、年数によって値段がつかない事が多いらしい。小型の家具を2つ持って行ってみたけど、300円と無料引き取りだった。

(父はこの6年間、天気のいい日は夕方ベランダに出て「今日も1日無事に過ごせました」と夕日に手をあわせていたらしい)

かなり片付けてあったにもかかわらず、エレベータでの移動と言うこともあり運び出しは2時間半近くかかった。

(家財道具の運び出しのあとのがらんとした部屋)

タンスの下に耐震用の強力ジェルを使っていたが、強力すぎてタンスが動かず、最終的にはタンスの板が剥がれた。あ、でも、このあと板もジェルもちゃんと剥がすことができたのでよかった。

(業者さんたちもこれのせいで、タンスや食器棚を動かすのに苦労されていたが、耐震効果は抜群ってことなんだな)

荷物がすべて運び出された翌日(2/28)父と、お世話になった同じ階の方や、父のことを気にかけていただいた方のところにご挨拶にうかがった。淋しいと言って泣いてくださる方もいて、そのときまでお会いしたこともなかったのに私までもらい泣きしてしまった。マンションの鍵を管理人さんのところにお返しする前に、一部屋ずつ「今までお世話になりました。今までありがとうございました」と言っている父の背中が淋しそうだった。

(マンションとお別れする時の父)

あとは父が施設の生活に慣れれば、今までのようにずっと一人きりではなく1日に何回かは人との交流もあるし、何かあっても職員の方が駆けつけてくださるので安心かなと思う。食事の心配をしなくていいこともホッとする。父の片付けを手伝ってみて、私自身も何年も使っていないいろんなものを、これから少しずつ整理していく気持ちになった。体が動くうちに、やれることをやっていこうと思う。といいつつ、テレビ・電気ストーブ・扇風機などいろいろもらってきてしまい置き場に困っているのだが

(結局いろいろ持ち込んだ施設の部屋。これからお世話になります)

2月は、自分のブログの更新以外ほとんどパソコン前に座る時間もありませんでしたが、また、皆さんのブログにもゆっくり訪問させていただきま~す

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生前整理 3

2018-02-17 08:11:53 | 介護

昨日の午前中は、家財道具の処分をしていただく生前整理・遺品整理専門の業者さんに来ていただき、見積もりを取っていただいた。食器棚などの中身や押し入れの中の物など、かなりのものを私の家に運んだためか(仕分けして処分するため)、予想していた金額よりずいぶん安かった。業者さんから「いらないものはそのままにしておいていただければ、私たちがすべて片付けますのでご安心ください」と言っていただき、なんだか急に心が軽くなった。父も、業者さんに来ていただいたことで心の切り替えができたらしく、捨てる決心がつかずとっておきたいと言っていたようないろいろな物に、思い出として記憶に残しておけばいいとスッキリした顔で言っていた。が、やはり最後に荷物を運び出す日は、長年使っていたほとんどが処分されていくところを見ているのは辛いだろうと思ったので、父をその場に立ち会わなせないことにした。 (ベランダから見た風景。この景色も半月後にはもう見れなくなるな~)

同居していた義父母が亡くなったあと遺品整理をしたのたが、義父母の物は我が家にあるためゆっくり少しずつ片付けができた。が、父の場合は賃貸マンションを借りたまま施設に入ってしまったため、早くマンションの片付けをしないと施設の入居費用とマンションの家賃と二重払いをすることなってしまう。あまりにも急に施設入居が決まったため、父も片付けで心身共に疲れていると思うが、今月末の退去が終わるまであと一踏ん張りしてもらわなくては。

今までは「私も年を取ってきたしそろそろ少しずつ『断捨離』しなきゃいけないな」と思いつつ全然できないでいた。が、今回のことで、体が動くうちに使わない物などはどんどん処分していかなくちゃと真剣に思うようになった。父の方が片付いたら、今度は私のものも減らしていくぞ~。マンション押し入れの中には、引っ越した当時から一度も開けていないと思われる箱がいくつも出てきた。我が家にも、そういう『開かずの箱』がたくさんある。いつか使うかもしれないものって結局使わないままだったり、いざ使おうとするとどこにしまい込んであるのかわからなかったりするから、ないのと同じだよなって思える。

今日・明日は、私と父は2日間完全休憩でマンションに行かないことにした。月曜からはラストスパート。生前整理最後のまとめ記事は、マンションを退去したあとに書きますね~。

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生前整理 2

2018-02-16 07:48:50 | 介護

施設の部屋には元々タンスはあるのだが、マンションからもタンス1つと小さな家具などを持って行くことになった。今までにも少しずついろいろなものを持って行っていたのだが、昨日、引っ越し屋さんに家具を運んでいただいたことで、父も少しほっとしたようだ。まだまだ片付け途中ではあるが、今日は生前整理をしていただく予定の業者さんに、処分する家財道具などの見積もりをしていただく。

今は、生前整理・遺品整理をしてくれる業者さんがあり、すべて綺麗に処分してくれるようだが、引き出しの中などにも必要な物と不要なものがあるので、父がすべてのものに一度は目を通すと言っている。個人情報の書かれている書類やアルバムや勤めていた頃の仕事関係のものは出せないし、数々の思い出の品や好きで集めていたガラス製品や陶器類などは、業者さんが運び出すのを見ると淋しくなるというので、結局それらは私がいったん自宅に持ち帰り、仕分けして処分することになった。

仕事関係の資料はすごい量。シュレッダーにかけるのも大変なので、生ゴミと一緒に少しずつ可燃ゴミに出すことに。また写真は今のようにデータ保存のできる時代ではなかのでアルバムは何十冊もある。しかもポケットアルバムだけではなく、昔の分厚い表紙の重いアルバムが多い。何回にも分けて可燃ゴミ処分。陶器類はリサイクルに出したり、ガラス類はリサイクルに出せないので不燃ゴミへ。高価だと思われる物は、とりあえず段ボールにいれ物置へ。次から次へと持ち帰る物があり、臨時の荷物置き場になっている我が家の仏間は今、大変なことになっている。(仏間しかあいている部屋がないので)

朝、父を施設に迎えに行ってマンションに行き、夕方までマンションにいるので時間はたっぷりありそうなのだが、今年90になる父は、立ち上がるときも支えなければいけない状態で、とてもゆっくりとしか動くとができない。また、時々休憩をしないと疲れてしまうので、マンションにいる時間は長くても、実質片付けている時間はそれほどない。父が動けないから、私がさっさとやってしまおうとすると、せかされているようだからあまり動き回らないでほしいというので、片付けの効率がものすごく悪いのだ。本人以外にとってはなんでもないと思えるようなものでも、本人にとっては思い出のあるものがたくさんあるので、娘だからといってなかなか勝手に処分していくこともできない。かといって、あれもこれも持って行けないので、父がそれぞれの思い出の品との別れを決心するのを待ち、片付けをしながら思い出話を聞くことも私の仕事と思い、日々を過ごしている。

         つづく

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生前整理 1

2018-02-15 07:12:26 | 介護

先日『花まる日記』に少し書いた『中馬のおひなさん』の続きをこちらで書こうと思ったが、その前に、今月に入ってからのバタバタの話を・・・

もともと悪かった父の体調と足の具合が、去年の秋に母が亡くなったあとますます悪くなり、一人暮らしは難しい状況になった。『施設に入る』ということなど、それまで父の頭の中には全くなかったのだが、部屋の中での移動も大変になってきたので、年末に施設で1週間ほど体験入所してきた。そこは認知症の方はいらっしゃらず、介護度からいうと軽い方が入られている施設だ。なかなか気難しいところのある父なので、気に入ってくれるか心配したが大丈夫そうだったので、年が明けたら入所の方向で考えるということになった。

年が明けて十日ほど過ぎたところでケアマネさんに体験入所をしてきた話をすると、父の今の状態で一人でいるのは厳しいので、体験したところを気に入っているのなら、なるべく早く入所した方がいいとのことだった。父は三月か四月に入所し、それまでに少しずつ準備をするつもりでいたのだが、ケアマネさんから「とりあえず体ひとつですぐに施設に入って、マンションはそのまましばらく借りておいて娘さんと一緒に片付けをされていったらどうか」という提案があった。私も新年早々風邪を引いたりしていたので、この先も私の体調が悪かったりしたときに、父の日常の手伝いや通院している病院にも連れて行けなくなることが気になったので、ケアマネさんの提案に賛成をした。

父はまだ心の準備もできていなくて、しぶしぶだったが2月1日に施設に入所し、2月末にマンションを解約することにした。そして、その1ヶ月間に私とマンションに通って片付けをすることになった。おおざっぱな私と違い、父はものすごく几帳面で、部屋の中も本当に綺麗に片付けている人なのだが、物を捨てることができない人でもある。

6年前に、自分が設計して建てた前の家から、我が家から近い今のマンションに引っ越したのだが、その時点で母は特養にいたのでマンションでは一人住まいになる。にもかかわらず、持って行く物を減らすよう何度も言ったのに、実家の荷物のほとんどをマンションに持ち込んでしまった。なので、80過ぎのおじいさんの一人暮らしなのに、3LDKの部屋にしっかり荷物を移動していったのだ。我が家の室内よりもずっと整理整頓されているし、押し入れの中など見えないところも感心するほどきちんと片付けられているが、物の量は半端ない。

突然施設に入り、マンションを解約するまでの1ヶ月間で片付けるのは想像以上だった。施設に持って行く物は限られるため、今回は引っ越しではなく生前整理となり、ほとんどのものを処分するので仕分けがとにかく大変なのだ。

               つづく

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母のこと 7 (最終回)

2017-12-10 08:13:20 | 介護

他の記事が間にいくつも入り、とびとびになってしまった母の記事ですが、これで最終回となります。(ブログ、右欄にある『カテゴリ』の下の方にある『介護』に、今までの記事がまとめてあります)

今年の7月にまた誤嚥性肺炎で入院し、その時点でもう口からものを食べることは無理ということとなり、退院後は今までいた特養を出なければいけなくなり、24時間看護士さんのみえる施設へと変わりました。そこから母が亡くなるまでのことは『母のこと 1』(→【こちら】)に書きました。

新しい施設に入所してから亡くなるまでの間、母が穏やかな優しい顔で過ごせ、マロの名前を呼んでみたり、鼻歌のようなものを歌ってみたり、帰り際に手首から先で手を振るような仕草を見せたりしたりしたことは、本当に奇跡としか思えません。

眉間に皺をよせたまま無表情で過ごしていたことの多かった特養にいた時には、自分に課した義務のように週一で母に会いに行っていた私も、最後の2ヶ月間(入院時も入れると約3ヶ月間)は、母に会うのが楽しみで毎日施設に通っていました。パパや子供たちも特養にいたときはあまり母のところに行っていませんでしたが、何度も会いに行ってくれました。ワンズも何回か連れて行き、母はワンズの姿をずっと目で追い認識していました。いろんなことのあった22年間でしたが、穏やかに静かに逝けたことが、母にとっても家族にとっても、ありがたいことでした。

父は、アルツハイマーの母を残して先に死ぬことはできないとつねづね言っていました。その役目を果たすことができてほっとした気持ちがあるのと同時に、父は今、疲れが出てきています。2~3年ほど前から杖をついて生活していましたが、母が亡くなってからは体力も落ちてきていて、杖をついていても歩くのが困難になってきているため、老人ホームに入ることを検討し始めています。平日は私が手伝いに行ったりしていますが、施設に入所していた方が父も安心できるようなので。

生まれたばかりの赤ちゃんが成人する期間より長くアルツハイマーと闘ってきた母。定年退職したあと第二の仕事も勤め上げ、これから母とゆっくりした時間を過ごそうと思ったと同時に母の病と闘うことになった父。人生は予測不能ないろんなことがありますね。この先、今度は自分がどうなっていくのか、それも不安です。

『母のこと』の記事の中で、徘徊や昼夜逆転、穏やかだった母の人格が変わってしまったことなど、アルツハイマーによる経験を綴りましたが、この病気は人によって出てくる症状はいろいろのようです。もっと症状の軽い人もいれば重い人も。それらはみな、本人が悪いのではなく病気がそうさせています。わかっていても、介護をしている人にとっては大変なことです。高齢化社会の世の中、どの家庭でも家族がこの病気にかかる可能性は0ではありません。もし、家族の誰かがそうなってしまったら支援を受けられるところを利用したりして、決して一人が抱え込まないようにしてくださいね。

      【 不思議な話 】

母が亡くなったその時刻に、父の腕時計が止まっていました。

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母のこと 6(特養での後半4年間)

2017-11-29 08:43:47 | 介護

前回書いたように、8年間特養にいた中の前半は母の精神状態が一番荒れていた時でした。後半になると荒れていた時は過ぎましたが、ますますいろんなことができなくなり、以前はトイレまでは車いすで連れて行ってもらっていたのも完全に紙オムツになりました。そして、食事もペースト状のものになりました。前半が『荒』『激』という感じの4年だったとしたら、後半は『無』に近かったと思います。無というのは、表情がなくなり(いつも眉間に皺が寄っているような顔でした)、声を出すこともほぼなくなったからです。そしてそれは『静』とはまた違い、本当に『無』という感じでした。

特養に入所したとき、ある介護士さんから「施設に入れると、近くに住んでいても会いに来られなくなるご家族はけっこう多いんですよ」と言われた言葉がずっと心にあって、週に一度は必ず母に会いに行っていましたが、それは自分自身に課した義務のようになっていました。グループホームにいた頃は、まだ多少会話のできるときもあったし笑顔をみせてくれることもあったので、車いすで外に連れ出し、季節の移り変わりを楽しんだりもしていました。特養に行ってからも、前半は気分転換に車いすで外のお散歩に連れだしていましたが、後半はそれもできなくなりました。顔をのぞき込んでも、視線が合うことすらなくなりました。なので、後半は会いに行っても母の手を握ったりしているだけで、何もすることがないためすぐに帰りたくなり、施設に行くのもおっくうになりながらも通っている状態でした。そして母は食べ物の飲み込みが悪くなってきたため、年に2~3回、誤嚥性肺炎で入院するようになりました。特養にいた8年間を見ていて私は「家族の顔もわからない。動けない。楽しみもない(←いつも少し怒りの入ったような無表情の顔をしていたので) 母は、こんなふうに生きていることをきっと望んでいない。こんな病気になるなら私も生きていたくない」と思っていました。60代前半でアルツハイマーになり、それから22年こんな病気と闘い続けてきた母が、とてもかわいそうでした。

         つづく

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母のこと 5(特養へ) & 東山植物園ライトアップ

2017-11-25 07:26:38 | 介護

グループホームに入っていた母ですが、特養の空きができたと連絡があったのは、申し込みをして2年くらいたった頃だったと思います。特養に移る頃の母は症状も重くなっていました。特養には8年ほどいましたが、その前半は特に大変でした。穏やかで物静かだった母が、大きな声を出したり介護士さんや私たち家族をつねったりするようになりました。母と同じフロアーに、いつも「バカヤロー」と怒鳴り続けているおじいさんがいたのですが、それをまねしてなのか母まで「バカヤロー」と言っている時期もありました。母は言葉遣いがとても丁寧な人だったので、変わっていく母を信じられない気持ちで見ていました。私も週一で母のところに行っていましたが、行くたびに介護士さんの大変さをつくづく感じました。症状の軽い方もいらっしゃいますが、暴れる人、暴言を吐く人、寝たきりの人、いろいろな方が入所されています。大人のおしもの世話だって、赤ちゃんのそれとは違い本当に大変なことだと思います。頭がしっかりしている人だったら職員さんに対して、何かしていただいたことに対するお礼も言えますが、母のような頭の病気を患っていれば、介護していただいてもお礼など言えるはずもありません。それどころか、やっていただこうとしていることに反抗するような態度さえとったりして、それを見ている家族は職員さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。仕事とはいえ、笑顔で対応されている職員さんも、相当なストレスがかかっているだろうなと思えます。施設というのは、家族の手に負えなくなったような方が入られる場合が多いですが、そういう方のお世話をされている職員さんには頭が下がります。私にはきっとできない。        つづく

          紅葉ライトアップ 

昨日、パパの仕事帰りに東山植物園で待ち合わせをして紅葉のライトアップを見てきました。植物園のライトアップは、あと今日と明日の二日間なので、アップしておきま~す。

ライトアップは今日と明日の午後8時半まで。(入園は8時まで) もみじは緑の葉っぱも多かったし、今は昼間見るよりライトアップで見た方が綺麗かも~。

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母のこと 4(施設へ)

2017-11-24 07:50:16 | 介護

重い内容が続きますが、介護問題がいろいろ出てきている時代なので、ひとつの例として綴っていきたいと思います。

母の昼夜逆転が始まり、ついに父もダウン寸前になってしまったので、とりあえずデイサービスを利用することにしました。母が通所したところはサービス時間が短いところだったため、母のいない間に掃除や買い物や夕食の用意をしていると、あっという間に時間がなくなると言っていました。が、母にかかりっきりにならなくてすむことで、少しはほっとする時間ができたと思います。

それでもやはり、父の心労はどんどんたまっていった。介護疲れで殺人事件を起こしてしまったというニュースが流れると、「その気持ちがわかる気がする。どんなに悲しく苦しく辛い思いで手にかけてしまったことか」などと、口に出して言うようになったのをきっかけに、デイサービスではなく、父のために母が入所できる施設をなんとしてでも探さなければと思いました。どんなに愛する人であったとしても、認知症の人を自分がすべて背負ってしまおうとすると抱えきれなくなってしまい、心身ともに疲れ果て最後には最悪の結果になってしまう恐れがあります。

疲れ果てているにもかかわらず、なんとか母を自分でみてあげたいという父を説得し特養にお願いしようという結論を出しましたが、いろいろ回ってみると何百人待ちという状態でいつ入所できるかわからないということでした。とりあえず特養には申し込みだけしておき、はじめはグループホームに入りました。そのグループホームも、父の家の方では空きがなく、私の家の方で入ることになりました。その頃の母は、日によっては家族の顔を認識することや、意思疎通も少しはできることもありました。父は週に一度、バスと電車を乗り継いで母に会いに行き、車いすを押しながらグループホームの周りをお散歩しながら楽しんでいました。父は、母を施設に入れた寂しさはあったと思いますが、心の余裕を取り戻すことができていました。が、グループホームにいる間にも、母の症状は進んで行きました。

        つづく

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母のこと 3 (闘い)

2017-11-21 08:23:00 | 介護

母の発病の頃のことを書いたあと、クロとチャロの誕生日が続き、その独占お出かけ記事を綴っていたので間が開いてしまいましたが、発病後のことを書こうと思います。

同じ事を何度も言うということはありましたが、病気の進行はとてもゆっくりでした。ただ、一日中母といて、同じ事を何度も聞かされる父のストレスはかなりあったと思います。それでも怒ることもせず、同じ亊に対して丁寧に答えていた父は、すごいと思いました。食事の準備は父が手伝いながらしていましたが、母ひとりにやらせると火をつけっぱなしにして危ないことが数回あり、母を台所に立たせることをやめました。また、一人で買い物に行くと言って出かけると帰れなくなることも出てきたので、母ひとりの外出もさせられなくなりました。

その頃には、施設に入れた方がいいと何度も父に助言したのですが、施設に入れるのは母に申し訳ないという気持ちのあった父は、まだ大丈夫と言い続けました。病気がもっと進行してくると、「もう帰らないと、お父さん(母の父親)に叱られる」と言って、母が子どもの頃に住んでいた家に帰りたがるようになり、徘徊が始まって目が離せなくなりました。母が子どもの頃に住んでいた家は空襲で焼けてしまってないのですが、夜中に勝手に鍵を開けて「帰らなきゃ」と外に出てしまうようになったため、父は母の手と自分の手を縛って、母が動き出すと目が覚めるようにしていたと言います。そして、ついには運転手さんに母の病気のことを理解していただいたタクシー会社の方と契約をして、母が夜中に子どもの頃に住んでいた家にどうしても帰るときかないときは、深夜でもタクシーを呼び自宅近く走っていただいて、途中で車を降りて少し歩き「もう家は空襲でなくなってしまったんだよ」と言い聞かせ、また自宅へ送っていただく日々が続きました。

           つづく

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母のこと 2 (病の発症)

2017-11-07 08:25:48 | 介護

アルツハイマーとの診断を受けてから22年と書きましたが、その2年ほど前から物忘れが多くなりました。母の姉妹たちからも心配の声が上がっていましたが、神経内科に連れて行こうと思っても、「そんなところには行きたくない」というのでなかなか診断を受けることもできませんでした。

当時は、今のようにネットでいろんなことを調べるというような時代でもなかったし、アルツハイマーと聞いても、私はそれほどピンときていなかったように思います。やっと母を医者に連れて行くことになったとき、私もついて行きましたが、診断を受けたあと「3~4年の命かもしれない」と、母のいないところで父は言われたそうです。

父は元々真面目すぎるくらいの性格で、しかも先が短いかもしれないと言われたため、全部自分で面倒をみるという覚悟を決めたようです。ただ、進行具合はゆっくりだったため、はじめのうちはそれなりにやっていけたのだと思います。

そのうち同じ事を何度も繰り返して言うようになりましたが、先生からは「本人はその自覚がないのだから、さっきも同じ事を言ったでしょなどと言わないように」と言われました。私は週一で実家に行っていましたが、いる間だけでも、同じ事を何度も何度も繰り返して言われることに、とてもストレスがかかりました。当時、主人の親と同居していたので、それを口実に「もう帰るね」と早めに帰ったりしていました。私は家に帰るという逃げ道があったけれど、一日中母といる父には、その逃げ道もなかったんだと今さらながら思います。

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母のこと 1 (感謝)

2017-11-06 08:15:43 | 介護

アルツハイマーと診断されてから22年。母は静かに旅立ちました。

ここ数年、年に2回ほど誤嚥性肺炎で入退院を繰り返していましたが、今年の7月に誤嚥性肺炎で入院したときは、今後もう口から物を食べることは難しいということで、点滴だけになりました。(経管チューブや胃ろうは希望しなかったので) 入院前は特養にいましたが、退院後は24時間看護士さんのみえる施設にかわらなくてはいけないということで、病院から紹介されたいくつかの施設に実際に行ってみて、ここならと思うところに入所しました。(特養はなかなか入所できませんが、24時間看護士さんが常駐されている老人ホームはお値段も高いということもあってか比較的あいています。お値段のことを考えると、長期入所は難しかったかも

パンフレットの写真がいくら綺麗でも、実際に施設に行ってみると写真と全然違っていたり、職員さんがめんどくさそうに対応されたりいろいろだったので、足を運ぶことは大切だと思います。母が入所したところは小さめの施設でしたが、どの職員さんも皆さん明るく、とても優しく対応してくださったので、母の最期の場所がそこで本当に良かったと思います。

敬老の日には、入所者さんにご馳走がふるまわれたようですが、母のように食べることのできない人(女性)には、爪をこんなに可愛くしてくださいました。母はとてもおしゃれな人だったので、こういうことをしていただいたことを理解していたらとても喜んだと思います。

また、ペットと入所することはできませんが、連れて行くことはできたので、ワンズたちも何度か連れて行きました。

ここに入る前は視線が合うことはなく、眉間に皺を寄せていることも多く、声を発することもほぼありませんでした。が、ここに来てからは本当に穏やかな顔で、時折笑顔も見せ、なんとマロを連れて行った時に「またマロちゃんが来たよ~」と言うと、母の口から「マロ、マロ」という言葉まで出たこともありました。娘と行った時に「バイバイ」と言うと、手首から先を左右に振るようなしぐさをしたので、驚いた娘は思わず動画に撮っていたということもありました。

この施設に入所して2ヶ月ちょっと。母がまるで寝ているかのように穏やかに顔で逝けたのも、職員の皆さんのおかげと心から感謝しています。私も病院にいるときからあわせると、3ヶ月近く毎日母に会いに行っていたので後悔はありません。長い間病と闘ってきた母には、よく頑張ったね、ゆっくり休んでねという気持ちです。

ただ、アルツハイマーというのは人によって症状は違うかと思いますが、回復もできない、終わりも見えないという本当に大変な病気です。そのことについては、また次回書こうと思います。

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いろいろあった夏 2 (父のこと)

2017-09-06 08:04:02 | 介護

母の入院は1ヶ月以上ありました。その間に、なんと父まで入院。父は1年半ほど前に、ある病気が発覚し定期的に朝から夕方までかかる点滴をしながら治療を続けています。8月初めにその点滴の日が来たのですが、当日病院に行くと熱があるから点滴治療はできないとのこと。おまけに、微熱でしたが「大事をとって入院してください」と言われました。それが、北海道旅行に行く2日前のこと。旅行、どうしよう…と思いましたが、先生からは様子を見るための入院だから心配ないので行ってきてくださいと言われ、父からも旅行のキャンセルをする必要はないからと言われたので行くことにしました。入院していてくれれば安心という思いもあって、せっかくの旅なので出発しました。

結局父は熱が続いたので一週間ほど入院したあと退院しました。もともと点滴治療の副作用で足元がかなりおぼつかなくなっていますが、それに加えて、入院中に耳に異常が出てしまいました。入院していたのは総合病院でしたが、そこの耳鼻科では治療は難しいとのこと。検索して調べたみましたが、やっかいなものらしく、なかなかその病気を診ていただける耳鼻科がないようでした。が、ある総合病院で治療が受けられることがわかり、そこに行ってきました。新患ということもあり、病院に着いてから診察を受けるまでに(その間にいろいろな検査はありました)4時間弱かかりましたが、おかげさまで少し楽になってきています。

杖をついていても不安定な足元に加え耳の異常で、父にとって日々の暮らしが大変な日々だったので、私も平日は病院の付き添いや日常生活の手伝いでバタバタしていました。そんな父の不調と母の施設の移動などが同時期に重なって私が忙しくしていたことを父が心配して、土日は手伝いに来てくれなくていいからゆっくりしてと言ってくれたので、土日はリフレッシュのするために父のところの手伝いは半日くらいにして、あとはお出かけして楽しんだりしてました。8月の終わりには父の耳の状態も少し改善され父も元気が出てきたので、今はちょっと様子を覗きに行く程度です。

 

いろいろあった夏でしたが、ワンズがいてくれてほんとによかった~。疲れて帰ってきても、ワンズがお帰り~って走ってきてしっぽをブンブンしてくれるだけで疲れなんて飛んじゃうから。バタバタした中でも、休みの日などにお出かけしていたので、たまった写真を順番にまたアップしていきますね~。

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いろいろあった夏 1 (母のこと)

2017-09-04 07:56:35 | 介護

皆様~、お久しぶりでございます。こちらをお休みしている間に『花まる日記』にも書きましたが、7月~8月にかけて、私の周りではいろいろなことがありました。読んでいただいてもつまらない内容と思いますが、記録として残すことにしました。

7月、パパがある検査を受けたあとそのまま手術となり(日帰りですぐに終わるものでしたが)、1週間ほどお粥やうどんの生活になりました。職場ではパンを食べていたようですが。

それが落ち着いた頃、母が入院。今までにも年に数回ずつ誤嚥性肺炎で入院していますが、今回も同じ誤嚥性肺炎でした。肺炎は良くなりましたが、主治医の先生から退院後は24時間看護士さん常駐の施設に変わるよう言われました。入院前までは特養にいたのですが、そこは夜間に看護士さんが不在となるため戻ることができません。施設を変わるにあたり入院していた病院から、24時間看護士さんがいらっしゃるところをいくつか紹介していただきました。パンフレットもいただきましたが、こういう施設は足を運んでみないとわからないことがいろいろあります。パンフレットには綺麗な施設の写真が写っていても、実際に行ってみると、ここって掃除してるの?と思えるような所だったり、スタッフさんの対応がひどいところもありました。(たまたま、対応したその人だけがひどかったのかもしれませんが)

いくつかの施設見学をしているのと同時進行で、母がいた特養から荷物をひきあげる作業もありました。母は個室にいたのですが、こんなにいろいろ置いてあったのかと思うほど多くの荷物がありました。四季の服やパジャマや日用品の他、小型の家具もあったし車椅子も自分用のものを買って使っていたので、それらをとりあえず我が家に置くことになったため、家の中はゴチャゴチャになりました。

そしていくつかの施設を見て回ったあと、8月後半(お盆すぎてから)スタッフの皆さんがとても気持ちのいい対応をしてくださった今の施設に入所しました。以前いた特養には8年半ほどお世話になりましたが、全国の特養の待機数は各都道府県で数千人ずつと言われています。母が入所するときも、申し込みをしてから1~2年待ったと思います。(待っている間はグループホームにいました) 待機数の多い特養に比べ、有料老人ホームやサービス付き高齢者住宅は値段が高いためか、あきのある施設はいろいろあるようです。母の場合、今までいた特養では受けられない医療を受ける必要性があるので、今回有料老人ホームに変わりました。 

母は20年前にアルツハイマーとの診断を受け、ここ何年はほぼ無表情で声をかけても視線も合いませんでしたが、今は行けば目があい声をかければ、言葉にはなっていませんが声を出すようになりました。表情がとても穏やかになり、家族もホッとしています。特養にいたときは週一で、自分に課した義務のように母のところに行っていましたが、今は母に会いたい気持ちで毎日通っています。

            つづく

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老いるということ

2010-06-11 08:15:41 | 介護
今日の話題はちょっと重いので、コロたちに会いに来てくださった方は、写真だけ見て記事はスルーしてくださいね~。

3月半ばに転んでケガをし毎日医者通いをしていた義父。5月になり医者通いも一日おきとなり、このまま治っていくかなと思っていた。が、今度は外傷からではなく体の病気から足が腫れだし、6月に入ってからまた毎日の通院となった。医者は30分で終わることもあれば2時間近くかかることも。自宅で待っていると私の動きが取れない。(公衆電話から携帯にかけると、10円ではあっという間に切れてしまうので、携帯にかけるのは嫌らしい) 医者以外に連れて行くときは、公衆電話自体がない場所も多いので、携帯を持ってもらうことにした。ややこしくない簡単携帯だ。携帯をパカッと開くと、もうそこに3人の名前が登録されてあり、掛けたい名前の人の番号(①~③)とを押すだけで繋がる。これで私自身も動きが取れるようになり、少し楽になる。
 

さて、母のことは以前からここに書いているが、症状のひどいときは精神安定剤を飲ませていただくよう施設にお願いしてある。しかし、副作用が心配とのことで、少し良くなると、すぐに中止してしまう。ここ2週間くらいまた症状がひどく、暴言をはいたり、何を言っているのか聴き取れないが怒りの表情でしゃべり続けたり、ものすごい力で掴んできたり、噛みつこうとしたり…。薬の服用をお願いすると、介護士さんもそうしたいようだが主治医の先生は飲ませない方がいいと言われているようだ。


そこで、火曜日の午前中にある定期検診で、直接先生と話をすることにした。以前の施設にいたときは、神経内科の先生に診ていただいていたのだが、今は精神科の先生だ。週に一度母の所に通っている父は、GWあたりから、どうも体調がイマイチなので、私1人で先生に会うことにした。飲んでいる薬のことを調べたら重い副作用のこともついていたので、父にはショックな話があるかもしれないため、直接聞かせたくなかったとこもあったし。


先生が回診にみえたとき、母は大声をあげ暴れそうになっていた。そして、別の部屋で先生と話をしたのだが、副作用が怖いが、この症状では飲ませた方がいいかもしれないとのこと。軽い薬では今の症状はもう抑えられないらしい。今使っている少し強い薬を、今後続けるかどうかについては、私が「よろしくお願いします」と言った。


母は 60を過ぎた頃にアルツハイマーになった。当時は、この病気になると7~8年の命とも言われていた。が、進行が緩やかであったこともあって、父が1人でなんとか11年間自宅介護をした。そして、いよいよ昼夜逆転と徘徊が始まり、もうどうにもできなくなったところで施設に入所した。それから4年。 発病してもうすぐ15年なのだ。今の母に対しては、怒りの中で長く生きることではなく、残りの人生を穏やかな気持ちで過ごさせてあげたい、それが私と父の願いだ。そのことも先生にも伝えた。


そして、薬を続けることになった。施設を出た後、実家に行き先生との会話を伝えた。父は涙が止まらなくなった。夫婦(父と母)、親子(母と私)という立場の違いからなのか、性格からなのかわからないが、私はものすごく冷静だった。父は、穏やかに過ごさせてあげたいと言いながらも、副作用で母の命を短くしてしまうのではないかと、自分を責めるような気持ちになっていた。私は、母は今まで十分病気と戦ってきたのだから、あと何年の命か解らないが少しでも穏やかに過ごすことができればそれでいいと思っている。


母よりも、一人暮らしの父の心のケアが、今は一番大事かもしれない。一人でいれば、母のことしか考えないに違いないから。 翌日、父のことが心配で、連絡を入れずにコロたちを連れ、また実家に行った。父は泣いていたようだった。コロたちが大喜びで父に甘え、実家の中を走り回り、父に笑顔が戻った。私が1人で父の所に行ったところで、父はきっと涙が出てきただけだと思う。コロたちに感謝。


その日の夜、父から電話があった。コロたちが行ったことが嬉しかったとのこと。先生からの話を伝えた夜は眠れなかったらしいが、そんな時、突然ふと、コロたちに会ってみたいなとチラッと思ったんだそうだ。離れて住んでいて、たまにしか会わないコロたちだけど、犬好きの父には心の支えになってくれているんだなぁ。


年を取っても元気に活躍している方が時々テレビに映ったりしているが、逆に孤独なお年寄り、老々介護をしている人たち、体に故障があったり不安のある人は、元気な人以上に多いんだと思う。誰にも平等にやってくる老い。長寿大国日本だけれど、長寿って幸せなんだろうか。元気に老いて行ければいいけれど、自分の身近な人を見ていると、老いって悲しい…そんな思いになる。


最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。来週からは、また元気なコロ・クロブログに戻ります。
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ペットと暮らすということ

2009-06-11 08:36:31 | 介護
ランに行った日の午後、母の所に行った。私は家が近いので週に1~2回、父は週1で、電車を乗り継ぎ母に会いにやってくる。今の施設に変わってから、もう4ヶ月ほどになるが、急激に進行が進んでいる。室内では歩いていたのに車いすになり、自分で食事をしていたのに、食べさせてもらうだけでなく粉砕食になった。また、昼間のほとんどの時間を寝て過ごすようになった。(この日、ケアマネさんから要介護4から5になったとお聞きした)初めの頃は、散歩がてらクロを連れて行くと、背中を撫でたりしていたこともあったが、今はクロを触れさせても全く反応がない。


なので、母のためにクロを散歩で連れて行くことはしなくなったが、今度は父のために、ちょっと前から車でコロも一緒に連れて行くことにしている。父は昔から、大の犬好きなのだ。(コロは相変わらず、ここでもちょっとした音にビクビクしているが


去年の秋、突然愛犬ジュリーを病気で亡くしてから、父は長いこと涙する日が続いていた。一人暮らしをしている父には、なくてはならない存在だったジュリーだっただけに、あまりにもショックは大きかった。私は、父に新しく子犬を迎えるよう言い続けていた。


父は自分が高齢だから、この先いつ入院することになるかわからないし、犬を迎えても最後までみてやれないから無理だと言った。が、そういう場合は、うちで引き取るということを伝えると、もし逆に自分が長生きしても、また愛犬の死と直面することになったら、それももう耐えられないと言う。


犬が無理なら、小鳥やハムスターは?と聞くと、やはり高齢になってから大事な家族(ペット)の死と向かい合うのは、飼っていないという淋しさよりも辛いからもう何も飼わないと言う。


父がこんな大笑いをするような姿は、ほとんど見ることがない。コロたちとふれあってるときの父を見ていると、大好きな犬と、もう一度一緒に暮らすことができたら、毎日の生活に張りもでるだろうし、話し相手もできるし、どんなに楽しい日々になるだろうと思う。が、やっぱりそれは私の勝手な思いこみなんだろうか。


高齢になって動物を飼うと言うことは、万が一自分に何かあったとき、他に面倒を見てくれる誰かを確約できていたとしても、逆にそのペットの死と直面する恐怖が若い人以上にあるのかもしれない。一人暮らしだから、なおさらその思いは強いのだろうか。こうやって、父が来るときにコロたちを会わせてあげることが一番なのかな。


ペットと暮らすということは、かけがえのない命と深く繋がっていることなんだと、あらためて思った。ペットと言っても、一緒に暮らしている家族の一員なのだから。
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