にゃんこのヨガ的生き方

毎日をゆったり、元気に機嫌よく暮らす

アドラー 「嫌われる勇気」

2022-08-31 10:15:21 | 
アドラー「嫌われる勇気」(ダイヤモンド社)より。文章は若干変えています。


大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか。

あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているから。つまり人は、いろいろと不満はあったとしても、「このままのわたし」でいることのほうが楽であり、安心なのだ。

「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることなどできない。

誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい。健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ価値がある。
対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。

「幸せそうにしている他者を心から祝福できない」それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「私の負け」であるかのようにとらえているから。

対人関係のカードは常に「わたし」が握っている。

対人関係の中で困難にぶつかった時、出口が見えなくなってしまった時、考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則。

大切なのは他者を「評価」しない、ということ。評価は縦の関係によるもの。

どうすれば人は勇気を持つことができるか。
自分には価値があると思えた時。
私は共同体にとって有益なのだと思えた時。
自らの主観によって「私は他者に貢献できている」と思えた時。
他者が私に何をしてくれるかではなく、私が他者に何をできるかを考え、実践する。ただ、「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ること。

自立すること。
社会と調和して暮らせること。
私には能力がある、という意識。
人々は私の仲間である、という意識。

「いま、ここ」、この刹那を真剣に生ききること。
人生一般には意味などない。
しかし、あなたはその人生に意味を与えることができる。
あなたの人生に意味を与えられるのは他ならぬあなただけ。

「他者に貢献する」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、何をしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。
自らの上空に他者交流という星を掲げていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにある。
そして刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きる。
過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きる。
誰かと競争する必要もなく、目的地も要らない。踊っていれば、どこかに辿り着く。



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キューブラー・ロス「永遠の別れ」

2022-04-15 21:08:21 | 
キューブラー・ロス「永遠の別れ」(日本教文社)より。

「もうひとつの喪失は過去の「あなた」であり、今回の喪失が起こるまえのあなた、再びそこにもどることのないあなたである。あなたはいままで、今回のような悲しみは知らなかった。世の中にこんなにつらい体験があるなど、想像もできなかった。慰めようのない悲しみに沈んだまま、そのときの「あなた」は自分が永久に変わり、粉砕され、破壊され、修復不可能であるように感じる。その一過性の感覚は消えていくが、あなたがもとのあなたにもどることはない。残ったのは新しいあなた、べつのあなた、別の目で世界をながめ、もとの自分に戻ることのないあなたである」

「人間が生きるということは、死を知るということだ。つまり、愛するということは、最終的には、手にしていた愛という恩恵を失うことなのだ」

「もし死がなかったら、生に感謝することなどできるだろうか?」

「人は永久に悲しみつづける。それが現実である。愛する人の喪失に「打ち勝つ」のではない。喪失とともに生きることを学ぶのだ。こころの傷は癒え、苦しんできた喪失の記憶のまわりに、新しい自己を再建するのだ。そしてふたたび無傷の状態にもどる。しかし、以前とおなじ自分にもどるのではない」
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過去と記憶。アフターダーク

2016-02-07 20:52:07 | 
村上春樹『アフターダーク』から。小説は何の盛り上がりもなく終わり、肩透かしをくらいましたが。それでも心に残る一節。



「マリちゃんは、今のお姉さんとはあんまりしっくりといってないみたいやけどね、そうやないときもあったと思うんよ。あんたがお姉さんに対してほんとに親しい、ぴたっとした感じを持てた瞬間のことを思い出しなさい。今すぐには無理かもしれんけど、努力したらきっと思い出せるはずや。なんといっても家族というのは長いつきあいなわけやし、そういうことって、ひとつくらいはどっかであったはずやから」

「私はね、よく昔のことを考えるの...それでね、一生懸命思い出そうと努力してると、いろんな記憶がけっこうありありとよみがえってくるもんやねん。ずっと長いあいだ忘れてたことが、なんかの拍子にぱっと思い出せたりするわけ...人間の記憶ゆうのはほんまにけったいなもので、役にも立たんような、しょうもないことを、引き出しにいっぱい詰め込んでるものなんよ」

「それで思うんやけどね、人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。ただの燃料やねん」

「もしそういう燃料が私になかったとしたら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとうの昔にぽきんと二つに折れてたと思う。どっかしみったれたところで、膝を抱えてのたれ死にしていたと思う。大事なことやらしょうもないことやら、いろんな記憶を時に応じてぼちぼちと引き出していけるから、こんな悪夢みたいな生活を続けていても、それなりに生き続けていけるんよ。もうあかん、もうこれ以上やれんと思っても、なんとかそこを乗り越えていけるんよ」

「そやから、マリちゃんもがんばって頭をひねって、いろんなことを思い出しなさい。お姉さんとのことを。それがきっと大事な燃料になるから。あんた自身にとっても、それからたぶんお姉さんにとっても」
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夜と霧

2013-06-29 09:01:53 | 
フランクル『夜と霧』再読。

フランクルは精神科医。ナチス強制収容所に収容された時の体験を記しています。

初めて読んだのは学生の時。
それからほぼ30年、先日NHK『100分de名著』を見て、再度読む気になりました。

http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/

前回私が読んだのは、本当にこの本だったのでしょうか? 全く記憶にない世界が広がっています。
私がこの本を理解するには、30年が必要だったのかもしれません。読み進めるうちに、少しづつ自分の中に何か新しいものがひっそりと生まれ、それは未だに私の中に残っているのでした。

『行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない』

『ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない...生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ...生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない...だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない...人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない』 

ほとんど宗教です。人間は非人間的な苛酷な環境にあっても、ここまでの高みに到達できるものなのか。
フランクルは強制収容所という体験からこの本を記しましたが、現代を生きる私たちにも、苦しみの中でどう生きるべきなのかを指し示してくれる本です。

訳本には、霜山徳爾版と池田香代子版がありますが、池田版を強くお勧めします(霜山訳は判りにくい)。

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空白を満たしなさい

2013-06-15 13:59:54 | 
平野啓一郎『空白を満たしなさい』読了。『私とは何か「個人」から「分人」へ』がなかなか面白かったのと、評判がよかったので期待していました。分人の考え方がこの小説のカギになっています。

世界各地で死んだはずの人間が生き返る現象が発生。主人公も自殺をした後、生き返る。本人は、自分がなぜ死んだかを知らない。家族から死因は自殺だったと打ち明けられるが、全く心当たりのない主人公は(実は自分は殺されたのではないか?)と、自分の死因を追求していく。

面白かったですよ。往復の電車はもちろん、踏切やエレベータ待ちの時間も読んだりしました。かなり読ませました。

でも読んだ後、何も残らなかった。これはライトノベル?ケータイ小説? 

実は、日々生きていく中でのひとつの物の見方を私はこの小説に期待していたのですが、死に対しても、自殺に対しても、生に対しても、表面を撫でる程度で実に浅薄。専ら「読み物であること」に徹しています。今の時代、多くの読者に読んでもらうためにはこのような形を取らざるを得ないのかと、穿った見方をしてしまいます。

Twitterを見ると『感動した』『重い』という若い人の声が多い。そう言った呟きを読むと、若い世代がどれだけ本を読まなくなって、ものを考えなくなっているのかを改めて思うと同時に、彼らが今の時代に感じている閉塞感に触れたようで、そちらの方が気になりました。

やっぱり図書館で予約が回ってくるのを待ってればよかったな。





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分人

2013-04-23 21:23:03 | 
平野啓一郎著『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読みました。

彼によれば、「本当の自分」「個人」というのは幻想である。人間にはいくつもの顔がある。家庭での自分、職場での自分、恋人や友人といる時の自分。彼はそれを分人と呼ぶ。私という人間はこれらの分人の集合体なのだと。

『誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体が、あなたの個性となる。10年前のあなたと、今のあなたが違うとすれば、それは、つきあう人が変わり、読む本や住む場所が変わり、分人の構成比率が変化したからである。10年前には大きな位置を占めていた当時の恋人との分人が、今はもう、別れて萎んでしまっていて、代わりにまったく性格の違う恋人との分人が大きくなっているとする。すると、あなた自身の性格、個性にも変化があるはずだ。個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない』

『...しかし、分人が他者との相互作用によって生じる人格である以上、ネガティヴな分人は、半分は相手のせいである。無責任に聞こえるかもしれないが、裏返せば、ポジティヴな分人もまた、他者のお陰なのである』

『個性とは、常に新しい環境、新しい対人環境の中で変化していくものだ』

『私たちは、隣人の成功を喜ぶべきである。なぜなら、分人を通じて、私たち自身がその成功に与っているからだ。私たちは隣人の失敗に優しく手を差し伸べるべきである。なぜなら、分人を通じて、その失敗は私たち自身にも由来するものだからだ』

感覚でとらえていたものが言語化されたという感じ。自分と他者との関わりを改めて見つめなおすきっかけを与える本です。
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整体入門、他

2013-03-30 21:17:44 | 
野口晴哉『整体入門』、近藤誠『どうせ死ぬなら「がん」がいい』を読みました。

『整体入門』は判りにくい部分が多かったのですが、一言で言えば風邪だろうが腰痛だろうが、「自分の体の不調は自分で治す」という考えに貫かれています。この考えには心底納得しました。自分の体と向き合うことが大事なわけです。これはヨガや太極拳、気功などと相通ずる部分があります。

気の巡らせるのに両掌を指を広げて合わせ「指先で呼吸する」という表現に、最初は(?)と思ったのですが、実際に行ってみるとこれまでより気を感じます。図書館への返却期限のため読み返せませんでしたが、風邪の治し方のくだりなど興味深く、もう一度読んでみたいと思いました。

『どうせ死ぬなら「がん」がいい』。死は負けではないこと、生物の自然な最後であることを改めて納得する本です。私は既に生殖も子育ても終えたことであるし、何か異物が体内にできたとしても、徒に手術して体に重い負担を与えるより、場合によっては放置したまま最後を迎えるのもよいかもしれないと思いました。

いずれの本も、読み手によっては「トンデモ本」かもしれませんが、私にとっては興味深い本でした。ひとつの考え方のとしてお勧めします。
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のこされた動物たち 待ちつづける動物たち

2012-06-01 22:42:44 | 
本を借りてきました。

『のこされた動物たち』 『待ちつづける動物たち』
(いずれも、写真・著:太田庸介、飛鳥新社)

福島第一原発20キロ圏内に残された動物たちの写真と、
著者のコメントで構成されています。

『のこされた動物たち』は、事故後3ヶ月の間に、
著者が現地へ足を運んで、撮影した写真や目にしたことを記した本です。

『待ちつづける動物たち』は、事故から1年後の様子です。

2冊を比較して、状況は変わらないどころか、悲惨度を増しているのが判ります。

人馴れしている犬猫たちの中には、
ボランティアの人たちに保護された子も多かったようですが、
その機会に出会えなかった子たち、
見知らぬ人間に心を開かない警戒心の強い子たちは、
ボランティアの人たちが置く食べ物で細々と命をつなぎ、
或いは、つなぎきれずにひっそりと死んでいっています。

また、どこへ連れて行くこともできない牛、豚等の家畜たちは、
牛舎豚舎で身動きできないまま餓死したり、殺処分されたりしました。
当たり前ですが、狸等の野生動物も被災しています。

飼い主を待ち続けて、繋がれたまま息絶えた犬。
道路に落ちている、食べられて背骨と頭部だけを残した犬の遺体。
道路に横たわるミイラ化した猫の遺体。
飢えた果てにビニールを食べる牛。

非常に多くの人たちが被災しました。動物たちも被災しました。
被災したことに違いはありません。
大きく違うのは、生き残っても、動物たちは自主的に避難できないことです。
飼い主たちは連れて帰りたくても、避難所暮らしでは連れて帰ることができません。
引っ越した先の住宅事情が許さない場合もあるでしょう。
或いは、連れて帰る飼い主が、この世にもう存在しない場合もあります。

動物たちはものを言わないだけに、実情に胸をつかれます。

3/11以降、何も終わってはいないのだということを思い出させ、
自分には何ができるかを考えさせられる本です。
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アンナ・カレーニナ

2012-05-22 21:49:07 | 
本でも映画でも、気に入ると何度でも繰り返し読み、観ます。

愛読書のひとつがトルストイの『アンナ・カレーニナ』です。

トルストイの作品は人物の造形が実に素晴らしい。
主人公はもちろん、脇役に至るまで、
文章からそれぞれの人物の姿形が、視覚的に浮かび上がってきます。
恋だけでなく、宗教、倫理、政治、農業、身分制度、あらゆることが描かれた小説です。

アンナは夫と息子がありながら、ヴロンスキーを愛し、家を出ていきます。

アンナは息子に会いたい気持ちを抑えることができません。
とうとう息子の誕生日に、人目を忍んで会いに行きます。

『アンナはむさぼるようにわが子をながめていた。
自分のいないあいだに、わが子がすっかり大きくなって、変わってしまったのを見てとった。
アンナは毛布の下から出ている、いまやこんなにも大きくなっているあらわな足に、
見覚えがあるような、ないような気がした。
そのやせこけた頬や、前にはよく接吻してやった、
頭のうしろの短く刈った巻き毛には、見覚えがあった。
アンナはそれらを残らず手でさわってみながら、ひと言も口がきけなかった。
涙のためにのどがつまってしまうのであった』

『アンナはさようならといえなかった。しかし、母の顔色は、そのことを語っていたし、
セリョージャもそれを悟った。
「かわいい、かわいいクーチックちゃん!」
アンナは、小さいときに呼んでいた名をいった。
「ママのことを忘れないわね?坊や・・・」
アンナはもうそれからさきをいうことができなかった。
あとになってから、アンナはわが子にいえばよかった言葉を、
どんなにたくさん思いついたことだろう。
でも、今はなにひとつ思いつかなかったし、いうこともできなかった。
しかし、セリョージャは母が自分にいおうと思ったことを、なにもかもすっかり悟った。
母はふしあわせであり、自分を愛してくれていることを悟った』

(『アンナ・カレーニナ』 著:トルストイ 訳:木村 浩、新潮社)

最初に読んだのは18才。読後の感想は毎回少しづつ異なります。
このような本に出会えたのは、人生におけるひとつの幸せであると、この年になって思います。

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開拓者たち

2012-03-26 17:22:48 | 
『開拓者たち』を読みました(北川恵著、幻冬舎)。

口減らしのため「大陸の花嫁」として日本の寒村から満州に渡り、
満州開拓民の日本人と結婚した女性が主人公です。

満州での開拓、束の間の静かな暮らし、
ソ連侵攻、逃避行、帰国、那須での再度の開拓。
実際に満州にあった千振開拓団を経て、那須を酪農の地に変えた
人たちの実話を元に書かれています。

通勤車内で読み、駅から降りて会社へ向かう時、
それまで入り込んでいた本の世界からやっと抜けてきながら、
(私は何の心配も要らないところにいるのだった...)
と安堵したのを覚えています。

開拓民が耕していた満州の土地は、地元農民のものだったものを
日本政府が強制的に取り上げたこと。

開拓民として満州に入った人たちは、寒村の農家の次男坊、三男坊など、
日本で食い詰めた人たちが多くいたこと。

シベリアに抑留された人たちは、軍人だけでなく民間人も多くいたこと。

留用者と言って、戦争が終わった後も大陸に留め置かれた人たちが多くいたこと。

現在の那須の酪農は、開拓民の賜物であったこと。

恥ずかしながら、知らなかったこと、知ろうとしなかったことが多くありました。
この本を読むことで、欠けた箇所が埋まり、
おぼろげながら歴史の流れが見えるようになりました。

合わせてNHK BSで放送された全4話も観ましたが、
こちらは当時の映像や、開拓民・抑留者・留用者・
元関東軍軍人等の証言が多く盛り込まれています。

人は場所と時代に密接に関係しています。
どの国のどの時代に生まれるかによって、人生は大きく変わります。
困難にある時、失意の時。そんな時、
かつて夢と希望を失わずに生き抜いた人たちを思い起こしたい。
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