獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

池田大作“怪物”の正体 創価学会の略史 (その2)

2023-12-01 01:58:02 | 創価学会・公明党

池田氏の逝去後、週刊文春では池田氏と創価学会に関する特集を組みましたが、d-マガジンでは、そういう目玉の記事は載せないようです。
しょうがないのでコンビニで立ち読みしました。
そして興味深い内容を含んでいたため、購入しました。
池田氏と創価学会のあゆみが、良くまとまっているので、記録に残したいと思います。


週刊文春 11月30日号
特集:池田大作創価学会名誉会長“怪物”の正体

(つづきです)

「総理大臣になりたい」

「会見を開いた中西は『金庫もカネも自分のもの。土産物などの売上を脱税して不正蓄財した』と説明しましたが、中西が池田の側近中の側近だったことから、池田の裏金ではないかと疑われた。中西は組織を離れて真相もうやむやになりましたが、この件が引き金となり、学会に国税局の税務調査が入ることになるのです」(同前)
カネについての真相は措いても、創価学会が1億7000万円もの大金を誤って廃棄するほどの資金力を誇っていたのは疑いの余地がない。では、その頂点に君臨していた池田自身の懐はどれほど潤っていたのか。
2005年まで国税庁が公表していた「高額納税者番付」を紐解くと、平成以降、池田の納税額は、1億円前後から2億円台前半で推移。うち、最も高額だったのは、1994年度の約2億4000万円だ。当時の所得税最高税率は50パーセント。概算で池田の推定収入は約5億円となるのだ。急成長を遂げた創価学会。その過程では、反社会的勢力とも交錯した。
1970年代、創価学会は、静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山・大石寺周辺の土地を買収。正本堂を建て、広大な墓地を造園した。その過程で地元住民と軋轢が生じた際、収束に向けて協力したのが、山口組きっての武闘派として知られた後藤組元組長の後藤忠政だった。
両者の蜜月関係は、後藤が2010年に刊行した回想録「憚りながら」(宝島社)に詳しい。地元市議会に百条委員会を設置する動きが出ると、
〈地元の公明党の連中を通じて(百条委員会を)「何とかして欲しい」という相談があったんだ。それで(百条委員会設置)賛成派の連中に“話”をした〉
創価学会側の窓口は、顧問弁護士だった山崎正友や池田の側近として知られた都議会のドン・藤井富雄だったとされる。だが、その後、創価学会側は「うちは一切知りません」と、態度を翻したという。後藤は著書の中でこう断じている。
〈学会、いや、池田大作のために、それまで散々働いてきた連中や、俺みたいに協力してきた人間を、用済みになったと思ったら、簡単に切り捨てるようなやり方が許せんのだよ〉
創価学会に尋ねると、同著での記載については「そのような事実はありません」(広報室)と回答する。だが、同著の取材・構成を担当したノンフィクションライターの西岡研介はこう証言するのだ。
「本の記述について、創価学会側から抗議や訂正要求を受けたことは、一度もありません」
教勢が拡大するほど生じる歪みや、噴き出す醜聞。こうした中で池田が、庇護求めて接近したもの。それが「政治」である。
    ◆
「池田氏には入信した時から『教団を大きくして、いつか天下を取りたい。総理大臣になりたい』という気持ちがありました。周囲もその悲願を達成させてあげたいと考えていたんです」
ある学会の元幹部はこう打ち明ける。
実際、池田は会長就任から4年後の1964年、公明党を設立。それに先立つ54年には前任者の戸田が創価学会に文化部を設置し地方選に進出していたが、その政界進出路線をさらに押し広げていく。
公明党設立の翌年、池田をインタビューした評論家の高瀬広居の著書「人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方」(有紀書房)によれば、当時37歳の池田は本部応接室でアーム チェアーにあぐらをかき、複数の幹部を前に、こう発言したとされる。
〈私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である〉
だが、池田の野望を打ち砕く事件が起きる。1969年の「言論出版妨害事件」である。
評論家の藤原弘達が創価学会に批判的な著作を出版しようとしたのに対し、創価学会が様々な圧力をかけた事件。最も問題視されたのが、池田が公明党委員長だった竹入義勝に命じて、自民党幹事長だった田中角栄に妨害工作を依頼したこと。これが「言論弾圧」と糾弾され、池田の国会への証人喚問が検討される事態に発展したのだ。
「この事件では、創価学会と公明党が『政教分離』の原則に著しく反していると世間から激しく批判を浴びた。これに対して池田氏は猛省を表明し、世間に『政教分離』を宣言せざるを得なくなったのです」(前出・元学会関係者)
創価学会のトップに君臨する池田は、政治からは一線を引く必要に迫られた。それでも政治権力への渇望は衰えなかったようだ。1993年8月、細川護熙政権が発足し、自民党が下野した際、公明党は連立政権の仲間入りを果たす。公明党からは、4人の大臣を輩出した。組閣が発表される前日の8月8日、池田は長野県で行われた創価学会の本部幹部会で、こうスピーチしたという。
「そのうちデージン(大臣)も何人か出るでしょう。もうじきです。明日あたりですから。みんな、みなさんの部下だから、そのつもりで」


安倍首相が「恐ろしい」

大臣は学会員の部下――。その曖昧な「政教分離」は、折に触れて批判にさらされることになる。野党となった自民党が同年10月、政教分離を質すために、池田の証人喚問を要求したのだ。さらに翌94年には、反創価学会・公明党を主眼とする宗教団体や有識者の集まり「四月会」が発足する。 
「亀井静香氏が焚きつける形で会が発足され、当時新人議員だった安倍晋三氏も参加。同年のフォーラムでは安倍氏が『選挙区で創価学会から支援を受けてきたが、最近、学会幹部から慎重に行動するように言われ、恐ろしい団体と思った』などと演説していました。その後も池田氏の証人喚問の話は浮かんでは消え、実現はしなかった。一方で池田氏は絶対に証人喚問を避けたかった。そのため政権与党であることにこだわったとされています」(政治部デスク)
実際、94年6月に発足した村山富市内閣で公明党は再び野党に転落するも、新進党との合流や再結党を経て、99年の自自公連立で再び与党の一角に返り咲く。裏腹に四月会は勢いを失くし、2001年に解散した。
こうして成立した自公連立から24年。池田の死によって、これから公明党を待ち受けるのは大いなる危機に他ならない。小誌の取材に、公明党関係者はこう焦燥感を露わにした。
「公明党の得票数のピークは2005年衆院選での約900万票とされてきた。それが昨年の参院選では618万票と、約300万票も減少。もともと退潮傾向にあったのが、今回の池田氏の死で、衰退が加速するのは自明です。今後の国政選挙ではさらに200万票ほど減らすという見方もあるほどです。これまで学会員は『勝てば池田先生が喜ぶ、負けたら悲しませることになる』というのを選挙戦のモチベーションにしていましたが、その対象がいなくなったわけですから」
   ◆
池田が公の場に姿をみせたのは、2010年11月21日、米国の大学の博士号授与式典に出席したのが事実上の最後とされる。以来、健康不安説が燻り続ける中、本当の健康状態は「池田家の家族しか知らない」とさえ言われた。今般の訃報まで、空白期間は13年に及ぶ。
そんな中、夫人の香峯子が「文藝春秋」2013年1月号に登場。表舞台から姿を消して以降の池田の近況を詳らかにした。
〈主人は、お陰さまで85歳を迎え、いよいよ青年とともに進むのだと元気です。ラジオ体操を若い人たちと一緒にするのが、今も日課となっています。先般も、来日中のアフリカ10カ国の青年たちに会って激励しました〉
以降も、機関紙の聖教新聞に、池田の“近影”が掲載されたことはあった。2019年8月23日と10月3日。ただ、いずれもサングラスをかけた池田がやや遠いアングルから撮影されたもので、表情を読み取ることは難しい。
「衆院選期間中だった21年10月21日にも、池田先生夫妻が大阪の関西創価小を訪れたとする記事が掲載されました。ですが、児童たちが“夫妻を乗せた車に向かって”感謝を述べたとされたのが『実際に姿を現したわけではないのか』と物議を醸しました」(学会関係者)
そして――。希代の“怪物”の死が公表されたのは、息を引き取って3日が経過した11月18日のことだった。
「死去当日とされる15日は、因縁のある日蓮正宗の第三代、日目上人の命日なんです。一方で18日は創価学会の創立記念日。初代会長の牧口常三郎先生の命日でもあります。発表の日付は、この日にあわせた意図的なものだと見るのが自然です」(同前)
訃報のタイミングさえも周囲にコントロールさせる、圧倒的な存在感。だが、精神的支柱を失った創価学会の未来は、決して安泰とはいえない。(敬称略)

 


解説

池田氏の人となりと創価学会の歴史が客観的にまとめられていると思います。


獅子風蓮



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