というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
■一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
一杯目の火酒
(火酒[かしゅ]=アルコール分が多く、火をつけると燃える酒。ウォッカなど)
1979年秋 東京紀尾井町
ホテルニューオータニ40階 バー・バルゴー
1
__呑み物は、どうします? 酒でいいですか?
「うん」
__何にします?
「ウォッカ、あるかな?」
__それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから。
「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」
__ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?
「そう、それにレモン」
__軽くて、おいしそうだね。ぼくもそれをもらおうかな。あっ、ウォッカトニックを二つお願いします。 それとつまみは、どうしようか。
「いらないな、あたしは」
__つまみはいりませんから、呑み物だけ、お願いします。
「面白いね」
__何が?
「だって、ボーイさんに、とってもていねいに注文するんだもん」
__おかしい?
「ていねいすぎるよ。変に威張る必要はないけど、ちょっとていねいすぎる」
__そうかなあ……そうとは思えないけど、ぼくには。
「まあ、どうでもいいことだけど」
__そう、ぼくのことなんて、どうでもいい。これはぼくの、じゃなくて、あなたに対するインタヴューなんだから。
「インタヴュー、か」
__インタヴューは嫌い?
「好き、ではないな」
__なぜ? どうして、好きじゃないの?
「いつでも、同じなんだ、インタヴューって。同じ質問をされるから、同じ答えをするしかないんだけど、同じように心をこめて二度も同じようにしゃべることなんかできないじゃない。あたしはできないんだ。だから、そのうちに、だんだん答えに心が入らなくなってくる。心の入らない言葉をしゃべるのって、あたし、嫌いなんだ」
__そんなに、いつも同じことを訊かれる?
「新曲を出せば、どんな感じの曲ですか。年末になれば、今年の一年はどういう感じの年でしたか。新年になれば、今年の抱負は、って調子だもん、いつだって同じだよ」
__それは、テレビかラジオのインタヴューの場合でしょ?
「新聞や雑誌だって同じ。少しも変わらないよ。訊くことはみんな一緒。しゃべるのがいやになる。疲れるだけだよ」
__ほんと?
「嘘じゃない。インタヴューなんて馬鹿ばかしいだけ」
__いや、インタヴューというのは、そんなに馬鹿にしたものでもないと思うけどな。
「この人には、自分のことが、もしかしたらわかってもらえるかもしれない、なんて思って真剣にしゃべろうとすると、もう記事のタイトルも決まっていて、ただあたしと会ったってことだけが必要だったりするんだよね。あたしがどんなことをしゃべっても関係ないんだ、その人には」
__インタヴューっていうのは、そんなつまらないものじゃないと思うよ。聞く耳を持たないなんて奴は論外だけど、仮にあなたの話を熱心に聞こうとしているアナウンサーや記者がいたとしても、決まりきったことを訊いて、決まりきったことを答えさせるなんていうのは、インタヴューでもヘチマでもない。本当のインタヴュー、本物のインタヴュアーというのは……なんて、偉そうに聞こえるかもしれないけど、とにかく、インタヴューというのは相手の知っていることをしゃべらせることじゃない、とぼくは思っているんだ。だって、そんなことは、誰だってできるじゃないですか。ましてや、その以前に、たとえばあなたのように何度もインタヴューを受けたことのある人を相手にするんだったら、それでは意味がない。すぐれたインタヴュアーは、相手さえ知らなかったことをしゃべってもらうんですよ。
「知らないことなんかしゃべれないよ」
__知らなかったこと、というと少し言いすぎになるかな。意識してなかったこと、と言えばいいかもしれない。普通の会話をしていても、弾みで思いもよらなかったことを口にしてることがあるじゃない、よく。でも、しゃべったあとで、そうか、自分はこんなことを考えていたのか、なんてひとりで納得したりする。そういうことなんだ、知らなかったことをしゃべらせるっていうのは。相手がしゃべろうと用意していた答え以外の答えを誘い出す。そういった質問をし、そういった答えを引き出せなければ、一流のインタヴュアーとは言えないと思うな。
「あたしも、自分の知らなかったことをしゃべらされるわけ?」
__ハハハッ。さあ、どうだろう。それはこちらの力量にかかっているんだけど……では、始めるとしますか。
「うん、いいよ。ちょっと恐いけど……」
__さて、と。まず、数字の話をしましょうか。たとえば、この十年間に、あなたが売ったレコードの枚数とか、稼いだ金額とか……。
「関係ないよ、そんなこと、あたしには」
__でも、凄まじい数ですよ。 どれくらいのものか、あなたは知らない?
「全然知らないし、知る必要もない」
__シングルが34枚出て、総計が700万枚売れた。LPが35枚で110万枚、テープが100種類で150万本。それによって稼ぎ出された金が170億。話半分にしたって、驚くべき数字だよね。
「どうでもいいよ、そんなこと」
__どうして?
「やってる当人にとっては、数字って、そんなに関心があることじゃないんだよね」
__そうかもしれない、なんて納得しちゃうと、話が次に進まなくなるから、こっちは困るんだけど、ほんとに、そうかもしれないな。ぼくに引き寄せて考えてみても、分野も桁も違うけど、懸命にやっているとき、やっぱり、数字はどうでもいいもんな。
「そうだと思うよ」
__困ったな。さっきの数字の話をね、どういう具合に次の話につなげていこうとしたかと言うと、そういう巨大な数の嵐の中心にいた人がなぜ引退するのかっていう……。
「なんだ、そういうことか」
__馬鹿ばかしい?
「馬鹿ばかしくはないけど……」
__くだらない? まったく、自分で口に出していながら、急にひどくつまらないんではないかと思いはじめてしまったなあ。とうてい、すぐれたインタヴュアーにはなれっこない質問だった。数字に関する質問は撤回します。
「フフフ」
__しかし、とにかくあなたが、芸能界っていうのかな、そこを引退するのは確かなわけですよね。
「うん」
__そこで10年間、いろいろと生きてみて、どうでした?
「どういうこと?」
__とりあえず、面白かった?
「うん、それはね、やっぱり面白かったと思うな。見ようと思って誰でも見られる世界じゃないしね。面白かったよ」
__そういうことになると、芸能界がいやになったとか、なんだとかっていう理由がないのに、どうしてあなたほどの歌手が引退しなければいけないのかって、普通の人は疑問に思うはずですよね。それは無理のないことだと思う。
「そうかもしれない」
__そういう人たちに、どう説明するんだろう。
「これまで言ってきた通りなんだよね。歌手とは違う人生を生きてみたいっていう……でも、それじゃあ、どうしても信じてもらえないんだ」
__違う人生、ね。
「結局、誰にもわかってもらえないと思うよ」
__そんなことはない。そんなことはないから、もう少し説明してくれないかなあ。同じことをしゃべるのはもう飽きた?
「飽きはしないけど……いやになった。わかってもらえっこないから。どうして引退なんかするのか、みんなわからない。でも、それが当り前のことなんだよね。誰も人のことなんか、本当にはわからないんだ。あたしが人のことを本当にはわからないように。 そうだよね、それが普通なんだ」
__やけに絶望的な物言いをするじゃないですか。
「絶望じゃないけどさ」
__そうでなければ、諦めなんだろうか。
「諦めでもないと思うよ。ただ、そういうものだって言ってるだけ」
__人にはどうやっても伝わらない、と思っているのかな、自分の気持が。
「うん。特に、週刊誌の人とか、新聞の人とかそういう記者の人なんかには、もう絶対わからないみたい」
__理解してもらえない?
「駄目みたい」
__彼らは理解できないのかな、それとも商売上、理解できないふりをしているのかな。
「理解できないんだよ、あの人たちには。南沙織ちゃんみたいに結婚のためというなら理解もしてくれるんだろうけど、あたしみたいな言い方じゃ、どうしても駄目みたい」
__裏があるはず、と思うわけだ。男とか、金とか。
「そう。愛情のもつれか、だもんね」
__ハハハッ。
「笑いごとじゃないよ。いくら真正直にしゃべっても、信じてくれないんだ、あの人たちは。このあいだだって、一生懸命な人だなって思える記者の人がいたから、こっちも一生懸命に話そうとしたら、どうも変なんだよね。質問がかたよってるの。そっちへそっちへ持っていこうとするの。おかしいなと思ったら、もう、その週刊誌の結論はついているんだって。別れ際に、記事のタイトルは決まっているんですかって訊ねたら、〈引退まで追いつめられた藤圭子〉というんだって。がっかりしたな。別にあたしは追いつめられていませんよって、冗談めかして言ったんだけど、もう目次に刷り込んであるから変えられないんだって。ほんと、馬鹿みたいな話だよ」
__週刊誌の人たちは、つらい立場で仕事をしているからなあ。
「そんなことないよ。あの人たちは、あれでいいと思ってるんだよ」
__そうでもないんじゃないかな。時間と、競争相手に追い立てられて、つらい仕事をやってるような気がするな。
「あの人たちは、あの仕事が好きなんだよ。ああやって、やめないで続けているのは、やっぱり好きだからさ」
__そうかな。
「そうさ。いやならやめればいい。あんな、人の不幸を、あることないこと書いたり、あばいたりするような仕事、いやならやめてるよ」
__そんなに簡単にはいかない人もいるんじゃないかな。つらい思いをしてやってる人も、中にはいると思うけどな。
「そんなふうにかばう必要はないよ。やっぱりよくないことはよくないって言わなくちゃいけないよ」
__それはそうだけど。
「ほんとにひどいことやるんだ、週刊誌とかっていうのは」
__そう……。
「ひどいよ」
__積極的な反論はできないけど、ね。
「やりきれないよ」
__週刊誌といえば、このあいだ大宅文庫へ行ったら……。
「何なの、それ」
__あっ、そうか。大宅文庫と言ってもわからないよね、普通の人には。どう言ったらいいのかな、雑誌や週刊誌の図書館、という感じかな。京王線の八幡山という駅にあって、ぼくたちみたいな仕事をしている者にとっては、足を向けて寝られない、といったような場所なんだ。
「へえ。 そこに行くと、どんな雑誌でもあるの」
__そう、かなりの程度までね。しかも、そこは雑誌があるだけではなくて、記事についてのカードがあって、項目ごとにまとめられている。
「それ、どういうこと。よくわかんない」
__たとえば、ぼくが山口百恵について調べたいとしますよね。山口百恵についての記事なんて、それこそ掃いて捨てるほどあると思うじゃないですか。事実、ある。あるはずなんだけど、いざ読みたいと思うと、どんな雑誌にどんな記事が載っていたか、すっかり忘れていることに気がつく。そんなの覚えているはずないもんね。だからといって、全部の週刊誌や月刊誌を、山口百恵のデビューしたときから引っ繰り返していたら、それこそ1年や2年じゃ終らない。そんなとき、その大宅文庫に行く。そして、山口百恵のカードを出して下さいと頼むと、山口百恵に関して、どんな雑誌にどんな記事が載っていたか、一覧表になっているカードを出してくれるんですね。
「それは面白いね、便利だね」
__そう、すごく便利。山口百恵のカードがあるくらいだから、当然のことながら藤圭子のものもある。
「へえ、そんなのがあるの」
__そこへ、このあいだ行ってみたんですよ。そして、藤圭子のカードを出してもらった。カードは7枚あって、1枚に20の項目が書き込んである。だから、全部を合計すると、約140ということになる。もっとも、そのカードには、やっぱり洩れてしまっているものもあるし、小さすぎる記事は抜いてあるだろうから、本当はその倍くらいはあるんだと思う。この10年間に、実に二、三百もの記事にされているわけですよ、あなたは。
「そういうことになるんだろうね」
__驚かない?
「まあ、いろいろ書かれたからね。あることないこと」
__ぼくは驚きましたね、やっぱり。しかし、その数にめげずに、それを片っ端から借り出して、ひとつずつ読みはじめた。
「そんなことしたの」
__いろいろあった。デビュー秘話とか、初恋の人とか、貧しさから這い上がって、とか。最初は、とても好意的な、サクセス・ストーリー風の記事ばかりなんですよね。
「サクセス・ストーリーって?」
__成功物語。最初の頃は、それを祝福するという感じで報じられているんだけど、やがて、男の話が出てくるようになる」
「うん」
__だんだん書き方が意地悪くなってくる。そして、婚約の話になっていく。さらに、結婚、離婚となっていくうちに、あれよあれよという間に、話が暗く陰気なものになっていく。肉親同士の摩擦、プロダクションの移籍、男との同棲の噂……凄いんですよね、実に。
「うん……」
__ひとつひとつ読んでいるうちに、気持が悪くなってきた。
「……」
__いや、あなたのことじゃないんですよ。違う。そうやって、藤圭子という女の子のまわりをうろついて、これでもかこれでもかって活字にしていく、ジャーナリズムってやつが、ね。自分もその中で息を吸っているわけだけど、そんなふうに凄惨な姿を見せつけられると、やっぱりやりきれなくなってね。読んでたら、生理的に耐えられなくなってね、慌てて外に出たんですよ。外の空気にあたったら収まったけど、その続きを読むのは苦痛でね、だから、残りはコピーしてもらって帰ってきた。
「そんなことがあったの」
__仕事の前にはいつもやっていることだけど、あんな凄惨な印象を受けたのは、初めてのことだったなあ。しかし、あなたは、まことに凄まじい時間をくぐり抜けてきた人なんですね。
「別に大したことじゃないよ。読まなければ腹も立たなくなるよ、そのうち」
__ぼくだったら、すぐ参っちゃうかもしれないな、あんなふうな記事が二、三度出ただけで。やわにできているから、恥ずかしいほどうろたえるんじゃないかと思う。それが200回も300回も、それこそ切れ目なしに書かれるんだから……。
「今度の引退の件、あるでしょう。読んだら腹が立つにきまっているから、最初から読まないことにしていたの」
__それがいちばん賢明かもしれない。
「前川さんのときも……」
__前川さんて、前川清のこと?
「うん、前川さんと離婚したときも、絶対に読まないって決めていたの。いろいろ書かれるに決まっているから。それでも、時々、広告や何かでパッと眼に入ってきちゃうことがあるんだよね。そうすると、落ち込んじゃうんだ。あたしのことをよく知っている人なら、そんなことあるはずないよって思ってくれるけど、ぜんぜん知らない、赤の他人が見たら、週刊誌のことだから嘘かもしれないとちょっとは思ってくれるかもしれないけど、本当のことかなと思う部分もあるでしょ」
__そうかもしれない。ぼくたちだって、電車の中吊り広告を見て、またまたそんなこと書いちゃって、なんて思うけど、どこかにその記憶は残ってしまうからね。
「そういうことが、いつか本当のことのように言われたりするんだ」
__ありうるんだろうな、そういう危険は。
「どれくらい前になるかな。5、6年かな。夜行列車に乗って仕事に行くことがあって、週刊明星を買ってきてもらったんだ、寝台車の中で読もうと思って、ね。読んでたら、まったく関係ない箇所に、あたしのことが出てたんだ。週刊明星には、〈ビデオテープでもう一度〉っていう欄があって、それはテレビの番組でタレントさんがしゃべったことを短かくまとめて載せるというような欄なんだけど、そこでカルメン・マキさんが話していたんだ。自分は芸能界には向いていないとかなんとか、そういうことなんだよね。その中に、急に関係なく、あたしの名前が出てくるの」
__ほう、カルメン・マキが、藤圭子について何と言ってるの。
「いやだって言うわけ。ああいうのはいやだって。自分を売り出すために、眼が見えるお母さんを盲人に仕立てて、話題を作るようなことはできないって言うの。そういう芸能界には、自分は合わないって。眼が見えるくせに、盲人だということにして、なんだって」
__……。
「何も知らないのに、なんてひどいことを言うんだろう、と思ったよ。自分の母親が、眼が見えないってことが、いったいどんなことかも知らないくせに、なんていうひどいことを……。あたしのお母さんに会ったこともないのに、嘘だなんて、どうして言えるんだろう。あたしの歌なんか売れなくたって、お母さんの眼が見える方がどれだけいいかしれないのに。無責任だよ、ひどすぎるよ」
__口惜しかった?
「口惜しいなんてもんじゃないよ。一晩中、一睡もできなかった。涙が流れてきた」
__カルメン・マキも、そんな噂話を小耳にはさむか、週刊誌のゴシップ欄で眼にして、軽率にしゃべったんだろうな。
「でも、テレビでしゃべり、それをまた週刊誌が載せているんだよ。そんな無責任なことでいいんだろうか」
__よくないよね。
「そうだよ。あたしだったら、自分で確かめたことでもないのに言うなんてことは絶対にしないと思う。別にカルメン・マキさんを責めているわけじゃないけど」
__自分を際立たせるためにそんなことを言うなんて、よくないことだな、やっぱり。
「あたし、嘘つくのいやだったんだ」
__えっ?
「嘘をつきたくないから、いつでも本当のことを言ってきた。正直がいいことだと思って、自分のことをみんなさらけ出してきたけど、そんなことはなかったんだよね。タレントとか芸能人とかいうのは、隠しておけば隠しておくほどいいんだよね」
__そんなものなのかな。
「お母さんが眼が見えないということも、両親が旅芸人の浪曲師だったってことも、みんな本当のことだから恥ずかしがることはないと思ったし、貧乏だったということも、あたしが流しをしてたってことも、みんな本当のことなんだから、恥ずかしくないと思ってた。でも、隠しておくべきだったんだろうな……」
__そうだろうか。
「あたしこそ、もしかしたら芸能界に向いてないのかもしれないよ。 冗談じゃなくて、ね」
__あなたが、初めてジャーナリズムに取り上げられたのは、どんなことだったか覚えてる?
「えーと……それはよくわからないんだけど、初めて嘘を書かれたときのことは、しっかり覚えてる」
__それは、いつの頃?
「半年くらいかな、デビューして」
__男のこと?
「うん。藤圭子の同棲相手を発見、とかいう記事。バンドのドラマーで、知っていることは知っていたけど、ほとんど付き合いもない人なんだよ。その人と同棲してたんだって、あたしが。記事には、これが二人で仲よく暮していたアパート、なんて写真まで載ってるの。杉並区のどこそこって住所も書いてあるわけ。杉並なんて地名、そのとき初めて知ったんだけどね。それだけじゃないんだ。記事の中には、近所の人の話とかいっちゃって、二人でよく手をつないで銭湯へ行くのを見かけました、なんて書いてある。行ったこともない土地のお風呂屋さんに、どうしたら通えるの?」
__ハハハッ、そいつは傑作だ。
「笑うなんて、ひどいよ」
__ごめん。
「その頃、まだ17、8でしょ、こんなことは許せない、と思ったんだ。こんなことを我慢しなければならないんだったら、もう歌手なんかやめよう、と思いつめたりして。でも、プロダクションの人やなんかに、結局、なだめられてね。ほんとにいやな商売と思ったなあ」
__それは何に書かれてるの? 大宅文庫のカードにはなかったようなんだ。
「女性セブン。いつでも、あたしのひどい記事は女性セブンが最初なんだ。ほんとにひどいんだ、いつも」
__へえ、いつも女性セブンなの。
「うん、ほとんどいつも。ひとりいるんだよね、そんなのを書く人が、あそこの雑誌に。素浪人みたいな記者でね。ほら、よく出てくるじゃない。股旅物の映画なんかに、用心棒みたいな人が。そういう感じの人。その人があたしのまわりをうろうろしだすと、不吉な予感がしてくるんだ」
__面白い。
「ちっとも面白くないよ。ついこのあいだも、NHKに出演したら楽屋にその人の姿が見えたんだよね。あっ、また何か悪いことが起きるんじゃないかなと不安に思っていたら、やっぱり〈圭子再婚へ〉だもんね」
__そういえば、そんな記事、確かにあったなあ。
「あたしも、中身を読まなかったから知らないけど、もう何年も前に別れた人のことを、またまた引っ張り出して書いているらしいんだ。いやになる」
__そうだね、多くの人は中身なんか読まないから、そうか藤圭子はやっぱり再婚のために引退するのかと、思い込んでしまうかもしれないよね。
「本当に、あの人がうろうろすると、ろくなことにならないよ」
__しかし、そんなに、ひとりの人物が悪い出来事の使者になっているというのも、凄い話だなあ。もしかしたら、その人、あなたのことが好きなんじゃないかな。
「まさか」
__いじめっ子が好きな女の子をいじめるように……。
「冗談はよして。並のいじめられ方じゃないんだから」
__ごめん。それにしても、あなたは、信じられないくらいジャーナリズムの餌食にされたよね。恐らく、男性歌手における森進一と双璧なんじゃないかな。
「森さんも、大変だったろうね」
__しかし、女性週刊誌の記事なんか、どうせ嘘八百だろうと思ってはいるけど、芸能人の恋愛とか、離婚とか、いろいろゴシップが出ると、ほとんどが週刊誌の記事の通りになってるじゃないですか。ああ、やはり火のない所に煙は立たないものなんだ、って思うことが多いけどな。
「そうだね。それはあるね。芸能人の方も悪いんだよね。絶対にあの人とは結婚しません、と言っておきながら、翌日結婚式をあげたり、絶対離婚しませんと言っていて、もう離婚していた……だから、記者の人も信じなくなっているんだよね、タレントの言うことを」
__そういうことがあるのかもしれない。だから、習性として、どうしても裏目読みになってしまうんじゃないのかな。
「でもね、いくら裏目読みをするようになるといっても、あの人たちもよくないんだよ。さっきの藤圭子再婚でも、愛情のもつれでもいいけど、そういう簡単な結論が出ると、安心して納得するんだけど、ほんとに人の心の奥深くまで読んでくれはしないんだ。心の奥の動きを読んでくれればいいんだけど、要するに、自分で理解できることしか読もうとしないんだよ。自分の頭で考えた結論を探してるだけなんだと思う、あたしは」
__心の奥を読んでくれない? 誰も?
「うん。裏目読みをするなら、ちゃんと、裏の裏まで読んでほしいよ……なんて、ね。大した裏があるわけないけど、あたしなんかに。でもさ、そう思うよ」
【解説】
「後記」にも書いてありますが、沢木耕太郎さんは当時、ノンフィクション作家として地位を確立したそのあとに、あらたなノンフィクションの「方法」について考えていたそうです。
そして、藤圭子さんのことを文章にするさいに、いっさい「地」の文を加えずインタヴューだけで描き切るという方法をとることに決めたそうです。
たとえば、今回の冒頭の文章は、著書ではこのようになっています。
「呑み物は、どうします? 酒でいいですか?」
「うん」
「何にします?」
「ウォッカ、あるかな?」
「それはあるんじゃないかな。とりあえず、ここはホテルのバーなんですから」
「それなら、ウォッカトニックをもらおうかな、あたし」
「ウォッカ・トニックって、ウォッカにトニック・ウォーターを混ぜただけのもの?」
「そう、それにレモン」
でも、これって、読みづらいんです。
膨大な会話の途中で読み始めると、どれが誰の発言か分からなくなります。
なので、私の記事では、沢木耕太郎さんの発言のみ__(アンダーバー)を頭に付けて、区別するようにしました。
また、会話と会話の間に1行いれて、読みやすいようにしました。
獅子風蓮