絵を描くことは子供の頃から好きで得意だと思っていたのだが、
中学の頃の美術の成績があまりよくなくて、好きだけど、下手なんだという認識が根付いた。
これは、あの頃の私に起こった重大な悲劇の一つで、
だって、絵に成績なんてこと自体ナンセンスだし、采配をふるう先生の趣味一つだし、そんな評価は気にしないと、言い切れるくらい私はまだ強くなかった。
そんなこともあって、私は未だに絵を描くことは気恥ずかしくて、描いた絵は隠してしまいたい気分になる。
で、も。
なぜだかスイスイと、クリスマス会で似顔絵屋さんをやることが決まった。
久しぶりで、うまく描けるか、描いて欲しいとくる子なんているのかなア。なんて、思う反面、張り切って絵の具やペンやらを用意した。
結果。似顔絵屋さんは大盛況。
時間内に描ききれなかった子の分は家で描いて、後で渡すというくらい。
どうして、こんなにみんなが描いて描いてと言ってくれたか、と分析すると。
ただの似顔絵じゃなくて、その子のオーラまで、描いたからかもしれない。
…と、言ったらインチキみたいだけど。
目の前にその子が座ると、絵が見える。
いつも明るくてニコニコしている子だけど、見えるイメージのその子は秋の草原で強い風に立ち向かってしっかりと立っている。それはいつも、ニコニコしている彼女が、実はいろんなことに憤慨も、奮闘もしている力強い姿と重なった。だから、それはそのまま髪を風に吹かれているように描いた。
次のおとなしい小さなお利口な女の子が目の前に座った時には、ボタン雪の振る寒い日、音のない世界にじっと立っている彼女がみえた。でも、心が温まるような色は赤くて甘い匂いの何か…例えばリンゴを後ろにかくしもっていて、ちょっと、ドッキリの仕掛け人みたいな得意顔をしている姿、を、そのまま描いた。
そんな風に、次から次へと前に座った子の絵を描いた。
イメージが見えない子がいないのは、不思議な感覚だった。
昔に手相研究会というサークルに所属し、手相を見まくった時の感覚と似ていた。
封印していたあの感覚が蘇ってしまったのだが、湧いてきて仕方ないモノを目の前に転写する作業は、実は楽しい。
だから、実際の似顔絵とは、トンでもなく違うと思う。
違うんだけど、
そんなのが子供達に受けたんだと思う。
そして、私は人の評価なんて気にしないで、自分の思ったとおりの表現をして、おまけに人も喜んでくれるという経験をした。
それを絵に描くなら、人生最大のクリスマスプレゼントをもらって、嬉しいんだけどビックリ驚いている中学生だった頃の私、みたいな絵になるかもしれない。