瑞穂区で見つけた「昭和のにじむ地名案内板」を昭和区でも発見。
寄贈スポンサーはやっぱり今は亡き福徳相互銀行です。
■昔は梅がたくさんあったのでしょうか?
地名には町の記憶が刻まれていて、昔の街角の様子が想像できます
■こちら地名ではなく交通標語が描かれています
撮影:2014/11/23(名古屋市昭和区)
美濃赤坂で見つけた大垣市消防署の琺瑯看板。
「火事救急は119番」とわざわざうたってあるのが時代を感じさせます。
字体も昭和っぽくて良い感じです。
撮影:大垣市赤坂町(2014/09/28)
連子格子の町屋が残る岐阜市西材木町で見つけた「タマノ井酢 すしのこ」の琺瑯看板。
小学生のころ、母が黄色いパッケージの「すしのこ」を使っていたのを思い出しました。
懐かしかったのでちょっと調べてみると、タマノ井酢は1963年に世界で初めてお酢の粉末化に成功し、「すしのこ」はそれを商品化したものだそうです。
撮影:岐阜市西材木町(2014/09/07)
■子どものころと同じパッケージで現在も発売していました。なつかしい~
お盆休みはずっと天候が悪く、大好きな町歩きやポタリングもできないまま終わってしまいました。
今年は夏らしい青空が長続きせず、東海地方も突然のゲリラ豪雨に悩ませられる毎日です。
日本各地でも大雨による災害に見舞われ、毎日当たり前のように家族と過ごせる日常がどんなに幸せか、あらためて考えさせられました。
今日も朝からどんよりと曇って今にも雨が落ちてきそうですが、久しぶりに自転車で散歩に出かけました。
自転車で出かけるのは2週間ぶり、やっぱり風を感じて走るのは気持ちがいいもんです。
いつもとちょっとコースを変え旧木曽街道を走っていると、なんと古い自転車店の壁に新種の琺瑯看板を発見!
どうも最近となりの建物が取り壊され、今まで隠れていた看板が運良く姿を現したようです。
最近は町を歩いてもとんと姿を見なくなった昭和の絶滅危惧種、琺瑯看板。
こういうラッキーな偶然が無いと、もうなかなか出会えなくなってしまいました。
久しぶりのポタリングと琺瑯看板の発見で心身ともリフレッシュ、小さな幸せをしみじみ感じた日曜でした。
■手前の建物が取り壊され、側面の壁に生息していた琺瑯看板が数十年ぶりに姿を見せました。
自転車店は廃業しているようなので、これから先建物ごと撤去されるのが心配です。
■ブリヂストンタイヤ(三連発)と岐阜の地酒「菊川」、サイン毛糸の分割看板は初めて見ました。
タイヤ、酒、毛糸、縫糸と種類も豊富、看板の色も赤、青、黄色とカラフルで往時の姿をとどめているのが嬉しい限りです
■エアコンの室外機に隠れている「ミヤタの自転車」。上半分が見えないのが残念。
室外機はかなり新しそうなので、建物の取り壊しは当分大丈夫?
採集場所:愛知県犬山市(2014/8/24)
豊川稲荷の門前通商店街は「懐かし青春商店街」と銘打って、昭和レトロな雰囲気を売りにしているようです。商店街入り口には、懐かしい琺瑯看板がギャラリーのように展示してあり、商店の壁にも色とりどりの琺瑯看板を貼り付けてあります。昭和をテーマにした博物館など、琺瑯看板を展示してある所は結構ありますが、実際の商店の壁に貼って展示する「路上ギャラリー形式」は、本来の看板の特性が生かせるのが良いですね。
琺瑯看板はほとんど絶滅の危機に瀕していて、コレクターの間ではかなりの高額で取引されていると聞きます。なかなかこれだけ多くの種類を集めるのは大変だったと思いますが、もう街中ではほとんど見ることのできない貴重なものも多く、コレクターが自宅に死蔵しておくよりは、多くの人が実物を見られる路上展示は大歓迎です。これからも随時種類を増やしてくれることを切に望みます。
■商店街入り口に展示してある多くの琺瑯看板
■大塚オールスターズ勢ぞろいと思ったら・・・浪花千栄子、水原弘、由美かおる、大村崑ときたら松山容子が無いのは残念!
金鳥の美空ひばりの看板はかなりの希少種です。
■こちらは常滑で見つけた松山容子のボンカレーの看板
これで大塚お役者五人衆が勢ぞろい
■ブラック・ニッカとオミズ~しみじみ昭和の哀愁が漂う
■学生服の琺瑯看板は種類が多く楽しめる~富士ヨット、官公、ダイヤ、旭ツバメ、乃木服、忠臣、まるいし、などなど
別所街道の中町交差点を南へ入った所にある新城小学校に、昭和10年に竣工した楼門と校門が現存しています。楼門は純和風の木造建築で、同じ年に建てられたアールデコ風のRC造の講堂(現存せず)が洋風なので、対照的なスタイルの楼門と講堂で和魂洋才を表現したのでしょうか。
楼門の脇には雨天時の講堂への移動のための、脇廊が設けられていましたが、講堂が建て替えられたため現在は途中で切断された形で保存されています。それにしても講堂が取り壊されたのは残念で、昭和10年築の楼門と講堂、和洋のセットで残っていたらなあ~と悔やまれます・・・
◆新城小学校楼門・校門/新城市西船入76
竣工:昭和10年(1935)
構造:楼門/木造、校門/石造
撮影:2014/05/03
■楼門の左に見える屋根は新しく建て替えられた体育館
■この脇廊で講堂とつながっていました
■楼門の前に設けられた石造りの校門
4月26日「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの世界文化遺産に登録される見通しになりました。国内では「石見銀山」に続く産業遺産ですが、明治期以降では初めての登録になります。これをきっかけに、各地に現存する明治以降の日本の近代化を象徴する産業遺産や近代化遺産が再評価され、保存活用される機運が高まれば、こんな嬉しいことはありません。
日本の近代化の過程で欧米からの技術を導入し、各地に様々な施設が建設されましたが、上下水道や発電所施設などもそのひとつです。東海地方にも木曽三川に代表されるダムや水力発電所、上水道施設などの近代化遺産が現存していますが、その建物のデザインには当時主流だった歴史様式を採用したものが多く、ここでもオーダーは重要なモティーフとして大きな役割を果たしています。
■旧稲葉地配水塔/昭和12年(名古屋市中村区)
円形の配水塔の周囲には16本の円柱がそびえ、古代ギリシャの神殿を思わせる外観は、どこか神聖な雰囲気が漂う。
■鍋屋上野浄水場旧第1ポンプ所/大正3年(名古屋市千種区)
正面出入り口上部の窓の両脇にイオニア式の円柱を立て、窓廻りも古典様式をモティーフにしたデザインで固める。
■中部電力 井ノ面水力発電所/大正10年(岐阜県美濃市)
発電所の百葉箱にもちゃんとオーダーの上に三角ペディメント風の屋根をのせ、外観はミニギリシャ神殿風。
あと数年後の建設ならモダニズムの影響で、ただの四角いコンクリートの箱になるところでした。
昭和戦前期までは医院などの医療機関も西洋建築が好んで建てられました。特にオーダーとペディメント(三角形の破風)で神殿風の外観にして正面玄関を強調するポーティコは、医院の玄関ポーチや車寄のデザインにうってつけだったようです。ドクターと言えば今でも社会的ステータスの高い職業のひとつですが、当時のお医者さんはそれこそ町を代表する知識人であり名士でした。もちろん医院の建物にもそれにふさわしい威厳と品格が求められたので、オーダーを中心としたクラッシクで格調の高い雰囲気の西洋建築は、医院にはまさにうってつけだったようです。
■新川中央病院(旧私立新川中央病院本館)/大正3年(愛知県碧南市)
玄関ポーチの入り口に、6本のトスカナ式オーダーと5本の角柱が、これでもかとばかりに所狭しと乱立しています。
しかしこれでは患者さんも、さぞかし出入りがしにくかったに違いありません...(特にメタボなおじさん要注意!)
■旧山田歯科医院/昭和元年(岐阜県多治見市)
建物外壁がリュニューアルされたこともあり外観はごく普通ですが、
玄関のオーダーとペディメントは当時のままで、当時の洋風建築らしい雰囲気を残しています。
■竹内産婦人科/昭和3年(愛知県刈谷市)
こちらも玄関ポーチの屋根にオーダーに支えられた三角ペディメントを載せ小神殿風にしています。
ただしオーダーは角柱になり、柱頭も簡単な幾何学模様に変わっています。
■旧久保田外科/昭和初期(岐阜県岐阜市)
見事なねじれ具合の柱にサニーレタスの様なアカンサスの葉をあしらい、ちょっとおいしそうなオーダーです。
大正~昭和戦前期の小規模なオフィスビルにもオーダーが見られます。もちろん大手銀行のような見事なジャイアントオーダーが並ぶことはありませんが、オーダーも時代の流れに合わせ、幾何学的なモダンなデザインを取り込んで、まだまだファサードを飾る主役として健在です。
■西大須ビル/大正10年(名古屋市中区)
フルーティング(溝)付きオーダーをデザイン化したピラスター(付け柱)と円柱がファサードを飾る。
■服部記念館(旧服部工業株式会社事務所)/大正15年(愛知県岡崎市)
壁面の付け柱はオーダーをモティーフにしていますが、柱頭のデザインは幾何学的にあっさり仕上げています。
■国際資源活用協会(旧熊沢ビル)/大正3年(三重県四日市市)
オーダーは完全に壁と一体化した二次元的な装飾と化しています。
■屋上にある塔屋の出入り口の壁には、しっかり4本の円柱が埋め込まれています。
しかし石膏か粘土で作ったようなこのゆるい造形は、なかなか味わい深いものがあります。
■旧知多白木綿組合会館/大正15年(愛知県半田市)
2階分をぶち抜くかなり立派なオーダーですが、柱頭のデザインは花びらのようでかなり独創的。
■伊勢久株式会社/昭和5年(名古屋市中区)
スパニッシュ風というのでしょうか?コリント風の螺旋状オーダーが見どころです。
ところでこんな風なネジネジのお菓子、ありませんでしたっけ?
昭和に入ると表現主義などのモダンデザインの影響で、歴史様式は徐々に衰退して行きます。昭和戦前期の建築は、アメリカンボザールで盛り上がる一部の銀行建築などの例外を除き、より直線的で平面的なデザインへ(モダニズム)と変わっていきます。どんどん古典的な装飾は姿を消して行きますが、その中でもオーダーのモティーフは本来の形を変えながら、かろうじて最後までその姿を残すことになります。
■愛知学院大学楠元学舎第1号館(旧愛知中学校本館)/昭和3年(名古屋市千種区)
オーダーは壁と一体化しより平面的になり、柱頭には簡略化したアカンサスがデザインされています
■東海学園大講堂/昭和6年(名古屋市東区)
正面玄関の上にはオーダーらしきものが並んでいますが、窓枠と一体化し柱頭飾りもシンプルです
■玄関の柱は寺社を思わせるどこか日本風?のデザイン
■南山学園ライネルス館(旧南山学園本館)/昭和7年(名古屋市昭和区)
玄関のオーダーはシリンダーを思わせるモダンなデザインで、歴史様式の終焉を物語っているようです
■愛知大学記念館(旧陸軍第15師団司令部)/明治41年(愛知県豊橋市)
薄切りにスライスされたオーダーと三角ペディメントの神殿セットを、下見板の外壁にくっつけたという感じです
■滋賀大学経済学部講堂(旧彦根商業学校講堂)/大正13年(滋賀県彦根市)
玄関脇の溝付きオーダーとその上の妻壁をペディメントに見立て、全体的にはルネサンス風のクラッシクな外観を演出
銀行建築と並んで役所、公会堂、郵便局などの建物もオーダーが好んで用いられました。明治以降に建てられた公共建築は、ほとんどが西洋建築のスタイルに移行したので、必然的に最も西洋建築らしいオーダーを中心とした歴史様式のデザインが主流になりました。建築家や設計事務所が設計したそれなりの建物はもちろん、地方の小さな町の役所や郵便局なども、まあとりあえずはギリシャ・ローマ建築風の柱を並べておけば、手っ取り早く西洋建築としての体裁が整うので、こぞってオーダー風の柱でファサードを飾ったのでした。
■豊橋市公会堂/昭和6年(愛知県豊橋市)
2階入口までの大階段、正面を飾る6本のオーダー、両脇に半球ドーム、まさに建築の様式美
■旧一宮市役所本庁舎/昭和5年(愛知県一宮市)
正面玄関の上の4本のオーダーはかなり簡略化され、平面的なシンプルなデザインになっています
(建物は残念ながら2013年取り壊されました)
■木曽川資料館(旧木曽川町会議事堂)/大正3年(愛知県一宮市)
玄関車寄のトスカナ風のオーダーは、建物の規模からすればかなり頑張った立派なもので、議事堂の威厳と重厚さを演出
■四郷郷土資料館(旧四郷村役場)/大正10年(三重県四日市市)
3本の細い木製の柱をワンセットにして、太いオーダーに見立てています
■米原市醒井宿資料館(旧醒井郵便局局舎)/大正4年(滋賀県米原市)
2階分の高さのあるアーカンサスの柱頭飾り付きの角柱を並べたファサードは、西洋建築らしさを強調しています
地方都市の郵便局としてはかなり立派なもので、当時の醒井宿の繁栄が偲ばれます
■名和昆虫博物館/大正8年(岐阜県岐阜市)
オーダーの上にはしっかり三角ペディメントが載る本格派で、ギリシャ神殿を思わせる風格
大正~昭和戦前まで、銀行建築のファサードはオーダー(列柱)を中心としたデザインが隆盛を究めます。古代ギリシャ・ローマを起源とする古典主義建築は20世紀に再ブレイクを果たし、遠く日本でも銀行建築を中心に都市のメインストリートを飾りました。しかし「盛者必衰」とはよく言ったもので、すでにこの時日本でも表現主義に代表されるモダンデザインの流れがひたひたと押し寄せていました。オーダーが並ぶクラッシクな建築の横で、歴史様式の装飾を一切排除した、コンクリートとガラスの四角い箱のモダニズム建築が次の出番を待っているのでした。
■旧岡崎銀行本店/大正6年(愛知県岡崎市)
三河地方で最初の本格的な銀行建築。正面玄関廻りはお約束のクラッシクな円柱を配し、銀行らしい威厳を演出。
■旧名古屋銀行一宮支店/大正13年(愛知県一宮市)
ファサード全面の1階~3階までぶち抜きのドリス式オーダーは大迫力。アーケードで隠れて柱頭飾りなど全容が見られないのは残念。
■旧津島信用金庫本店/昭和4年(愛知県津島市)
アカンサスというよりは、サニーレタスが張り付いた様なコリント風のオーダーが並ぶ玄関。
昭和初期の地方銀行では、オーダーの扱いがかなり簡略化されているパターンが多い。
■旧岐阜貯蓄銀行本店/昭和12年(岐阜県岐阜市)
正面のオーダーは本来の円柱状ではなく、壁と一体化し付け柱状になっている。
■滋賀中央信用金庫銀座支店(旧明治銀行彦根支店)/大正13年(滋賀県彦根市)
オーダーは壁と一体化してかろうじて痕跡をとどめています。
■旧大垣共立銀行美濃加茂支店/昭和27年(岐阜県美濃加茂市)
戦後の竣工ながら、壁と一体化しデザイン化されたオーダーのモチーフを残しています
オーダー(列柱)が一番似合う建物と言えば、やはり戦前の銀行建築ではないでしょうか。柱を強調したファサードが特徴の新古典主義の建築の典型ともいえる銀行建築は、大正末~昭和初期にこぞって建てられました。ギリシャ神殿を思わせるオーダーがずらりと並ぶ建築は、アメリカンボザールと呼ばれるヨーロッパの古典主義様式をアメリカ風にアレンジしたもので、日本では1920年代に一大ブームを迎え、大規模な銀行、オフィスビルには好んでこのスタイルが使われています。巨大なオーダーをファサードにずらりと並べるデザインはそれだけで大迫力、その押し出しの強さで銀行の威厳と信用をこれでもかとばかりに表現しています。
今回は現代建築が建ち並ぶ名古屋の中心街伏見~栄界隈で、今も残る戦前のクラッシクな銀行建築を紹介します。名古屋の昭和の街角の景観を今に伝える貴重な歴史的建造物として、これからも後世に残して欲しい銀行建築です。
■三井住友銀行上前津支店/昭和6年(名古屋市中区)
三井本店を手がけたトローブリッヂ・リビングストン建築事務所の設計。
2階部分ぶち抜きのイオニア式の半円柱が、銀行らしい重厚な雰囲気を漂わせています。
■三井住友銀行名古屋支店(旧三井銀行名古屋支店)/昭和10年(名古屋市中区)
ファサードを飾る6本のイオニア式オーダーは壮観で、背の低い横長の建物はギリシャ神殿を思わせます。
■旧名古屋銀行本店/昭和元年(名古屋市中区)
4階分の長さがあるオーダーは迫力満点。三井住友銀行名古屋支店とともに、広小路通りの歴史的景観を今に伝えています。
■柱頭はイオニア式とコリント式が合体したような独自の装飾
■正面玄関脇の柱頭飾り~植物をモチーフにした様式にとらわれないオリジナルなデザイン。
わたしの地元東海地方にも、数は少ないですが明治時代の擬洋風建築が残っています。まさに地元の棟梁たちが見よう見まねで建てた「洋風建築もどき」ですが、地方の町では当時としてはまだまだ珍しい最新の西洋建築だったのです。大都市の西洋館に比べればぎこちない造形ながら、建物からは施主や棟梁の西洋建築へのあこがれや熱い思いが伝わってきます。特にファサードの中心の玄関廻りは力の入れどころで、しっかりオーダーを配して洋館らしさを演出しています。
■郡上八幡楽藝館(旧林療院本館・旧レントゲン棟・旧看護婦棟)/明治37年/岐阜県郡上市八幡町
当時地方で洋館のオーナーと言えば、大都市で新しい学問や技術を勉強した一部知識人の専売特許で、特にお医者さんはこぞって洋風建築を建てたようです。
西洋館は学と金の両方を合わせ持つ、まさに地方の名士にふさわしいステータスシンボルだったのです。
■柱頭はややバランスは悪いもののイオニア式できめています
■旧加治田駐在所/明治10年頃/岐阜県加茂郡富加町
玄関テラスに円柱を並べオーダーを意識したデザインになっています。
明治10年当時、地方の小さな山間の町の駐在所に早くも洋風意匠を取り入れているのは特筆に値します。
※ブログをご覧の方から取り壊し情報をいただきました。岐阜県下最古の擬洋風建築だったのに、非常に残念です
■鳴尾公会堂(旧鳴尾学校)/明治15年/名古屋市南区
名古屋市内現存最古の学校建築。建物は純和風建築ながら玄関の柱には洋風意匠を取り入れている。
■設計施工の大工棟梁青木角左衛門による柱頭飾りがスゴイ!
いったいどこから思いついたのか、ソロバンの珠をつぶした様な形状の皿が3枚重ねになっているのだが、まさに擬洋風ワールド全開イィィ~
■旧日清紡績針崎工場竜城学園講堂(愛知県立旧愛知第二中学校講堂)/明治40年/愛知県岡崎市
円柱ではありませんが柱頭はトスカナ風にまとめています。出入り口の櫛形アーチが明治の洋風建築らしいところ。
日本の近代建築(西洋館)の魅力は、何と言っても外観のデザインの多様性にあります。なぜ日本の西洋館のデザインはそんなにバラエティに富んでいるのか?それは日本に西洋建築が導入された明治という時代がポイントです。日本が近代化に邁進した明治時代(19世紀中~20世紀初頭)は、ちょうど西洋建築の本家本元の欧米では過去の建築様式のリヴァイヴァルブーム真っ只中でした。紀元前の古代ギリシア、ローマ建築の古典様式から中世~近世のゴシック、ルネサンス様式まで、様々な様式を用途によって使い分けたり(歴史主義)、複数の様式を組み合わせたり(折衷主義)した建築が、ヨーロッパやアメリカでもこぞって建てられました。
日本でも大都市を中心にお雇い外国人建築家や、教育を受けた日本人建築家によって、リヴァイヴァルされた様々な歴史様式を用いた建築が建てられました。明治~大正期に建てられた歴史主義の建築としては、コンドルの岩崎邸、ニコライ堂、エンデ、ベックマンの司法省、辰野金吾の日本銀行、東京駅、片山東熊の赤坂離宮(迎賓館)などが現存していて、全て国宝や重要文化財の指定を受けています。
一方日本の地方都市でも大都市に負けじと、地元の大工棟梁などを中心に洋風建築の建設が盛んになります。西洋建築の正式な知識や技術を持たない地方の棟梁たちが、大都市に建てられた西洋建築を見よう見まねで建てた西洋館を、正規の建築家が建てた建築と区別して「擬洋風建築」と呼びます。棟梁たちは西洋建築らしさを手っ取り早く演出するために、一目で洋風建築と分かる特徴的で分かりやすいデザインをとり入れたのですが、列柱(オーダー)はその代表的なもののひとつです。
~オーダーとは~
西洋建築の肝(きも)ともいうべきオーダーは、古代ギリシアの神殿建築をルーツとし、古代ローマ、バロック、ルネサンス、ジャコビアンなどの古典主義建築はすべてオーダーを中心にデザインされています。オーダーは円柱(コラム)とその上の水平部分である梁(エンタブラチュア)からなる柱梁構造で、柱頭の造形などでトスカナ、ドリス、イオニア、コリント、コンポジット式の5種類に分類されています。ファサードにオーダーがデザインされていれば、誰が見ても西洋建築なのは一目瞭然、アーチとともに西洋建築のツートップとも言える重要アイテムです。明治期に建てられた「擬洋風建築」では、建築様式などどうでもいい棟梁たちによって、オーダーの柱頭が自由に変形され、日本独自の西洋館の造形が楽しめます。
今回は明治村の洋風建築に使われている柱(オーダー)を探してみました。大工の棟梁の建てた擬洋風建築から、本格的なルネサンス建築まで、明治の西洋建築には建物のファサードを飾るオーダーがいたるところで活躍しています。
■三重県庁舎/明治12年(1879)
地元三重県の大工棟梁清水義八の作品で、内務省庁舎(明治7年)に倣った当時の典型的な官庁建築。
建物は木造漆喰塗りで、張り出した車寄にはトスカナ風の列柱と大きなペディメント(妻壁)が載り、ヴェランダにも柱が並ぶ擬洋風建築。
■本家と比べるとやや首長のトスカナ式オーダーが並ぶ回廊
■三重県尋常師範学校・蔵持小学校/明治21年(1888)~三重県庁舎と同じ清水義八の設計。
張り出した車寄とヴェランダの柱はトスカナ風で、途中に持送りを出して連続アーチを支え、アーケード風空間を演出。
■東山梨郡役所/明治18年(1885)
当時山梨県を中心に多くの洋風建築を建設した県令藤村紫朗が手がけた、いわゆる「藤村式」の擬洋風建築のひとつ。
実際に設計施工を担当したのは地元の左官の棟梁土屋庄蔵で、三重県庁舎と同じ車寄とヴェランダにオーダーを配した当時の官庁建築の典型。
■神戸山手西洋異人館/明治20年(1887)代
明治初期に好んで建てられた典型的なヴェランダコロニアル様式の洋館。
ヴェランダをL字に廻し、柱の本数に変化を持たせているのが特徴。
■大井牛肉店/明治20年(1887)頃
元々神戸の外国人居留地にあった商店なので、ファサードはヴェランダにアーチ窓、コリント式柱に手摺はルネサンス風と洋風意匠でまとめています。
玄関は純和風で、むくり屋根に鶴の彫り物を飾っているのが明治の洋館らしく楽しい。
■歩兵第六聯隊兵舎/明治6年(1873)
軍の兵舎だけに白漆喰塗りの壁に整然と上げ下げ窓が並ぶだけの簡素な外観ながら、玄関ポーチの柱はしっかりとトスカナ式オーダーで押さえています。
■内閣文庫/明治44年(1911)
ドリス式のオーダーが巨大なペディメントを支えるファサードは、まさに古代ギリシア・ローマの神殿建築。
明治村では唯一の本格的ルネサンス様式の建築で、威風堂々のたたずまいは西洋建築の長い歴史を感じさせます。
■これでもかとばかりのでっかい柱とペディメントがすごい迫力。