南宮大社一の鳥居がある垂井宿の中心は、東西に走る中山道(県道234号線)と南北に走る県道257号線が交わる交差点で、昔ながらの宿場町の風情を感じる町並みが残っています。
■一の鳥居南側の町並み
■一の鳥居北側の町並み
■257号線沿いに残る洋風建築
■いにしえ感漂う街道沿いの食堂
■旧旅籠長浜屋~現在は垂井宿お休み処として使われています
■油屋宇吉家跡(国登録有形文化財)
■古い商家や町屋が残る街道沿いの町並み
■垂井宿の西の入口西見附跡付近~垂井宿に別れを告げJR垂井駅へ向かいます
■駅へ行く途中の煉瓦塀の路地
■美濃赤坂駅とは対照的な現代的な新しい垂井駅舎から東海道線に乗り家路につきました
中山道は垂井町に入り相川の手前で美濃路と合流、相川橋を渡ると垂井宿の東の入り口東見附跡です。
ここから中山道を西へ向かい垂井宿の中心街にむかいます。
■中山道・美濃路追分
■垂井宿東見附跡付近
■奥へ延びる道が中山道で垂井宿の中心へ向かいます
■旅籠丸亀屋~1777年創業当時の姿を残しています
■脇道に入ると垂井曳山まつりのやまを入れる蔵がありました
■中山道垂井宿の町並み
■地元岐阜や愛知の酒の看板が並ぶ酒屋さん
ねのひ(愛知県半田市)と菊川(岐阜県各務原市)はいつもお世話になってます
■街道沿いに残る立派な商家
■「水」のかわりに「water」とするところがモダンです
■こちらは街道名を入れた特注瓦かと思いきや、表札を見ると中山さんでした・・・
■垂井宿の中心、本陣のあった南宮大社一の鳥居付近に到着です
赤坂宿をあとに中山道を西へ向かうと昼飯と言うちょっと珍しい名前の町があります。
昼飯は「ひるい」と読みますが、当初は文字通り「ひるめし」と呼ばれていたそうです。その由来は、むかし長野の善光寺に大阪から如来を運ぶ一行が、途中ここで昼飯(ひるめし)をとったという故事からきています。
それからこの地を昼飯(ひるめし)と言うようになったのですが、「ひるめし」ではどうも下品でいけない。そこで飯の字を「いい」と読ませて「ひるいい」にしよう。そしていつのまにか「い」の字も一字省略されて、現在の「ひるい」になったそうな。(大垣市史より)
おあとがよろしいようで・・・
■昼飯町を歩いていたらちょうどお昼過ぎ、お腹がすいてきました
■中山道の北側には古い石灰工場が並びます
■戦前からの立派なお屋敷が点在しています
■玄関の鬼瓦の上に鎮座する鍾馗様
■東海道本線のガードをくぐると昼飯町から青墓町です~しかし青墓と言う地名も興味をそそられますなあ
■青墓の芦竹庵・円願寺跡~牛若丸がこの地に立ち寄った際、芦の杖を地面にさしたところ芦竹になったという伝説が残る
■県道216号線と交わり青墓に別れを告げます
■216号線を渡り青野町に入ります
■美濃国分寺(現在は美濃国分寺跡歴史公園)への道標
■青野の一里塚(中山道一里塚跡)
■駒引の交差点を過ぎると不破郡垂井町です
2週連続の台風が去ると、最近はずいぶん秋らしくなり朝晩は少し寒いくらいです。
本日も絵に描いた様な秋晴れ、午後からぶらっとポタリングに出かけました。
この季節自転車に乗るのは、ほんと気持ちい~~です。
■ペプシの看板と火の見のある風景(犬山市大縣神社前)
■稲刈り真っ最中です(小牧市)
■風に揺れるススキがいよいよ秋本番という感じです
■市民四季の森(小牧市)でちょっと一休み
■バラ園ではたくさんの種類のバラが咲いていました
■バラの種類はいったいどのくらいあるのでしょう?ネーミングにもこだわりが感じられます
曲名をつけたのでは「ラプソディー イン ブルー」なんてのもありました
西濃鉄道の踏切を渡るとすぐ左手に本陣跡があります。
皇女和宮が泊まったことで有名な赤坂本陣はすでにありませんが、毎年「中山道赤坂宿まつり」で皇女和宮行列が再現され、まつりの目玉になっています。
■現在本陣跡は公園になり石碑が建っています
■本陣跡に設置されている赤坂宿散策マップ~中山道(赤)と谷汲街道(オレンジ)、養老街道(緑)が交わる地点が四ツ辻になります
■本陣跡からさらに西へ向かうと赤坂宿の中心四ツ辻です
■四ツ辻は中山道と養老街道から延びる谷汲巡礼街道が交差する赤坂の中心
■四ツ辻の南西角には登録文化財に指定されている矢橋家母屋があります
■四ツ辻から南へ延びる養老街道
■赤坂の往時の面影を伝える養老街道
■四ツ辻から北へ延びる谷汲巡礼街道
■いつまでも残して欲しい丸ポストのある風景
■街道沿いに下見板貼りの洋風住宅発見~窓が縦長なのがポイント
■中山道赤坂宿のちょうど真ん中にあたる四ツ辻から、さらに西へ向かいます
■左手に赤坂宿脇本陣跡の石碑が建つ榎屋旅館があります(大垣市景観遺産)
■中山道沿いには戦前の古い町屋がまだたくさん残っています
■鹿光堂~築250年以上の土蔵造りの建物(大垣市景観遺産)
■赤坂宿の西端まで街道筋には古い町屋が並びます
■人通りの途絶えた中山道赤坂宿をひたすら西へ歩くのどかな昼下がり
■しかしまったく人が歩いていませんな・・・
■廃線になった西濃鉄道石灰製造工場への引き込み線の踏切~ここで赤坂宿に別れを告げ垂井宿へ向かいます
矢橋大理石周辺の散策を終え、中山道赤坂宿を歩きます。
まずは赤坂宿の東口にあたる赤坂大橋西の交差点から中山道を西へ、赤坂港跡へ向かいます。
■赤坂宿の東入口から中山道を西へ向かいます
■街道沿いには歴史を感じる古い住宅や商店が残っています~門構えが立派!
■安東広重の描いた赤坂宿の浮世絵のディスプレイ
■赤坂港跡の火の見櫓が見えてきました
■赤坂港跡~明治40年頃から舟運で栄えましたが、大正8年の美濃赤坂線開通により急激に衰退しました
河川改修により船の運行が困難になり、当時の面影はまったくありません
■明治41年に建立された常夜灯が当時のままぽつりと残っています
■赤坂港会館~写真パネルなどで赤坂宿の歴史を紹介
建物は明治8年赤坂の中心地中山道と谷汲街道の交差点に建てられた大垣警察第五分屯所を復元したもの
■当時の建物が残っていないのが惜しまれます
■赤坂港会館前の煙草屋~「まだこんな店が残っていたのか」と嬉しくなりました
■まさに「たばこやさん」と呼ぶにふさわしい堂々たる店構え、二連結の大きなショーウインドウが感涙モノです
■煙草屋の並びに建つこちらも昭和の匂いがする洋館住宅
■赤坂港会館前から中山道をさらに西へ向かいます
■左へ曲がると矢橋本社へ向かいます
■赤坂本町駅跡の踏切~向かって右側に赤坂本町駅跡の石碑があります
■金生山と美濃赤坂を結ぶ西濃鉄道の線路~店舗専用の踏切が設置されています
さらに中山道赤坂宿を西へ向かいます・・・・
今回の美濃赤坂訪問は、大理石王矢橋亮吉の洋館を見るのも目的のひとつです。明治~昭和初期にかけて、日本全国に一代で財を成した「〇〇王」と呼ばれた企業家たちが多数あらわれました。
矢橋は日本の近代建築に使われている大理石のほとんどを担ったまさに大理石王で、三重県桑名の山林王諸戸清六とともに東海地方を代表する実業家のひとり。明治維新からの殖産興業による近代産業発展にともない、石炭王、生糸王、タバコ王、ワイン王、鉄道王などなど様々な産業分野で王様と呼ばれる実業家たちが輩出しました。そして彼らはその成功と富の象徴とばかりに、こぞって当時としては最高の贅を尽くした西洋館を建てたのでした。
矢橋邸洋館もご多分に漏れず、贅を尽くして建てられた洋館のひとつです。地元金生山をはじめ国産最後の貴重な大理石(当時大正末にはほとんど輸入大理石に切り替わっていた)が邸内各所にふんだんに使われています。
今回は非公開の邸内を見ることはかないませんでしたが、大理石王の建てたこだわりの洋館の外観を垣間見ることができました。
矢橋本社から細い路地を隔てた南側、周囲を高い塀と深い木立で囲まれた広い敷地内の北側に矢橋家の旧住宅があります。東西に三棟の住宅が並んでいますが、和館の本館を中央に両脇を洋館がはさむように建っています。東側の小さな洋館と和館は初代亮吉が建てたもので、西側の大きめの洋館は次男の二代亮吉が結婚を機に新婚生活をおくるため新築しました。
西側洋館の外観はドイツのユーゲントシュティールやセセッションと言われる表現主義風のデザインで、途中で折れた急勾配の大屋根やドイツ壁、二階南面の大きな半円形の窓(浴場窓)などにその特徴を見ることができます。
邸内一階の広いサンルームには白大理石が敷きつめられ、壁の巾木や引き戸の鏡板、暖炉などにも各地の国産最後の大理石をふんだんに使い、屋敷全体が当時の国産大理石の展示場になっています。とくに暖炉には矢橋の原点ともいえる金生山で採れた茶色の石が使われているのが興味深いところです。
大理石ともう一つの見どころは邸内随所に見られる色とりどりのステンドグラス。植物をモチーフにした定番のデザインから、シカ、フクロウなど見どころ満載のステンドグラスが新婚家庭の洋館にふさわしい明るさを演出しています。
矢橋は全国各地の明治~昭和戦前期の建築の石材を一手に担い、矢橋抜きでは日本の近代建築は語れないといっても過言ではありません。現在でも日本銀行や国会議事堂、東京駅をはじめ、各銀行の本支店、地元東海地方では名古屋松坂屋、愛知県庁、名古屋市役所、旧岐阜県庁などに矢橋の手がけた大理石を実際に見ることができます。
床の間の置物からはじまり、暖炉から建築へと進出、近代建築にその名をとどめ設立100周年を迎えた矢橋は、現在も赤坂の石材産業をけん引し国内トップシェアを誇っています。その矢橋親子の業績と国産大理石の歴史を物語るかのように静かにたたずむ美しい白亜の西洋館。これからもゲストハウス南洋倶楽部として大切に保存され、幸せな余生を送っていくことでしょう。
◆旧矢橋亮吉邸洋館・南洋倶楽部/岐阜県大垣市赤坂町矢橋大理石(株)敷地内
竣工:大正13~14年頃(1924~25)
設計:岡村徳一郎
構造:木造2階建
撮影:2014/09/28
※建物の詳細は、建築探偵・近代日本の洋館をさぐる10↓
https://www.youtube.com/watch?v=NnSk0EzUO_A
■建物西側外観~ディテールにこだわった本物の西洋館だけが持つオーラが漂います
大屋根が途中で折れているのが分かるが、正面南側の特徴的外観が見られないのが残念!
■北隣に古い木造の建物が残る
■建物北側外観~大きな石貼りの煙突は本格的西洋館の必須うアイテム
■縦長の窓にはお約束のステンドグラス(ユリの花模様)~邸内から見られないのは残念です
■初代亮吉が建てた東館外観
隣の和館とセットで建てられたもので、和館+洋館の大正期の邸宅の典型的なかたち
外観は装飾的な木枠を見せるハーフティンバー風仕上げで洋館らしさを演出
■窓枠の装飾にも当時流行のセセッション風デザインが施されています
美濃赤坂で見つけた大垣市消防署の琺瑯看板。
「火事救急は119番」とわざわざうたってあるのが時代を感じさせます。
字体も昭和っぽくて良い感じです。
撮影:大垣市赤坂町(2014/09/28)
美濃赤坂駅の東側には矢橋大理石の本社があり、周辺には石材加工関連の工場が広がります。矢橋大理石は明治34年(1901)近くの金生山の大理石を加工販売する矢橋大理石商店として創業、その後建築用大理石の分野で大きく成長し、現在も矢橋を筆頭に美濃赤坂の大理石産業は国内一のシェアを誇っています。
この界隈は本社事務所を中心に戦前の木造の建物が多数現存しており、黒塗りの木造の工場建築が建ち並ぶ風景は、大正~昭和の街角の風情を今も色濃く残しています。また本社敷地内には二代目矢橋亮吉が建てた洋館と、すぐ北側の中山道赤坂宿の本家住宅が現存していて、大理石で繁栄を極めた矢橋家の歴史を知ることができます。
■矢橋大理石の古い木造の建物が今も残る赤坂の町並み
■奥のコンクリート造の建物が矢橋大理石本社
■本社西側の道を北に向かうと旧中山道です
■周辺には歴史を感じさせる邸宅が点在しています
■本社前の道から雰囲気のある細い路地を西へ入ると、そこには矢橋家の洋館が建っていました
■高い塀越しに瀟洒な洋館が垣間見えます
■門構えからしてそこいらの邸宅とはグレードが違います
■煙突のそびえるこれぞ本格的西洋館
■本社南側に隣接する原石ヤード~世界の産地から輸入された大理石や花崗岩などの原石が置かれています
■敷地南側には年代を感じるレンガ塀の小道があります
■この辺りはちょっと歩きたくなる小道がたくさんあります
美濃赤坂駅は大正8年(1919)、東海道線の支線大垣~美濃赤坂間5.0kmの開通にあわせ、終着駅として開業。実際の美濃赤坂線は東海道線から北側にチョロンと分岐していて、路線の長さは1.9kmというまさに盲腸線という呼び名がふさわしい短さです。
列車を降りると開業当時の面影を残す年季の入った木造駅舎がお出迎え。ローカル線の終着駅ならではの雰囲気を存分に味わえます。広大な駅構内は金生山からの石灰石運搬用の貨物専用の側線とプラットホームがあり、鉄道輸送最盛期の往時の面影を今に伝えてくれます。ひなびた駅舎と郷愁漂う構内の雰囲気は、鉄道ファンならずとも一度は訪れる価値のある鉄道遺産です。
■美濃赤坂駅で出発を待つ2両編成の313系電車
■駅舎正面
■駅舎全景
■駅舎ホーム側
■駅舎玄関
■開業時の面影が残る待合室は、95年前に時を戻してくれます
■朝夕の通勤通学時間帯以外は、1時間に1本あれば良い方です
■貨物線のホームと線路が延びるひとっこ一人いない駅構内は静まりかえり、「遠くへ行きたい」のテーマソングが頭の中を流れます
◆美濃赤坂駅~JR東海 東海道線/岐阜県大垣市赤坂町153-1
竣工:大正8年(1919)
構造:木造平屋建
撮影:2014/09/28
9月最後の日曜日、天気も秋晴れ、久しぶりにぶらっと町歩きに出かけました。今回は以前歩いた中山道醒井宿(滋賀県)から岐阜県側に入った赤坂宿~垂井宿間を歩こうと思い立ち、JR東海道線でまずは大垣駅へ向かいました。
■大垣駅で総延長たった5kmの美濃赤坂線に乗り換え、終点美濃赤坂に向かいます
■3番ホームの西端に2両編成の列車が到着、そのまま折り返して美濃赤坂へ向かいます
■途中東海道本線から分岐して単線になり、荒尾駅を過ぎるとすぐに終点の美濃赤坂に到着です
■すぐ東側には屋根つきの貨物用プラットホームが設置されています
■ホームから美濃赤坂駅舎を望む~駅舎は大正8年開業の味のある木造駅舎
■駅前の古い洋風建築が、貨物線の西濃鉄道事務所として使われていました
■美濃赤坂駅構内の東側には、本線よりかなり立派な側線の貨物ホームが広がります。
元々は石灰石の輸送用として設置されたものですが、現在も使われているのでしょうか?
■駅の西側には金生山からの石灰石輸送のための貨物線が通っていますが、現在は廃線になっている様子
■駅南側の線路沿いにある古い石灰石工場