旧中山道沿いの鵜沼宿に、明治~大正に建てられた菊川酒造の二棟の蔵が残っています。
東側の本蔵は大正後期、西側の豆蔵は明治初期に移築されたと伝わっています。
鵜沼宿には、安田家住宅(若竹屋)、梅田昭二家、梅田吉道家住宅(茗荷屋)、坂井家住宅(丸一家)など江戸~戦前期の住宅が現存し、かつて栄えた宿場町の風情を今に伝えています。
■菊川酒造東蔵/大正後期
■菊川酒造豆蔵/明治初期移築
■中山道鵜沼宿の町並み
撮影:2017/05/28
古い町屋が軒を並べる河原町通で唯一現存する洋風建築を見つけました。3階建の建物のファサードは幾何学模様の装飾が施され、側面の壁は銅板貼りのようです。いわゆる戦前の看板建築と言われる建築形態で、ファサードの装飾が絵に描いた様に平面的なのが特徴です。日本古来の軒の低い家並みのなかでは、縦長の外観の洋風建築はひときわ目を引く存在で、河原町通のランドマークとしてぜひ残して欲しい建物です。
撮影:2014/09/07
先の大戦で岐阜市街地は大規模な空襲を受け、特に岐阜駅周辺の中心部は戦前の古い建物はほとんど残っていません。今回散策した岐阜公園の西側一帯、長良川の左岸沿いは戦災を免れた建物もあるようで、戦前からの古い町屋や蔵がまだ残っています。特に長良橋~金華橋に至る金華橋通り南側と長良橋通り界隈には、洋風建築こそ少ないものの、岐阜の城下町の風情を感じさせる町並みが残っていて散策にはもってこいです。
そんな昔ながらの町並みが残る西材木町で、ちょっとお洒落な外観の洋風建築を見つけました。白いタイル貼りのファサードを水平に走る庇と丸窓がポイントで、直線と円を基調にした幾何学的デザインは昭和戦前期のモダンデザインの流れを感じさせます。建築年など詳細は不明ですが、和風の町屋が中心の町並みでひときわ目を引く洋風建築で、現在は「326 TRE DUE SEI」というベーカーリーとして、現役で使われているようです。
◆326 TRE DUE SEI/岐阜県岐阜市西材木町41-2
竣工:不明(昭和戦前期?)
撮影:2014/09/07
今回は久しぶりに自転車で岐阜市街を散策したのですが、岐阜小学校正門前で木造下見板張りの古い洋館を発見しました。外壁は白く塗られ保存状態も良好で大切に使われている様子がうかがえます。洋館の東側玄関部分は純和風で、西側にも和風の家屋が付属しています。近代建築の調査書やガイドブックには未掲載のため建物詳細は不明ですが、建築年は大正期頃でしょうか?当初洋館部分は事務所など業務用に、和館部分が住居用に使われた可能性が高いようです。
◆大工町の洋館/岐阜県岐阜市大工町
竣工:不明(大正~昭和戦前期頃?)
構造:木造2階建
撮影:2014/9/7
■軒蛇腹の下にはブラケット、1~2階の間には同蛇腹、下見板張りに縦長の上げ下げ窓と洋風建築のツボを押さえた造り
■ブラケットの形状が独特です
久しぶりに天気が良かったので、岐阜方面へ自転車でツーリングに出かけました。途中各務原市でなかなか雰囲気のある建物を発見。実はこの建物、わたしの母校の中学の校門のすぐ前にあるのですが、中学生の時は古い建物に全然興味が無かったので、つい最近まで全く存在に気づきませんでした。
織物関係の事務所と思われますが、和風の外観ながら細かく分割された窓枠が時代を感じさせます。建築年は不明ですが、大正~昭和初期といったところでしょうか。すぐ脇にある建物も、外壁は新しくなっていますが玄関廻りの造りが洋風で良い味出してます。
◆合名会社 安田商店/岐阜県各務原市那加東亜町
竣工:大正~昭和初?
構造:木造
撮影:2014/9/7
■窓枠が上から4・3・4になっているのはかなり珍しい
■玄関ポーチが洋風なのが見どころ
鶯谷トンネルの西側にある古い建物ですが詳細は一切不明です。
建物外観はRC造っぽいですが、屋根は和風の瓦葺、正面の方形の豆タイルや窓枠の感じから戦前から昭和30年代頃までに建てられたものではないかと思われます。 (撮影:2012/09/02)
石原美術の斜め前にあるレストランで、明治の土蔵造の建物を改装して再利用しています。
元々は貿易事務所として建てられたもので、ファサードは完全にリュニーアルされてとても明治の建物には見えませんが、瓦葺の屋根や石積の土台に当時の面影が残っています。
◆カフェレストラン桂翆館(旧岐阜県洋服会館)/岐阜県岐阜市米屋町2
竣工:明治40年(1907)
構造:木造2階建土蔵造
撮影:2012/09/02
岐阜市の中心部と山県市高富町を結ぶ国道256号線(長良橋通り)を北上、長良橋を渡ると国道のすぐ東側を並行して走る旧高富街道沿いに旧久保田外科医院が建っています。
旧街道沿いに東向きに建つ建物は、一見ロマネスク教会を思わせ、正面2階部分の三連続のアーチ窓や両脇の丸窓、軒下の連続小アーチ(ロンバルト帯)が印象的です。しかし玄関廻りに目を転じると、ねじれた円柱や階段状に迫り出したアーチはどこか中近東を思わせるサラセン風で、全体的に異国情緒が漂う洋風建築です。
道路に面した医院部分は洋風でまとめていますが、西側の住居部分は和風で、全体では和洋折衷の店舗付住宅形式の建物になっています。
◆旧久保田外科/岐阜県岐阜市長良福光2651
竣工:昭和4~9年頃
設計:五十嵐某
施工:千代田組
構造:木造2階建
撮影:2012/09/02
■建物東側正面~外壁は塗りなおされ玄関ドアや窓枠はサッシに変更されていますが、それ以外は当時の佇まいをよく残しています
■建物北東側
■三連続のアーチ窓には張り出しの手摺を設け、両脇の丸窓は金属製の紋様入り
■北側には金属製の格子が入った大きな丸窓
■異国情緒漂う玄関廻り
■玄関には迫り出しアーチドームを設け、扉框上にはステンドグラス、脇の隅柱には紋様入りタイルが貼られる
■植物の葉っぱの柱頭飾りが付いた渦巻形紋様の円柱はかなりのインパクト
※旧久保田外科は以前このブログで取り壊し情報をアップしましたが、住所が長良北町から長良福光に名称変更されたため、前回の訪問時に建物を見つけられず、取り壊しと勘違いしてしまいました。訂正してお詫びいたします。
岐阜市を流れる長良川に架かる大縄場大橋のすぐ下流左岸に今泉排水機場があります。
排水機場は本川と支川の合流点に水門・樋門などと一緒に設けられ、支川への逆水を防ぎ、さらにその際の上流からの雨水を排水する役目を担っています。
今泉排水機場は長良川東側、左岸堤防道路に沿って南北に長い長方形の建物で、北側の部分が出っ張った形状になっていて、長良川に面した西側に正面出入り口、南北にも2箇所の出入り口が設けてあります。
外壁にはピラスター状の柱が張り出し、陸(ろく)屋根の軒下にはタイルの帯、その下には逆V型の連続文様、柱の間には幾何学模様の装飾が施されています。
建物の南側には、竣工時の昭和8年から平成2年まで使われた、古い蝶型弁が展示されています。
◆今泉排水機場/岐阜市桜木町2丁目
竣工:昭和8年(1933)
構造:RC造
撮影:2012/09/02
■建物北東側~北側壁面に出入り口があります
■建物南西側~南側出入り口の脇に古い蝶型仕切弁が展示されています
■仕切弁と排水機場の概要説明看板
■南西側から見た建物~軒下の装飾と壁面中央の幾何学模様がよくわかります
■建物西側~長良川堤防道路より撮影
■西側正面出入り口周り
■金属製のプレート
壁面の3種類の幾何学装飾は、何か意味があるのか、単なる設計者の思いつきかは不明ですが、装飾が施された壁面の位置にはそれぞれ決まりがあるようです。
■西側正面出入り口上の三角形
■南北出入り口上~渦巻き模様が唯一水を連想させるデザイン
■その他の壁面にある逆三角形
■建物北西側
名鉄名古屋本線笠松駅の東側にかなり古そうな煉瓦造の建物が残っています。
建物の形状から発電所か変電所として建てられたのではないかと思われますが、竣工年など詳細は不明です。
外観は煉瓦の上からセメントが塗られ、南妻側もかなり改変されていますが、北側の壁面に当時の面影を見ることができます。
■笠松駅東口のすぐ南側に建っています。北側の妻面は窓も残り当時の面影をとどめています。
■南側の妻面は窓も埋められ東側が改変されています
■西側外観(駅ホーム側より)
撮影:2012/05/05
現代的なコンクリートの校舎が建ち並ぶ岐阜工業高校の正門を入ってすぐ右側、木立に囲まれた一角に木造下見板貼りの洋風建築が建っています。
旧岐阜工業試験場の本館で、元々は地元の繊維産業振興の目的で設置されましたが、昭和47年試験場は移転され、敷地は隣接する岐阜工業高校へ移管されました。
試験場は取り壊されましたが、本館の一部は、明治~昭和初期にかけて隆盛を極めた岐阜県の繊維産業を偲ぶ記念館として遺され、現在も技工記念館として大切に保存されています。
◆技工記念館(旧岐阜県工業試験場)/岐阜県羽島郡笠松町常磐町1700
竣工:昭和4年(1929)
構造:木造2階建
撮影:2012/05/05
※国登録有形文化財・近代化産業遺産
■旧本館正面(南側)~1階部分外壁は下見板張り、2階部分はモルタル塗りにして変化をつける
正面玄関車寄の上部の壁を屋根の上まで立ち上げ、門柱のようなデザインにして装飾を施しています
■旧本館東側~東玄関上部の出窓の意匠が見所
岐阜市の東隣に位置する務原市は、航空自衛隊岐阜基地と川重(川崎重工業)の町として東海地方では知られています。
航空機の町としての歴史は大正6年の陸軍の飛行場の建設に始まりますが、陸軍の航空部隊の拠点の一つになった各務原に目を付けた神戸の川崎造船所が、大正12年陸軍の飛行場に隣接する当時の蘇原村三柿野に川崎造船飛行機部の各務原分工場を建設したことにより航空機産業が大きく発展しました。
その後昭和12年には川崎の飛行機生産部門が独立し、川崎航空機工業株式会社が設立され、その当時建てられた岐阜工場の事務所が現在は川崎重工の岐阜工場事務所として今も現役で使われています。
岐阜工場の建物は大規模な空襲を受け、当時の建物として現存するものはほとんど無く、戦前からの航空機産業の歴史を語る貴重な産業遺産です。
◆川崎重工業(株)岐阜工場事務所/岐阜県各務原市川崎町1
竣工:昭和12年(1937)
構造:RC造3階建
撮影2011/09/23
軍靴の足音が近づく昭和12年竣工、外観は歴史様式を脱したほとんど装飾の無いインターナショナルスタイル
玄関車寄の部分だけ天然石を使用し石張り風に目地を切っている
屋上の国旗掲揚ポールの根元に唯一装飾が見られる
以前に美濃加茂市を散策した時に、国道21号線沿いで見つけたちょっとクラッシクな元銀行の建物を紹介しましたが、その後竣工年など詳細が判明しましたので再度アップしたいと思います。
◆旧大垣共立銀行美濃加茂支店/岐阜県美濃加茂市太田町3504
竣工:昭和27年(1952)
構造:RC2階建
撮影:2011/10/02
建物全体はまさに豆腐と呼ぶのがふさわしい直方体で、味も素っ気もありませんが、ファサードは石貼り風に目地を切り、玄関周りには2階まで通しの溝の付いた4本の付け柱(ピラスター)を配して古典様式風な味わいを残しています。
初見では戦前ぎりぎりから昭和30年代前半までくらいの建築年と想像していましたが、、「大垣共立銀行九十年史」により昭和27年竣工と判明しました。
銀行建築は昭和30年代半ばまでは戦前の様式建築の面影を残していましたが、昭和40年代の高度成長期に入ると、急速に一切の歴史様式を排除した現代建築に変わっていきます。
昭和27年に建てられた大垣共立銀行美濃加茂支店は、戦前の歴史様式の残り香をまとった最後の銀行建築と言えるかもしれません。
現代の銀行には見られないレトロな外観は、古き良き昭和30年代の面影を残しています
地方の町で洋風建築と言えば、役場や組合事務所、銀行、郵便局など公共性の高い建物がほとんどですが、比較的どこの町でも洋館建てになっている確率が高いのが、医院、薬局、写真館です。
外国から入ってきた最新の知識や技術、道具を扱うこれらの職業には、町の人々が建物を一目見てそれと分かるステイタス性の高い最新の洋風建築がぴったりだったのです。
特に写真館は一般にカメラが普及する昭和40年代頃までは、家族で写真を撮ってもらう晴れの場として、町の人々に親しまれてきました。写真館と言えばレトロな洋風建築が定番ですが、そんな町の写真館も手軽に撮影、プリントできるデジタルカメラの登場ですっかり影が薄くなってしまいました。
関市の須田写真館は大正11年築の洋風建築で、外装をリニューアルして現在も大切に使われています。大正、昭和、平成と時代の記憶を刻んできた古い写真館は、これからも町の人々の思い出を次の時代に引き継いでいきます。
◆須田写真館/岐阜県関市西門前町1
竣工:大正11年(1922)
構造:木造3階
撮影:2007/03/04
各務原市の建築散歩~その3
各務原市の南西部の稲羽地区は、戦前から昭和40年代頃まで繊維産業が盛んで、個人経営の織物工場が軒を並べていました。
織物工業が隆盛を極めた時代を物語る建物として、昭和2年に建てられた中屋織物工業協同組合の建物が最近まで現存していましたが残念ながら取り壊され、稲羽地区には戦前の洋風建築はほとんど残っていません。
小佐野町に残る「松駒荘」は大正から昭和初に建てられたと思われる木造下見板の洋風建築で、現在も当時の面影を良く残している貴重な建物です。
松駒荘(まつこましょう)をネットで検索してみると、現在は不動産屋さんとして使われているようで、何はともあれ戦前の建物が有効利用されているのは喜ばしい限りです。
建築当初は織物関係の会社か住宅として使われたと思われますが詳細は不明です。
しかしそれ自体がアパートの名前のような「松駒荘」と言う屋号を、そのまま不動産屋に使っているのが面白いところです。
◆松駒荘/各務原市小佐野町3丁目230
竣工:大正~昭和?
構造:木造2階
撮影:2006/08/15
玄関ポーチの造りや屋根飾りが大正期の洋風建築の面影を残します
玄関には右から読ませる「荘駒松」と言う木製の看板がかかっています