4月末の連休を利用して訪れた東濃(多治見・土岐・瑞浪)の建築探訪シリーズもいよいよ最終回です。
瑞浪市釜戸町の小松屋を後にして国道19号線を北上、武並駅の手前で左折して国道418号線に入り関西電力笠置発電所を目指します。
木曽川を渡り右岸沿いを下流に向かいますが、途中から道幅が細くなり「この先行止まり」の看板が立っています。
国道418号線は笠置ダム~八百津間が、災害や丸山ダムによる水没地域にあたるため、年間を通して通行止めなのは知っていましたが、途中からかなり狭くなった道路を走っているとちょっと心配になってきて、左手にお目当ての笠置ダムが見えてきたときは、正直ホッとしました。
■木曽川右岸を走る国道418号線ですが、国道とは名ばかりで、行止まりの看板がある所からは極端に道幅が狭くなり、かなり心細い状況です
■笠置ダムのすぐ下流で国道418号線は通行止めになり、八百津方面へは抜けられません
■笠置ダムの案内図~すぐ上流には大井発電所、下流には旧八百津発電所(現在は資料館)があります
◆関西電力笠置発電所/岐阜県恵那市飯地町岩泉
竣工:昭和11年(1936)
設計:佐藤四郎
施工:佐藤組
構造:RC造
撮影:2013/04/28
■笠置ダムのすぐ下流にある発電所(上流側より撮影)
■ダムに設置された照明台~橋の親柱のような幾何学装飾が見られます
■同じ佐藤四郎設計の下流の今渡発電所と同様、細かいピラスター(付け柱)を配して窓間隔を詰め、垂直性を強調した外観はゴシック建築の趣があります
■国道418号線より発電所北側正面を望む
■間隔の狭いピラスターの間に縦長の窓が配置されています
■北側の山の斜面にある発電所施設
■笠置ダム/C重力式ダム(テンターゲート)~下流側より撮影
現在名古屋と東濃地方を結ぶ幹線道路は国道19号線ですが、近代までは中山道の槙ヶ根追分から名古屋の伝馬町まで、土岐川(庄内川)沿いを通る下街道が発達しました。
交通の要所として栄えたJR中央線釜戸駅前を通る下街道(現在の県道421号線)沿いに、往時がしのばれる立派な近代建築が残っています。
山間の小さな町ではひときわ目を引く鉄筋コンクリート3階建の建物は、昭和7年に建てられた小松屋という雑貨店で、地方の都市としては比較的早い時期のRC造建築です。
設計は名古屋に建築事務所を開き、東海地方を中心に活躍していた城戸武男で、金城学院高校栄光館(登録文化財)や中北薬品京町支店、旧名古屋証券取引所(取り壊し)など多数の近代建築を手がけています。
外観は装飾の全くないコンクリートの白い箱で、当時としては最新のインターナショナルスタイルと呼ばれるデザインです。
同じモダンデザインでも幾何学装飾などが残る表現主義に比べ、近代建築としては特に見所が無く面白みには欠けますが、ファサードの窓割りなどに戦後の建築には無い独特の表情があり、なかなか味わい深い建物です。
◆(株)小松屋/岐阜県瑞浪市釜戸町3205
竣工:昭和7年(1932)
設計:城戸武男
施工:志水組
構造:RC造3階建
撮影:2013/04/28
外壁の一部分だけタイル貼りにしている古い商店や住宅も多く見られます。
当時の流行もあるのでしょうが、タイルの種類や使い方のバリエーションが豊富なので、現代の建築には無い面白さがあって見ていて飽きません。
多治見の町も戦前の古い建物はどんどん壊され、新しいマンションや住宅、駐車場に変わっています。
昭和の建物が残る昔ながらの町並みが消え去るのも、そう遠い未来ではないのかもしれません。
■玄関廻りだけスクラッチタイル貼りの理容店(御幸町)
■コーナーと出入り口、窓廻りはスクラッチタイルを使用(御幸町)
■連子格子の古い商家ですが腰のタイルが良い味です(新町)
■昭和30~40年代頃の築でしょうか?建物の角をタイル貼りにしたのが効いています(新町)
■外壁は全面コンクリートでもよさそうですが、あえて腰に豆タイルを廻しています(錦町)
■画像では分かりにくいですが、赤と青の豆タイルを貼っています(広小路)
■壁のパステルトーンとショーウインドウの緑と白の市松模様が何とも良い感じです(新町)
撮影:2013/04/29
多治見市内でガイドブックや近代建築総覧に掲載されている物件で現存確認できたのは、多治見輸出陶磁器完成組合、旧昭和橋郵便局、旧山田歯科医院、カトリック多治見教会(以前にアップ)と多くはありません。
しかし土岐川の南側に拡がる古い町並みを中心に、建築ガイドには載っていない古い洋風の商店や住宅が結構残っていて、昭和な街角を散策しながらの建築ウォッチングが楽しめます。
特に焼き物の産地多治見ならではのタイル貼りの建物が多く見られ、なかでもファサードが全面タイル貼りの小路町の2軒の商店は、かなり本格的な看板建築風で一見の価値ありです。
■下廣商店~正面から見るとタイル貼りの3階建てビル、横にまわるとタイル貼りなのはファサードだけの看板建築なのが良く分かります。
屋号も右から書かれていて、昭和初期のレトロな雰囲気がたまりません。
■みの周~通りを挟んで下廣商店の向かいにある洋品店。ファサードはス本格的なクラッチタイル貼りの昭和モダンな外観
■2階のアーチ窓周りはタイルの色目を変え、窓ガラスにはブルーの色ガラスがはめ込まれています
撮影:2013/04/29
旧昭和橋郵便局からさらに南へ向かうと県道15号線の錦町2の交差点に出ます。
交差点を左折して東へ向かうと、東海地方では有名な喫茶店チェーンのコメダ珈琲店の向かいに、コンクリートの塀に囲まれた歴史を感じさせる洋風の邸宅が建っています。
昭和初めに歯科医院として建てられたもので、県道側から見ると大きな寄棟の住宅の南側に、急勾配の切妻屋根を持つ洋風の建物が取り付いています。
建物はよく手入れされ、外観もかなり改修されているので、ちょっと見はそんなに古い建物には見えません。
しかし細部をじっくりと観察すると、2階の庇部分のブラケット(持送り)や小神殿風の東側玄関などに、戦前の洋風建築ならではの特徴を見つけることができます。
いかにも西洋館という建物ではありませんが、伝統的な日本建築に部分的に古典様式のモチーフを取り入れた和洋折衷の建物は、昭和初めの医院建築の特徴をよく表しています。
■県道15号に面した建物南側~二層に塗り分けたコンクリート塀にも昭和な匂いが感じられます
■建物東側~2階の庇の下にはブラケット、玄関にはギリシャ風のペディメントとオーダーを配し洋風建築のツボを押さえた造り
■玄関はルネサンス建築などによく見られる小神殿風
小神殿とはエンタブラチュア(梁)とその上のペディメント(三角形の部分)を支える二本のオーダー(この場合はトスカナ式?)から構成され、モダニズム前の洋風建築ではこのモチーフが装飾の定番の一つとして用いられました
■門柱には旧字体で書かれた医院名がそのまま残る
◆旧山田歯科医院/岐阜県多治見市錦町2
竣工:昭和初年(1926)
構造:木造2階建
撮影:2013/04/29
JR多治見駅方面から南へ向かい、土岐川にかかる昭和橋を渡ると、右手の堤防道路沿いに前回紹介した多治見輸出陶磁器完協同組合の建物があります。
そのまま道なりに進むとすぐに、建物側面にブルーシートが張られた少々痛々しい姿の建物が見えてきます。
昭和初期に建てられた旧昭和橋郵便局の建物で、中央に玄関を配置した左右対称の造りは、いかにも小さな町の郵便局といった風情が漂いますが、そこは陶磁器で栄えた多治見らしく、タイル貼りのファサードは年数を経てもかなり良い状態で保たれています。
これが下見板張りなんかだと、長年の風雨にさらされて古色蒼然、かなりくたびれた状態になるんですけど、さすがに本格的なタイル貼りの壁面は痛みが少なく、とても昭和初期の建物には見えません。
ドアや窓枠はサッシに変更されていますが、建物の外観は当時のままで、昭和初期の郵便局としてはかなりモダンだったと思われる当時の姿をとどめています。
隣の建物が取り壊され、現在は空き家になっている旧郵便局の建物、残してほしいのですがかなり行く末が案じられる状態です。
■腰回りだけは方形のタイルに変えて外観に変化を持たせています
■玄関の庇部分には一部スクラッチタイルと緑色のモザイクタイルを使用
■庇の裏側の見えない部分にも光沢のあるモザイクタイルを貼る芸の細かさです
◆旧昭和橋郵便局/岐阜県多治見市昭和町40
竣工:昭和9年頃(1934)
構造:木造2階建
撮影:2013/04/29
今回からは土岐市に続き東濃シリーズ第2弾、多治見編をお送りします。
多治見は土岐市、瑞浪市とともに、古くから陶磁器の町として栄えた東濃地方の中心地で、土岐川の南側一帯には現在も古い町並みの面影が残っています。
特に土岐川沿いの青木町から昭和町にかけては、大正末~昭和初期にかけて洋風建築が多数建てられましたが、現在残っているのは、昭和橋の南詰にある多治見輸出陶磁器完成協同組合と旧昭和橋郵便局の建物だけになってしまいました。
多治見は陶磁器製品のなかでも、モザイクタイルや耐火レンガなど建築資材関係の生産が盛んで、この建物も陶器の町にふさわしい総タイル貼りのモダンなデザインになっています。
建物の前の看板によると、現在は多治見輸出陶磁器完成協同組合の他に、雑貨&カフェReverie(レヴェリ)と英会話教室が使用しているようです。
建物についてはReverieさんのHPに詳しく紹介されており、それによると大正末から昭和初期にかけて演劇場として建てられ、その後税務署、裁判所、陶磁器の組合事務所として使われてきたようです。
陶器の町として栄えた多治見の街角の雰囲気を今に伝える昭和モダンな洋館、これからも末永く大切に使われて次の世代に引き継がれてゆくと良いですね。
■建物正面~土岐川沿いの堤防道路に北面して建つ左右対称の建物
■玄関の円柱には光沢のある玉虫色のモザイクタイルが貼られています
■外壁の荒いスクラッチタイルと柱のツルピカのモザイクタイルの取り合わせが絶妙です
■建物南側~個人的な趣味で恐縮すが、スクラッチタイルに丸窓の組み合わせは、まさにど真ん中の直球ストライク!です
◆Reverie/多治見輸出陶磁器完成協同組合/岐阜県多治見市昭和町18番地
竣工:昭和初期
構造:木造2階建、地下1階
撮影:2013/04/29
土岐市駄知町には昭和の雰囲気を残す町並みが残っていて、のんびり古い建物を見ながらの町歩きが楽しめます。
先に紹介した旧駄知信用組合、藤本内科医院、旧駄知商業組合の建物は、駄知町を代表する戦前の洋風建築ですが、その他にも洋風、和風取り混ぜ多くの昭和な建物が残っています。
県道69号線沿いの駄知支所から南へ入ると、JAとうと駄知のすぐ東隣に木造下見板の古い住宅があります。
戦前の役所や学校を思わせる見事な下見板張りの洋風建築です。
下見板の洋館の南側の遊歩道(東濃鉄道駄知線跡)を西へ向かうと旧駄知信用組合の建物が見えてきます。
旧駄知信用組合の角を左折、川沿いにの道を南へ向かいます。
旧駄知信用組合の前の小さな橋に古い親柱が残っていました。
橋本体は架け替えられていますが、残された親柱には「あづまはし」と「大正15年5月」と刻まれています。
■古い防火用水?をプランターとして再利用
川沿いの道をさらに南下します。
永大橋のたもとでちょっと変わった建物を発見。ちょっと見は和風ですが・・・・
バルコニーの手すりは、橋の高欄のような和風デザインですが、柵が途中で切れているためまるでロウソクが並んでいるよう。
さらにその下には、小アーチが並ぶロマネスク様式のロンバルドバンド風の装飾が施してあります。
建物正面には美容院の看板がありますが、そんなに古い建物には見えません。
ところが川に面している美容院の裏側は、和洋折衷のかなり面白い構造になっています。
川沿いの建物の外壁は石積で洋風の縦長の窓が並び、一番奥はドイツ壁風にして窓の上に植物の装飾をあしらっています。
川沿いの道は西側に外れ、さらに南へ向かうと右手にタイル貼りの建物が見えてきます。
建物全体のシルエットは入母屋造りの和風ですが、ファサードだけはタイル貼りで2階の窓も縦長の洋風です。
撮影:2013/04/28
藤本内科医院の西側を南北に走る通りの一本東側の通りに面して、タイル貼りのモダンな建物が建っています。
玄関のガラスに「駄知商業協同組合」と書かれてありますが、現在は使われていないようです。
こちらの建物も詳細は一切不明ですが、建物の様式から戦前物件と思われます。
◆旧駄知商業協同組合/岐阜県土岐市駄知町
竣工:不明(戦前、昭和初期か?)
構造:不明(RC造?)
撮影:2013/04/28
■建物南側~陶磁器の町らしく全面タイル貼りで、出入り口廻りだけタイルの色を変えています
■建物西側~外壁にはほとんど装飾は見当たりませんが、こちらの玄関上部には菱形の模様が施されています
■幾何学模様の装飾が昭和モダンな雰囲気を醸し出します
土岐市の中心部と駄知町を結ぶ県道69号線の丸山橋交差点から南へ延びる道路沿いに、下見板張りの西洋館が建っています。
玄関には藤本内科医院の看板がかかっていて、建物の外観からは戦前物件(昭和初期あたりか?)の雰囲気が漂いますが、近代建築ガイドや調査報告書などには未掲載のため、建物の詳細は一切不明です。
建てられてからかなりの年数が経過していると思われますが、下見板に塗られた淡いブルーのペンキも真新しく、保存状態は非常に良好で、オーナーが大切に使われている様子が建物から伝わってきます。
土岐市には熊谷医院と森川歯科医院が現存しており、駄知町に残るこの藤本内科医院を含め、3件の戦前に建てられた医院建築が現存していることになります。
藤本内科医院は、昭和の風景が残る駄知町の街角でもひときわ目を引くレトロな洋風建築のひとつで、長年風雪に耐え地域の医療を支えてきた姿は、愛らしくも頼もしい、まさに駄知町の原風景としてこれからも人々に愛されていくことでしょう。
◆藤本内科医院/岐阜県土岐市駄知町1953-2
竣工:戦前(昭和初期?)
構造:木造2階建
撮影:2013/04/28
■建物北側正面~淡いブルーの下見板に軒下の白壁が映えます
玄関ポーチの妻壁にはハーフティンバー風に木骨を見せています
■玄関脇には旧字体の『保険医』のプレートがそのまま貼られています
■建物西側~駄知町を南北に走る幹線道路に面しています
■建物東側
■西側の道路に架かる歩道橋から撮影~建物平面はコの字型で、南側には住居スペースと思われる日本家屋が建っています
■医院は駄知町を南北に走るメインストリート沿いに位置します
JR土岐市駅のある土岐市の中心街から車で15分ほど南西に走ると、駄知町地区があります。
駄知町は山間の小さな町ですが、戦前から美濃焼き(陶磁器)の産地として栄え、特にどんぶりの生産で有名で、今でも往時の姿をとどめる昭和な街角の風景がそこかしこに残っています。
町の中心部にある駄知郵便局の交差点を南へ入ると、川沿いにレトロな外観の建物が建っています。
この建物は現在の東濃信用金庫の前身にあたる駄知信用組合(大正13年設立)の本店として昭和7年(1932)に建てられました。
その後駄知信用組合は駄知信用金庫(昭和26年)、岐陶信用金庫(昭和27年)に名称が変更され、昭和54年には多治見信用金庫、土岐津信用金庫と合併し、東濃信用金庫が設立されました。
昭和31年(1956)に信用金庫が新社屋に移転、現在は駄知小売商業協同組合の事務所として使われています。
昭和初期に建てられた信用組合の建物としては改変が少なく、金庫室や2階のホールなどほとんど当時のままの状態で残されています。
一近代建築ファンとしては、これからも陶磁器で栄えた戦前の駄知町を代表する建物として、末永く保存活用されることを願わずにはいられません。
◆駄知小売商業協同組合(旧駄知信用組合)/岐阜県土岐市駄知町1748-5
竣工:昭和7年(19323)
構造:木造2階建
撮影:2013/04/28
■建物西側正面~外壁は黒く塗った下見板張りですが上部は縦に板を張り白塗りにして変化をつけています
■建物南側~2階の窓の上のペディメント風の三角形の木枠が外観のアクセントになっています(竣工時のものかは不明)
■玄関脇の丸ポストは1955年製で、過ぎ去りし昭和の時代を語っているようです
■外観を撮影していると、たまたま出勤された組合の方のご厚意で、建物の内部を見学することができました!
玄関を入ると信用組合当時の木製のカウンターがそのまま残っています
■組合の方のお話によると、元々は広いワンルームでしたが、現在はタイル貼りの円柱の後ろに壁を設け二部屋に分割して使用しています
■奥の部屋の北側には金庫室が設けられ、壁には頑丈そうな鉄の扉が二つ並んでいます
■金庫室の扉も当時のままで、金庫メーカーの登録商標「石垣発明」が時代を感じさせます
■金庫室は北側に張り出す格好で、建物とは独立した土蔵造にして防犯防火対策を施しています
■土蔵の壁に残る信用組合のマーク
■玄関から入って一番奥東側にある階段
■2階は広いワンルームでステージ(カーテンの奥)もあります~現在はそろばん教室として使われているとのこと
■消防で使われたらしい木製の箱が残されていました~何が入っていたのでしょうか?
■ステージの両脇には出入り口があり南側(下の写真奥)は階段室に通じます
■ドアの欄間風の透かし彫りも当時のまま残っています
■建物のすぐ南側には昭和26年に建立された駄知信用組合の石碑があり、組合の沿革などが詳しく刻まれています
■ちょっと懐かしい昭和の風景が今も残る駄知の街角
JR中央線土岐市駅周辺には2軒の戦前の医院が現存しており、南側に森川歯科医院、北側に熊谷医院があります。
熊谷医院は初代院長、熊谷常次郎が明治35年に開業した土岐市では最も古い医院で、地域医療に貢献した常次郎は、町長から県議会議員を務めるなど政治面でも活躍した地元の名士です。
現存している建物は昭和10年に建てられたものですが、マンサード屋根という途中で勾配がきつくなる腰折屋根が特徴で、まるで北海道の牧場か高原のペンションが似合いそうな、医院としてはかなり珍しい外観になっています。
それではなぜ当時地方ではかなり珍しかったと思われるマンサード屋根が採用されたのか?
建物を設計施工した地元宮大工棟梁・山内藤蔵についてのエピソードが『近代を歩く/東海近代遺産研究会』という本に載っていました。
若くから土岐市で大工棟梁として独立していた山内藤蔵は、大正12年に東京を襲った関東大震災の復興支援のため上京しましたが、帰郷後姻戚筋の常次郎に頼まれ、熊谷医院の新築に携わることになりました。
その時彼がマンサード形式の屋根を採用したのは、東京で得た洋風建築のイメージがあったからではないかと書かれています。
ここからはわたしの想像ですが、棟梁は帰郷後の初仕事として医院新築を頼まれ、東京で最新の西洋医学を学んだ常次郎の医院にふさわしい、当時としては最新のモダンな洋風建築を建てようとはりきります。
おそらく上京した棟梁が震災復興としてかかわったもののひとつに、震災後の焼け野原の東京に建ちだしたバラック建築と、それが進化したいわゆる「看板建築」と呼ばれる洋風商店の建設があったのではないかと思われます。
看板建築には狭い敷地で部屋面積を稼ぐため(震災後は木造3階建が規制された)2階建+小屋裏が使えるマンサード屋根が多く使われていたので、棟梁の頭には洋風建築とえばマンサード(実際パリのアパルトマンの屋根はほとんどこれです)と、まずひらめいたに違いありません。
看板建築といっても、構造自体は従来の伝統的な木造商店と大きく変わらないので、設計施工もほとんど従来と同じ大工の棟梁が担当しました。(設計士や建築家は大きなビルの建設に忙しいので、個人の商店や住宅は必然的に大工の棟梁にまわってきます)
宮大工の棟梁にとって、新築の医院のデザインを洋風にするため看板建築を参考にするのはごく自然の流れで、ここに医院建築としては極めて珍しいマンサード屋根の医院が誕生したと思われます。
■マンサード屋根とは~
17世紀のフランスの建築家フランソワ・マンサール(いかにもフランス人っぽい名前です)が考案した屋根で、寄棟屋根の4面が途中で勾配がきつくなるのが特徴。天上高が大きくとれるため、屋根裏部屋を設けるのに適している。
厳密には途中で勾配がきつくなる屋根形式は2種類あり、寄棟屋根はマンサード、切妻屋根はギャンブレルと使い分けていて、熊谷医院は明らかにギャンブレル屋根ということになるのですが、ここでは看板建築との関係上あえてマンサード屋根と表記しています。
■看板建築とは~
関東大震災後、その復興過程で商店などに用いられた建築様式で、当時東京大学の院生だった藤森照信氏によって命名。
従来の伝統的な商店建築様式である蔵造や出桁造とは異なり、ファサードを平坦にし、洋風指向の自由なデザインが試みられた(『看板建築/藤森照信著』参照)
■建物東側~外壁は下見板張りペンキ塗りですが、上部はドイツ壁風のモルタル塗にして変化をつけています
■公園に面した建物北側~1・2階は病室、3階(屋根裏)はマンサード屋根を生かした物置として利用されたようです
■西隣りにはタイル貼りの瀟洒な医院が新築されていますが、旧医院も大切に保存されています
◆旧熊谷医院病棟/岐阜県土岐市泉郷町4-1
竣工:昭和10年(1935)
設計・施工:宮大工棟梁・山内藤蔵
構造:木造2階建
撮影:2013/04/28
ゴールデンウィークの前半、4月28日・29日の二日間で、陶磁器産業で栄えた岐阜県東濃地方の土岐・多治見を訪れました。
この地方を訪れるのは実に10年以上ぶりくらいで、前回訪問時の建物の現存確認と、あわよくば新物件発見も期待したいところです。
まずはJR土岐駅のすぐ南側にある森川医院、現在も前回訪問時と変わりなく健在でした。
◆森川歯科医院/岐阜県土岐市泉町久尻4
竣工:昭和11年(1936)
構造:木造2階建
撮影:2013/04/28
■東端のタイル貼りの玄関は増築でしょうか?
■南西側より~屋根の端っこの小さな煙突が如何にも戦前の洋館らしいところ
■南側に大きく張り出したサンルームがおしゃれです
■御影石の門柱に旧字体で刻まれた医院名が今もそのまま残っています
岩村建築散歩 その4~水野薬局
本町通りにある江戸時代から続く老舗の薬種商ですが、現在の店舗は比較的新しく昭和20年に建てられたものです。
古い薬局は伝統的な町屋風と当時の流行を取り入れた洋風建築の2パターンに分けられますが、水野薬局は典型的な町屋様式で、軒下にずらりと木製の古い看板が並ぶ様子はまさに壮観です。
また明治15年、自由民権運動で有名な板垣退助が遊説で岩村を訪れた際に水野家に宿泊、その数日後に岐阜で暴漢に襲われたと言う記録も残っています。
◆水野薬局(水野得歓堂)/岐阜県恵那市岩村町本町335
竣工:昭和20年(1945)
構造:木造2階建
撮影:2011/09/18
軒下にずらりと並ぶ欅(けやき)製の特注看板
マスメディアの無い当時、看板の宣伝効果は抜群で、製薬メーカーから特約店の証として屋号入りの一点もの特注看板が寄贈されたそうです。
マルミのマークと水野得歓堂の屋号が入った手彫りの特注看板
隣の女性のイラスト入り「新月丸」の宣伝看板はもう芸術品です
ショーウィンドーはレトロな看板が所狭しと並べられまさに路上博物館
正面の軒瓦は屋号入りの特注品
ショーウィンドーにも金箔の屋号が入ります
岩村建築散歩 その3~まち並みふれあいの館(旧岩村銀行本店)
岩村の中心街本町通の真ん中に建つ土蔵造の建物で、明治41年に岩村銀行設立時に本店として建設されました。
その後昭和6年に濃明銀行を吸収合併、恵那銀行と改称しそのまま本店として使用、昭和17年に十六銀行に営業譲渡されるまで岩村の経済の中心として商工業の発展に寄与しました。
現在は「まち並みふれあいの館」として、恵那市観光協会岩村支部と城下町ホット岩村の事務局が置かれ、観光案内所として岩村観光の拠点施設として再活用されています。
◆まち並みふれあいの館
(旧岩村銀行本店→旧恵那銀行本店→旧十六銀行岩村支店)/岐阜県恵那市岩村町263-2
竣工:明治41年(1908)
構造:土蔵
撮影:2011/09/18
明治期の銀行に多く見られる土蔵造の擬洋風建築
玄関正面には古典様式の三角ペディメント風の屋根を設け、銀行建築らしい威厳を演出しています