五条橋のすぐ下流にある中橋は、堀川に架かる架橋当時の姿を留める最も古い橋で、堀川の現存する大正期の橋として岩井橋とともに大変貴重な存在です。
中橋は国内で現存する4番目に古い道路用の鋼桁橋で、鋼製橋脚と石積橋台は大正期のオリジナル構造が残っています。
特に橋脚の柱は、鋼材にリベットで金属片を交互に縫い合わせたもので、同時期の鉄道橋などでよく使われた形式です。
ちなみに中橋という名称は、堀川開削時に五条橋と伝馬橋の中間に位置したことから名付けられたそうです。
◆中橋(なかはし)/名古屋市西区那古野1・中村区那古野1~中区丸の内1
竣工:大正6年(1917)
構造:鋼I桁
撮影:2012/02/26
■下流の桜橋より撮影~中橋の上流に小さく見えるのが五条橋
■大正期の構造が残る橋脚と橋台(右岸から撮影)
■右岸(西区側)より撮影
大通りにつながっていないので交通量が少ないことが幸いし、現在まで架け替えられることなく昔の姿を留めています
■大正6年9月の銘が入る御影石の親柱~欄干の幾何学模様でデザインされたアールデコ風の装飾が楽しい
朝日橋からさらに堀川を下ると巾下橋、小塩橋、景雲橋と戦後の比較的新しい橋が続き、いよいよ名古屋の中心部に入ると五条橋があります。
那古野の円頓寺商店街と丸の内の間に架かる五条橋は、「堀川七橋」と言われる堀川開削当時(1610~1611)に架橋された堀川でも最古参の橋のひとつです。ちなみに堀川七橋(ほりかわななはし)とは、上流から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋のことを言います。
五条橋は擬宝珠(ぎぼし)高欄を持つ和風の橋で、もともと清州城下の五条川に架けられていた木製の橋を、 慶長15年(1610)に移築したものです。(五条橋の名称は五条川に架かっていた時の名称をそのまま継承)
現在の橋は昭和13年に、木造の橋の意匠を残しコンクリート製に架け替えられたもので、御影石の親柱や高欄、擬宝珠、石張りの舗装は当時の雰囲気を今に伝えています。
ただ五条橋は昭和60年の改修で大幅な修景を受けているので、昭和13年当時のオリジナル部分がどこまで残っているのか不明です。
◆五条橋(ごじょうはし)/名古屋市西区那古野1~中区丸の内1
竣工:昭和13年(1938)→昭和60年(1985)修景
構造:RCラーメン
撮影:2012/02/26
※都市景観重要建築物
■五条橋全景~上流の景雲橋より撮影
■右岸(那古野)側~和風の擬宝珠高欄と石畳が落ち着いた雰囲気を与えます
■左岸(丸の内)側~右岸に円頓寺商店街のアーケードが見えます
■左岸北側(上流側)には古い煉瓦積みの壁と川へ降りる石の階段が残っています
■擬宝珠には五条橋の銘が彫り込まれています(現在の擬宝珠はレプリカで本物は名古屋城に展示)
他の擬宝珠の一つに「慶長七年壬刀六月吉日」の銘があり、いわゆる清州越し(名古屋城築城に伴い清州から名古屋へ都市機能が移転)の際に移転されたものと思われます。(詳細はこちらのサイトへ→堀川と五条橋)
大幸橋から下ること100m、名古屋能楽堂のすぐ西側に朝日橋があります。
ここから下流は川幅がぐっと広くなり、船の運行も可能になるので、朝日橋の左岸に堀川で最上流の船着場が設けられています。
◆朝日橋(あさひはし)/名古屋市西区城西1(右岸)~樋の口町(左岸)
竣工:昭和7年(1932)
構造:鋼桁、無筋C
撮影:2012/02/26
■すぐ下流の国道22号線にある巾下橋から撮影~船着場には堀川下りの遊覧船の姿が見られます
■左岸(樋の口町)から撮影
■右岸(城西)から撮影
■石積みのシンプルな親柱~銘板はリニューアルされた模様
筋違橋から堀川沿いを南下、左手にウエスティンナゴヤキャッスルホテルを見てさらに堀川を下ると大幸橋です。
堀川の橋はそれぞれデザインが違うので、橋ごとの個性が際立ち、次の橋をめぐるのが楽しみで足取りも軽くなります。
大幸橋はこれまで紹介した上流の橋と同じ昭和8年竣工、親柱と一体になった欄干はコンクリート製ですが、手摺とそれを支える支柱は金属製、親柱の上には立派な橋灯が載っています。
特に金属製の欄干の支柱は、ひとつおきに植物の細工を施す芸の細かさで、さすが戦前物件、見ごたえがあります。
◆大幸橋(たいこうはし)/名古屋市西区城西1、2(右岸)~樋の口町(左岸)
竣工:昭和8年(1933)
構造:RC桁
撮影:2012/02/26
■大幸橋全景~樋ノ口町側(左岸)より撮影
■城西側(右岸)より撮影
■こんな所にまで!
中央部にふくらみを持たせ、植物を浮き彫りにした細工を施こしたこだわりの逸品です
■橋灯も立派できっちり造り込んであります
堀端橋から下ること200m、名古屋城の北側に残るお堀のちょうど北西角に筋違橋があります。
この橋は東側(上流)と西側(下流)で構造が異なり、西側部分は戦前では珍しい鋼方丈ラーメン構造になっています。
親柱から欄干まですべて金属製で、淡いグリーンに塗られています。
◆筋違橋(すじかいはし)/名古屋市西区城西、数寄屋町(右岸)~西区堀端町、樋ノ口町(左岸)
竣工:昭和8年(1933)
構造:鋼方丈ラーメン、鋼桁
撮影:2012/02/26
■西側(下流側)~橋桁を支える橋脚を斜めに配した方丈ラーメン構造が残る
■東側~橋の下がフラットな単純鈑桁橋。戦後増築された部分でしょうか?
■欄干は堀端橋と同じアールデコ調のデザイン
■親柱も欄干と同じ金属製
当たり前の話ですが、近代建築探訪は目的の物件が近代建築であることが大前提になります。
建築は見た目だけでは正確な竣工年は分かりませんので、何はともあれ訪れる前にガイドブックなどで建築年を確認しておく作業が必要です。
その点同じ近代の構造物でも、橋は竣工年が必ず親柱に明示されているので、偶然見つけた橋が年代物かどうかその場で確認でき大変便利です。
ところで橋には4本の親柱がありますが、たいてい竣工年、橋の名称(漢字とひらがな)、河川の名称が明示してあることが多いようです。
堀端橋は改築時に3本の親柱がコンクリート製に変更され、そのひとつには竣工年の代わりに「昭和53年10月改築」の名板がはめ込まれていました。
ひとつだけ残された「ほりはたはし」と刻まれた竣工当時の石の親柱が、唯一当時の面影を残しています。
■堀端橋全景(右岸より撮影)~橋桁の下の鉄骨が良く分かります
■左岸側~上流側(向かって右)の親柱は石造で当時のまま
■右岸側~親柱は2本ともコンクリート製に変更、下流側(向かって右)の親柱には改築年を表示
■新旧2本の親柱~鋳鉄製の欄干は円と直線のアールデコっぽいデザインで当時のままと思われます
◆堀端橋(ほりばたはし)/名古屋市西区数寄屋町(右岸)~堀端町(左岸)
竣工:昭和8年(1933)
構造:鋼桁、RC造
撮影:2012/02/26
名古屋市の中心を南北に流れる堀川、その歴史は1610年の名古屋城築城に際し、資材運搬を目的として掘削された水路までさかのぼります。堀川の船運により多くの物資が水路により城下へ運ばれ、川沿いには商人の邸宅や蔵、貯木場などが設けられ、庶民の交通手段として乗合船も運行されました。
戦後になって輸送手段は陸路に変わり、河川の汚染も急速に進んだため、堀川は人々から忘れ去られた存在になっていました。しかし近年になって、堀川の再生をめざし木曽川の水の導入など、昔の堀川の清流を取り戻す試みが始まりました。平成17年には堀川再生のシンボルとして、納屋橋の旧加藤商会ビルがよみがえり、堀川の情報発信の場として活用されています。また船着場(宮の渡し、名古屋国際会議場、納屋橋、朝日橋)の整備に合わせて遊覧船の運行も始まり、都心と港を結ぶ交通路や新たな観光資源として、沿川地域の活性化も期待されています。
今回は堀川に架かる昭和の面影を残す戦前の橋を訪ねて、まずは名城公園の北西にある中土戸橋を出発点に下流に向かいます。
◆中土戸橋(なかつちとはし)/名古屋市西区城西5~北区名城1
竣工:昭和7年(1932)
構造:上=Cラーメン、下=RC
撮影:2012/02/26
右岸(西区側)より望む~橋を渡ると名城公園です
堀川もまだ川幅が狭いので橋も小さいですが、高欄の造形はなかなかのものです
左岸(北区側)より望む~欄干の連続するアーチのデザインが昭和っぽい
昭和7年架設の名板がはめ込まれた親柱~デザインはシンプルながら立派な橋灯付き
名古屋市役所と愛知県庁の三の丸騎兵第三連隊跡地新築が決まり、それに合わせて昭和8年(1933)大津通が城内に延長、大津橋が架橋されました。
昭和42年大津通が50mに拡幅され、西側にPC桁が増設されましたが、親柱や高欄などは県、市庁舎とともに、当時の大津通の風景を今に伝えています。
◆大津橋(おおつはし)/愛知県名古屋市中区三の丸~丸の内
竣工:昭和8年(1933)、昭和42年(1967)拡幅
施工:名古屋市
構造:鉄筋コンクリートラーメン
撮影:2012/02/26
戦前の大津通の風景を今に伝える大津橋と県、市庁舎
大津橋の南詰に残る昭和51年に廃止された瀬戸電の大津町駅に降りる階段と手摺
親柱の柱頭飾りは花や植物のてんこ盛り状態
大津橋北詰の石垣に埋め込まれた昭和8年当時のプレート
市庁舎を建てるため、名古屋城三の丸の土塁の一部を崩し、道路を通し架橋する旨が記されています
御園通の東を名古屋城に向かい南北に走る本町通は、かつては熱田から大須を通り城下に向かうメイン通りでした。
本町通が外堀にぶつかる所に城郭の正門にあたる本町門があり、ここには瀬戸電が通るまでは木製の本町橋が架かっていました。
木製の橋は明治44年に煉瓦アーチ橋に架け替えられ、その後昭和14年に拡幅した東側はコンクリート橋になりましたが、西側は市内唯一の煉瓦アーチ橋として遺されています。
◆本町橋(ほんまちはし)/愛知県名古屋市三の丸二丁目~丸の内二丁目
竣工:明治44年(1911)、昭和14年(1939)東側拡幅、昭和63年高欄改修
施工:瀬戸電気鉄道
構造:煉瓦積アーチ
撮影:2012/02/26
今も煉瓦アーチが残る西側
拡幅された東側はコンクリート橋に
明治44年7月の銘が入る御影石の親柱
堀川のすぐ東側、御園通が外堀通に交わる名古屋城の外堀に御園橋が架かっています。
明治44年(1901)瀬戸電気鉄道が外堀に電車を通し、堀川の船運と接続しました。その時に御園門の橋を永久橋に架け替えました。
御園橋は市内で唯一の明治期の鋼橋で、リベット仕上げのプレートガーダー道路橋(単純鈑桁橋)としては、現存する最古級のものと思われます。
平成2年の修景で高欄などが改修されています。
◆御園橋(みそのはし)/愛知県名古屋市中区三の丸一丁目~丸の内一丁目
竣工:明治44年(1901)、平成2年修景
施工:瀬戸電気鉄道
構造:鋼プレートガーダー(単純鈑桁)上路
撮影:2012/02/26
外堀通から橋を渡ると愛知県図書館(石垣の奥)に通じています
平成2年に改修された高欄
◆木曽川橋梁~JR東海 太多線/岐阜県美濃加茂市川合町~可児市川合
竣工:大正15年(1926)
構造:鋼プラットトラス+プレートガーダー
施工:鉄道院
撮影:2007/04/08
木曽川に架かる太多線の橋梁で、美濃加茂市と可児市を結んでいます。
すぐ下流に今渡ダムと今渡発電所(S14)があります。
2連のプラットトラス部分~下流に見えるコンクリートは今渡ダム(可児市側から撮影)
◆東雲橋(しののめばし)木曽川/岐阜県恵那市大井町~中津川市蛭川村
竣工:昭和6年(1931)
構造:鋼ボーストリング・トラス(弧状曲弦,下路)
製作:日本橋梁
撮影:2011/09/18
大井発電所の傍らの木曽川に架かる橋で、恵那市大井町と現在は中津川市になった蛭川村をつないでいます。
この橋のすぐ上流に大井ダムがあり、せき止められてできたダム湖は恵那峡として観光地になっています。



道幅が狭いため橋の上で車がすれ違うことができません(中津川市側から撮影)
観音橋(かんおんばし)は、飛騨川に浮かぶ中の島にある小山観音参拝のために架けられた橋で、現在も当時のまま使われています。
小山観音のある中の島はもともと陸続きでしたが、下流に今渡ダム(昭和14年)が建設され陸路が水没してしまうため、昭和13年に「観音橋」が参拝用の橋として建設されました。
小山観音周辺は飛騨木曽川国定公園に指定されている風光明媚なところで、市内でも有数の桜の名所として知られています。
川岸の桜並木から飛騨川に浮かぶ観音堂に続く橋のある風景は、これからも地元の人々にずっと愛されていくことでしょう。
◆観音橋(かんおんばし)飛騨川/美濃加茂市下米田町小山104
竣工:昭和13年(1938)
構造:RC造
撮影:2007/04/08
観音橋全景~訪れた時はちょうど川岸の桜並木が満開でした
飛騨川にぽっかり浮かぶ小山観音
中の島には馬蹄観音が祀られた観音堂があります
参拝橋ということで欄干、親柱は和風意匠のデザイン
観音橋から望む飛騨川沿いの桜並木
橋門が立派で、右書きの「橋田太」の題額と御影石でできた青銅飾りのある親柱が時代を語ります。
美濃加茂市側の太田橋の袂から観光船に乗ることができ、犬山市の犬山橋までライン下りが楽しめます。
◆太田橋(木曽川)/岐阜県可児市今渡字町~美濃加茂市古井
竣工:昭和2年(1920)
施工:大阪鉄工所
構造:鋼ワーレントラス
撮影:2006/11/05
太田橋全景(可児市上流側より)
右書きの「橋田太」の立派な題額
橋灯付きのオリベスク風親柱(御影石に青銅製の飾りあり)
◆立花橋(長良川)/美濃市立花字木の末
竣工:昭和13年(1938)
構造:RC造
撮影:2007/04/29
長良川鉄道越美南線の湯之洞温泉口駅前に国道156号線と長良川対岸の291号線を結ぶ立花橋があります。
この橋を渡り上流へ100mほど上がると長良川発電所、さらに500m先に湯之洞温泉に通じる道路があり、湯之洞水路橋があります。
立花橋の外観はいたってシンプルで、どこにでもある普通のコンクリート製の橋ですが、昭和13年の架橋以来70年以上にわたって人々の暮らしを支えています。
立方体の親柱の上にピラミッドを途中で切断したような形の装飾が載っています