各務原市の建築散歩~その2
◆旧各務原駅前郵便局/各務原市鵜沼各務原町
竣工:昭和14年(1936)
設計:鈴木工業建築
施工:波多野某
構造:木造2階
撮影:2007/07/16
旧川島郵便局と同様、正面中央に玄関を設けた端正な外観ですが、外壁は石貼り風で1、2階にスクラッチタイルを廻し外観に変化をもたせています。
ドアや窓枠はサッシに変えられ現在も使用されている様子で、保存状態も良好です。
各務原市の建築散歩~その2
◆旧各務原駅前郵便局/各務原市鵜沼各務原町
竣工:昭和14年(1936)
設計:鈴木工業建築
施工:波多野某
構造:木造2階
撮影:2007/07/16
旧川島郵便局と同様、正面中央に玄関を設けた端正な外観ですが、外壁は石貼り風で1、2階にスクラッチタイルを廻し外観に変化をもたせています。
ドアや窓枠はサッシに変えられ現在も使用されている様子で、保存状態も良好です。
各務原市の建築散歩~その1
◆旧川島郵便局/各務原市川島町河田491
竣工:昭和11年(1936)
構造:木造平屋
撮影:2006/06
郵便局の奥には住居の母屋が続く典型的な戦前の町の郵便局
屋根瓦は葺き替えられていますが、玄関のドアや窓は木製のまま当時の面影を残しています
岐阜市の東隣に位置する各務原市は、古くは鵜沼宿のあった旧中山道沿いに発展しました。
大正期には鵜沼地区と愛知県の犬山が橋でつながり、木曽川沿いの景勝地は「日本ライン」として全国に名を馳せました。
犬山橋周辺には近代的な別荘や旅館が建てられましたが、ほとんどが現存せず、唯一川上貞奴が建てた別荘(晩松園)が保存されています。
那加地区には大正6年国内で最初の岐阜飛行場(現航空自衛隊岐阜基地)が開設、大正12年には岐阜高等農林学校(現岐阜大学)が設立されました。
現在岐阜基地には戦前の建物が残っていますが、岐阜大学に引き継がれた岐阜高等農林時代の木造校舎は、大学移転とともに1980年代に全て取り壊されました。
和風の瓦屋根ですが外壁は石張り風、軒下にも洋風の装飾があります
現在1階は車庫が設けられ中央部分が出窓になっていますが
当時は玄関を中心にシンメトリーの構造だったと思われます
木造下見板貼りの典型的な大正~昭和の洋風住宅
玄関ポーチに昭和初に流行したスクラッチタイルがあしらわれています
岐阜市建築散歩~その6
岐阜公園の東、金華山の北側長良川左岸の鏡岩水源地に戦前に建てられた岐阜市の水道施設が現存しています。
岐阜市が上水道の給水を開始した昭和5年(1930)に建てられたエンジン室とポンプ室で、昭和47年頃まで現役で使用されました。
どちらの建物も日本瓦の切妻屋根に隅石張り、壁には長良川の自然石を積み上げ、山小屋風の外観になっています。
現在エンジン室は水の資料館、ポンプ室は水の体験学習館にそれぞれ生まれ変わり、岐阜市の水道事業を紹介する施設として再利用されています。
◆鏡岩水源地 水の資料館・水の体験学習館(旧エンジン室・ポンプ室)/岐阜市鏡岩408-2
竣工:昭和5年(1930)
構造:鉄骨造平屋
撮影:2006/09/23
*国登録有形文化財
奥がポンプ室、手前がエンジン室~水源地内は広々として見学しやすいよう整備されています
◆水の資料館(旧エンジン室)
岐阜市の水道の歴史の紹介や水源施設の機器類、施設模型などが展示されています
正面入り口とその横の窓はアーチ状に統一され、茶色の自然石を積んだ外壁に白の御影石の隅石がアクセントになっています
切妻屋根を壁から突き出た木製のすじかいが支える、水源地の施設としては異色の山小屋風意匠で、楽しい外観です
側面は丸と四角の窓が二段に並び、ラチス構造の鉄骨が外付けになっているのが特徴
◆水の体験学習館(旧ポンプ室)
長良川と水との関係を体験学習できる施設
旧ポンプ室は鉄骨を内側に設置したスッキリとした外観
連続した丸窓は当時流行の表現派の影響でしょうか?
昭和のモダンデザインの息吹がこんなところにも感じられます
◆国登録有形文化財として登録され岐阜市の貴重な近代化遺産として保存活用されています
岐阜市建築散歩~その4
岐阜市一番の繁華街、柳ヶ瀬の南、徹明通に古典様式の重厚な建物があります。
岐阜貯蓄銀行本店として昭和12年に建てられたもので、その後昭和18年から十六銀行の徹明支店として使用されましたが、平成17年柳ヶ瀬支店に統合され廃店しました。
現在は岐阜空襲にも残ったこの貴重な歴史的建物を再利用して「じゅうろくてつめいギャラリー」を開館、市民の展示スペースとして無料開放されています。
◆じゅうろくてつめいギャラリー(旧十六銀行徹明支店・岐阜貯蓄銀行本店)/岐阜市徹明通1-3
竣工:昭和12年(1937)
設計:西村建築事務所
施工:竹中工務店
構造:RC造3階
撮影:2010/09/26
*岐阜市都市景観重要建築物
◆正面ファサードは戦前の銀行建築らしい古典様式を採用、2階分のオーダーの上にはクラッシクな装飾が鎮座しています。
◆建物西側~銀行らしい重厚なつくり
◆正面玄関~内部は吹き抜けで中2階に設けられたギャラリー(回廊)の木製手摺が見えます
岐阜市建築散歩~その1
以前に岐阜公園の戦前の建物を紹介しましたが、今回は市内に残るその他の近代洋風建築を紹介します。
岐阜市は濃尾震災と戦災で、戦前の近代建築はほとんど失われましたが、旧岐阜県庁舎のある司町・美江寺町界隈には、戦災を免れた鉄筋コンクリート造りの建物がいくつか現存しています。
◆岐阜県総合庁舎(旧岐阜県庁舎)/岐阜市司町1
竣工:大正13年(1924)
設計:矢橋賢吉・佐野利器・清水正善
施工:銭高組
構造:RC造3階
撮影:2010/09/26
◆建物正面~建物は正面玄関(南向き)を中心に東西「山」型に配置
◆建物西側~隣は岐阜大学病院移転後空き地になっています
◆正面玄関
◆正面玄関の大階段とホール
ホールの壁や柱、床、階段などに地元大垣市赤坂原産の矢橋の大理石がふんだんに使われ
長良川の鵜飼、養老の滝、飛騨のアルプスを図案化したステンドグラスもはめ込まれています
毎年秋に行われる岐阜基地の航空際ですが、今年も天気に恵まれ大勢の人でにぎわいました。
皆さんのお目当てはブルーインパルスの曲技飛行ですが、私の目的は基地内の近代建築です。
岐阜基地の歴史は古く、明治初期に陸軍の大砲射撃場として開設され、その後各務原飛行場として使われました。
基地内には陸軍各務原航空隊当時の古い建物が、現在も数多く残っています。
■大勢の人でにぎわう正門附近
■航空自衛隊岐阜基地渉外室広報館(旧陸軍飛行第一聯隊将校集会所)/岐阜県各務原市那加官有地無番地
竣工:大正9年(1920)
施工:北川組
構造:木造平屋
撮影:2009/10/12
■建物正面~屋根や外壁はリニューアルされ塗装も真新しい
■8本の石柱が並ぶ玄関部分
■下見板貼りに縦長の上げ下げ窓が当時の雰囲気を伝えます
■補給倉庫(旧飛行機格納庫)昭和3年(1928)
■基地内に現存する古い洋風の建物
昭和40年代は基地に勤務する隊員の住宅として使われていました。
私が中学生の頃の友人は、実際にこの建物の一軒に住んでいてよく遊びにいきました。
玄関を入ると当時では珍しい広い板貼りのワンルームになっていて、日本式住宅に慣れていた私はそのモダンさに驚いたものです。
おそらく戦後のアメリカ軍による接収期に住宅として使用されたようで、広い敷地に点在する洋風住宅は、とても同じ日本とは思えない風景だったのを記憶しています。
実家にいた頃は余りに身近すぎて航空際もご無沙汰でしたが、ブルーインパルスの飛行展示も久しぶりに間近で堪能しました。
戦前の木造の町屋が残る米屋町の町並に、唯一当時のまま現存する明治~大正期の煉瓦造の洋館建築です。
赤と白に分割された煉瓦の外見も特徴的ですが、内部にはステンドグラスや中国製のタイル、暖炉など当時のまま残されています。
竹のステンドグラスの作風などから、設計意匠に武田五一が関与したのではないかと言われています。
■石原美術(旧日下部合資会社事務所)/岐阜市米屋町24
竣工年:大正2年(1913)
設計:武田五一?(諸説有り)
構造:煉瓦造屋根裏付き地上2階、地下1階
■3階の屋根裏部屋の張り出した窓が特徴的。
2階の縦長の窓の上部にステンドグラスが見えます。
■縦溝の入った大理石の柱にイオニア式柱頭をデザイン化した立派な玄関
■玄関ホール
階段のデザインには明治~大正の洋館らしさが漂います。
■玄関ホールのステンドグラス
館内には玄関ホールの2箇所のステンドグラスの外に、菊や藤、ツバメやフクロウなど多数のステンドグラスが現存しています。(1階は画廊のギャラリーになっており、玄関ホールの見学撮影は快く許可していただけました)
竹をモチーフにした和を感じさせる清々しいデザイン
渦巻き模様が特徴的なこれも和風のデザイン
岐阜市は美濃地方の中心地として古くから栄えましたが、明治の濃尾大震災と昭和の大空襲で壊滅的打撃を受け、戦前の近代建築は数えるほどしか残っていません。
石原美術はその中でも名和昆虫研究所記念館と並び洋館らしい雰囲気を持った建物で、岐阜市の貴重な明治~大正期の近代建築として、これからも現状のまま末永く保存活用されることを願います。
■殉職警察官消防員忠魂碑
築年:大正15年(1926)
構造:石造
昆虫研究所記念館の東側、公園の片隅にひっそりと建っています。
4本のオーダーの上にドームが載る古典主義的なデザインでかなり立派なものです。
■忠魂碑の前は広いテラスになっていて、正方形の豆タイルが敷き詰めてあります。
台座の幾何学的なデザインが大正モダンで時代を語ります。
■板垣退助像台座
築年:大正6年(1917)
構造:石造
明治15年、自由党総理・板垣退助が岐阜公園内で演説中、暴漢に襲われました。その時叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は有名で、その史実を後世に伝えるため、後に有志により銅像が建てられました。当時の銅像は大戦中の供出により喪失し後に復元されましたが、台座は当時のまま残っています。
「板垣退助遭難の地」の説明文には、暴漢に胸を刺された時、かの有名な「板垣死すとも自由は死せず」と言う言葉を残したとありますが、実際は暗殺未遂事件の後で創作されたエピソードではないかと言う説もあるようです。