ゴールデンウィーク後半は、この3冊と決めたのでちょうど良いタイミングで届いた。さてどれから読むか?と順番を考える。『吉原御免状』はデビュー作、『一夢庵風流記』は第2回柴田錬三郎賞を受賞した代表作、『かぶいて候』は徳川初期の江戸を舞台に、壮大な構想をしめしながら未完に終わった作品、補足の意味合いで短編「異説 猿ヶ辻の変」エッセイ「わが幻の吉原」、縄田一男さんとの対談「日本史逆転再逆転」も合わせて収められている。直感でラストから辿る方が理解が深まるような気がした。
そこで『かぶいて候』から読み始めた。表題作の「かぶいて候」は半日で読みきった。最近、女流作家の時代小説ばかり読んでいるが、そこにはない切り口とタッチで久しく忘れていた山本周五郎の世界を思い出させてくれた。
水野日向守勝成から成貞そしてかぶき者としてお馴染みの水野十郎左衛門へと続く、水野家三代の男たちの生き様を描くことが予定されていたが、その三分の一ほどで病のため終わっていると縄田さんの解説にあった。
水野 十郎左衛門は通称、水野成之が正式の名。一般的に知られている生涯は
寛永7年(1630年)、旗本・水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、成之は勝成の孫にあたる。
慶安3年(1650年)、3,000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるが、お役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。慶安4年(1651年)には第4代将軍・徳川家綱に拝謁した。
父親の成貞も名の通った傾奇者であり初期の旗本奴であるが、成之もまた、江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名加賀爪直澄や大身旗本の坂部三十郎広利などの大物も混じっていた。
旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身による行状から誰も彼らには手出しできず、行状はますますエスカレートしていき余りの無法ぶりに、同じく男伊達を競いあっていた町奴は十郎左衛門(成之)率いる旗本奴と激しく対立した。
明暦3年(1657年)7月18日、十郎左衛門は町奴の大物幡随院長兵衛を殺害した。十郎左衛門はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして即日に切腹となった。享年35。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された。
である。本は成貞がかぶき者として徒党を組むところで途絶えている。残念至極というしかない。
そこで『かぶいて候』から読み始めた。表題作の「かぶいて候」は半日で読みきった。最近、女流作家の時代小説ばかり読んでいるが、そこにはない切り口とタッチで久しく忘れていた山本周五郎の世界を思い出させてくれた。
水野日向守勝成から成貞そしてかぶき者としてお馴染みの水野十郎左衛門へと続く、水野家三代の男たちの生き様を描くことが予定されていたが、その三分の一ほどで病のため終わっていると縄田さんの解説にあった。
水野 十郎左衛門は通称、水野成之が正式の名。一般的に知られている生涯は
寛永7年(1630年)、旗本・水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、成之は勝成の孫にあたる。
慶安3年(1650年)、3,000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるが、お役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。慶安4年(1651年)には第4代将軍・徳川家綱に拝謁した。
父親の成貞も名の通った傾奇者であり初期の旗本奴であるが、成之もまた、江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名加賀爪直澄や大身旗本の坂部三十郎広利などの大物も混じっていた。
旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身による行状から誰も彼らには手出しできず、行状はますますエスカレートしていき余りの無法ぶりに、同じく男伊達を競いあっていた町奴は十郎左衛門(成之)率いる旗本奴と激しく対立した。
明暦3年(1657年)7月18日、十郎左衛門は町奴の大物幡随院長兵衛を殺害した。十郎左衛門はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして即日に切腹となった。享年35。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された。
である。本は成貞がかぶき者として徒党を組むところで途絶えている。残念至極というしかない。