仮眠前の夕方6時30分頃の岩手山は、赤みを帯び始めとても綺麗なんですよ。それでも、兎に角寝なきゃって思ってますが、熟睡までは到りません。布団に潜っても、様々考えています。
この頃石川啄木の「一握の砂」に填まってまして、その詩を書いたときの心情に浸ってます。
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
わがいのち砂の時計のさらさらのおとのまにまに神にかへるか
時間の経過と共にわがいのちが死にむかっているのか、と哀果は嘆いているわけです。啄木はこの歌から「砂時計」と「さらさら」を借ります。「さらさらと/握れば指のあひだより落」ちる砂は砂時計の暗喩なのです。
土岐哀果とちがい啄木はすぎゆく時間に死を見て嘆いたりはしません。かけがえのないわが生命の一瞬一瞬が無為のうちに過ぎて行く、もったいないと嘆くのです。
石川啄木もこの山を見ていたんだろうと思うと、せつなくなりますね。命あるものは、かけがえのない人生だからこそ、有為に生きなければもったいないと。
なんかね。填まる!。
「いのち」
頑張って行きましょう。