白内障手術によってごく少数ですが、期待通りの結果が得られないどころか、逆に長く苦しむ「白内障術後不適応」があります。
手術中や術後に合併症が起き、それが不適応の原因になることはとてもまれですが、人間が行い、人間が受ける手術である以上ゼロにはできません。ところが、手術はうまくいって合併症は何も起こらなかったのに、術後に満足できない不適応が出ることがあります。
今日の白内障手術は、濁った水晶体を透明な眼内レンズに置き換える手術です。すると、それまでの屈折異常の度合い(近視や乱視の程度)も変更されます。不適応は、この度合いを術前と大きく変更するような眼内レンズを選択した場合に生じやすいのです。
たとえば、比較的強度の近視がある人は、遠くを見るときには眼鏡やコンタクトレンズが必要です。近くを見るためには、その眼鏡ではピントが合わず、特に老視(調節機能の低下。いわゆる老眼)が出てくると、近視を弱めた眼鏡を用意する必要があります。
大人の生活では1メートル以内を見ていることがほとんどなので、実際には初めから遠方の見え方を多少犠牲にして、弱めの近視眼鏡やコンタクトレンズをしているケースも多く見られます。
ただ特筆すべきは、強度の近視の人の場合、眼鏡をはずして見たい物体を目に近づけさえすれば、物は大きく明確に見えるという得意技を持っていることです。難読漢字に小さな文字でルビがふられている時、近視がほとんどない私は、「は」「ぱ」「ば」をはっきり確認せずに失敗したことが何度かありますが、強度近視の人はルーペを使わなくても、近づけて見れば確認できてしまうという利点があるのです。
ところが白内障の手術前、医師から眼内レンズについて「遠くに合わせますか。近くにしますか」などと聞かれると、長い間強い近視で苦労した人は、手術を機に近視を解消しようと眼内レンズを遠方視に合わせることに同意してしまいがちです。すると、確かに遠くはよく見えるようになるのですが、近くはいつも老眼鏡が必要になり、あの得意技が使えなくなってしまうのです。
これまでの生活が一変するわけですが、そこまでの変化を予想しておらず、不適応を起こしてしまうことがあるのです。
このほかにも、眼内レンズで術前の屈折異常の度合いを変更したために、左右の目で見たものの大きさに差が出る、遠視が強くなりすぎる、あるいは乱視の影響が強く出るなどして、不適応になる例もあります。どうしても不適応なら、眼内レンズを取り替える手術を選択することもありますが、これで全例が解決するとは限りません。
これとは別に、最近よく話題になるのは、視野の周辺に三日月状の影が生じる、ネガティブ・ディスフォトプシア(直訳すると陰性異常光視)と呼ばれる現象です。白内障手術では、水晶体の前方の膜を円形に切って、その中に眼内レンズを固定しますが、膜の端と眼内レンズの端の位置関係で見えるという説が有力です。
術後まもなく気づく例は結構あるようですが、やがて気にならなくなります。ただ、この現象が出現した人の1~3%はいつまでも残るとされ、どうしても慣れない場合は、眼内レンズを前方に移動するなどの処置をする再手術で解決するということです。
75歳の女性Hさんは、白内障と緑内障という目の2大疾患を持っていました。先ごろ、地元で両目の白内障手術を受けて視力は改善したのですが、視野の異常感を強く訴えました。調べても術前と術後の視野はほぼ同等です。困った主治医は、私を紹介しました。
「両目の視野が、上下左右から押し寄せるように圧迫される」「特に下から上へ、防波堤が動くような感じで押し寄せる」。診察室でHさんは、そう語りました。
視野の状態を改めて調べると、両目とも上方の視野の中に明らかな感度低下があり、かなり進行した緑内障の視野異常だとわかりました。その視野異常は、以前から医師に指摘はされていたのですが、本人に自覚はありませんでした。ところが、白内障を手術してから、上記のように視野の異常かと思われる現象を自覚するようになったのです。
緑内障の視野異常は非常にゆっくり進行するので、中心近くまで視野異常が及ばないとなかなか自覚できません。特に両目で見ていると、左右の目で視野をカバーし合うので気付きにくいのです。ところが、白内障を手術すれば視覚の利用環境が一気に変化します。
このコラムで再三取り上げているように、ものは目でみているのではなく、目から脳に信号が伝わってはじめて見えるのでした。視覚利用環境が変更されれば、それに従って信号を受け取る脳の側も変更されなければいけません。チャンネルを合わせ直さなければいけないわけです。
脳機能の研究によれば、手術によって視覚利用環境が変化すると、脳はいったん不適応状態になるが、1日から数日のうちに再び適応するのだそうです。しかし、中にはなかなか適応できないケースもありうるのではないでしょうか。
Hさんの場合も、手術後、長年使用してきた脳のチャンネルを、新しいものに更新をする際に、それまでは気付かなかった視野異常に気付いたのではないかと私は思うのです。
視覚利用環境の変化で、それまで気付かなかったことに突然気付いてしまう別の例をあげましょう。
先天性眼球振盪(しんとう)(眼振)では、生まれつき眼球が常時細かく揺れています。外のものが揺れて見えてさぞ困るだろうと思いますが、視力は低下しているものの、本人は揺れて見える自覚はありません。生まれつきなので、脳が揺れを消去してくれるのです。
ところが、眼鏡を変更したり、コンタクトレンズを新調にしたりした時、患者は「外界が揺れて見える」ことを一時的に自覚することがあります。つまり矯正レンズで視覚利用環境が変更されたので、揺れに適応していた脳が一時的に適応しなくなったと考えられるのです。
こういう例から考えると、Hさんがそれまで自覚していなかった視野の異常を、上のような形で自覚したことは納得できるでしょう。
その説明に納得したHさんは、だいぶほっとしたようです。受診当日は、手術直後ほど「視野による圧迫感」は減っていることを話してくれました。ただ、術後に体験したあの防波堤の感じが一種のトラウマになって、怖れや不安につながっていたようでした。(