芸術は、表現そのもので、人間の内的な観念や価値観やイデオロギーや感情といったあらゆる内的なものを含みます。
そこには本来タブーはありません。
だからこそ古今東西様々な多様な美術や音楽が存在し、現在も創造され発生しています。
価値観は議論することができません。
それぞれの価値観の体系(パラダイム)の中では、論理や優劣=ヒエラルキーが存在します。
好き嫌い嫌悪感といった嗜好的なものは、価値観そのものです。
偏向とは、その価値観や観念・イデオロギーを中心にした場合から見ると偏向で、別の立場から見れば普通のことでしょう。
例えば私の大好きなバッハの曲は、キリスト教的信仰=一種のイデオロギーで満たされています。
クリスチャンにとっては、仏様や天照大神やその子孫とする天皇は、単なる異教徒でしょうが、その文化は尊重します。
過去には、キリスト教やイスラムが唯一正しいものとして戦争していましたし、キリスト教同士でもカトリックとプロテスタントで宗教戦争を繰り広げました。
文化人類学的立場から見れば、キリスト教も、イスラムも仏教も神道も、単なる宗教の一種であり、神道の根底にある天皇制も、日本という国家や民族の一形態でしかありません。
そもそも日本国は単一民族ではないし、アイヌは日本の先住民族であった可能性もあり、民族的に日本人と称される大和系の人たちも、縄文人と渡来人の混血であることははっきりしています。
縄文時代の宗教・祭祀と弥生時代の宗教・祭祀と古墳時代の宗教・祭祀の変化が考古学的に明らかになりつつあります。
天皇制を基本理念とする、神道の成立時期はいつのころからかはまだわかりませんが、宗教的祭祀が縄文時代 弥生時代 古墳時代と年代によりまた地域により変化していますが、少なくとも考古学的な点から考えると、縄文時代ではないようです。
天皇制の成立は天武天皇のころと考えられており、それ以前は大王と称されていることは文献研究からわかっています。
古墳時代は、考古学的にみると近畿の有力豪族の連合王権だったのではないかと考える学者が多いようです。
そういう意味でも天皇は神聖にして犯すべからずというのは、後世(多分天武朝以降)に作りあげられたもので、その後も権力者側がイデオロギー化し都合よく政治に利用したものだと思います。
こうしたことを考えるときに、この展覧会を天皇制中心の価値観から偏向と考えられるのは、価値観の問題で自由と思いますし、その感想を表明されることは何も問題ありません。
しかし、もしこれが公的展示の場合、不快だから中止せよというなら、同意できません。
先に述べたように芸術は内面の表現であり、それを否定することは憲法の表現の自由を侵すことになると思いますし、人それぞれ価値観が違うので、価値観を前面に押し出し主張すると永遠に結論は出ません。
実は芸術は様々な価値観が並立していて、例えば、義太夫節を聞く聴き方で、バロック音楽を聴くことはできません。
義太夫節やバロック音楽を聴くとき我々は自然に聞き方を切り替えています。
他人の価値観を全否定し抑圧することは、逆の立場に立てば、そうしたことがいかに危険かわかると思います。
少なくとも、先進国では人種・文化、宗教、イデオロギー、趣味・・・様々な価値観の違いを受け入れて、お互い理解すること(共感しなくてもよいし、嫌いは嫌いでよいが、差別、抑圧、排斥しない。)で豊かな精神文明を築いていると思います。
そこには本来タブーはありません。
だからこそ古今東西様々な多様な美術や音楽が存在し、現在も創造され発生しています。
価値観は議論することができません。
それぞれの価値観の体系(パラダイム)の中では、論理や優劣=ヒエラルキーが存在します。
好き嫌い嫌悪感といった嗜好的なものは、価値観そのものです。
偏向とは、その価値観や観念・イデオロギーを中心にした場合から見ると偏向で、別の立場から見れば普通のことでしょう。
例えば私の大好きなバッハの曲は、キリスト教的信仰=一種のイデオロギーで満たされています。
クリスチャンにとっては、仏様や天照大神やその子孫とする天皇は、単なる異教徒でしょうが、その文化は尊重します。
過去には、キリスト教やイスラムが唯一正しいものとして戦争していましたし、キリスト教同士でもカトリックとプロテスタントで宗教戦争を繰り広げました。
文化人類学的立場から見れば、キリスト教も、イスラムも仏教も神道も、単なる宗教の一種であり、神道の根底にある天皇制も、日本という国家や民族の一形態でしかありません。
そもそも日本国は単一民族ではないし、アイヌは日本の先住民族であった可能性もあり、民族的に日本人と称される大和系の人たちも、縄文人と渡来人の混血であることははっきりしています。
縄文時代の宗教・祭祀と弥生時代の宗教・祭祀と古墳時代の宗教・祭祀の変化が考古学的に明らかになりつつあります。
天皇制を基本理念とする、神道の成立時期はいつのころからかはまだわかりませんが、宗教的祭祀が縄文時代 弥生時代 古墳時代と年代によりまた地域により変化していますが、少なくとも考古学的な点から考えると、縄文時代ではないようです。
天皇制の成立は天武天皇のころと考えられており、それ以前は大王と称されていることは文献研究からわかっています。
古墳時代は、考古学的にみると近畿の有力豪族の連合王権だったのではないかと考える学者が多いようです。
そういう意味でも天皇は神聖にして犯すべからずというのは、後世(多分天武朝以降)に作りあげられたもので、その後も権力者側がイデオロギー化し都合よく政治に利用したものだと思います。
こうしたことを考えるときに、この展覧会を天皇制中心の価値観から偏向と考えられるのは、価値観の問題で自由と思いますし、その感想を表明されることは何も問題ありません。
しかし、もしこれが公的展示の場合、不快だから中止せよというなら、同意できません。
先に述べたように芸術は内面の表現であり、それを否定することは憲法の表現の自由を侵すことになると思いますし、人それぞれ価値観が違うので、価値観を前面に押し出し主張すると永遠に結論は出ません。
実は芸術は様々な価値観が並立していて、例えば、義太夫節を聞く聴き方で、バロック音楽を聴くことはできません。
義太夫節やバロック音楽を聴くとき我々は自然に聞き方を切り替えています。
他人の価値観を全否定し抑圧することは、逆の立場に立てば、そうしたことがいかに危険かわかると思います。
少なくとも、先進国では人種・文化、宗教、イデオロギー、趣味・・・様々な価値観の違いを受け入れて、お互い理解すること(共感しなくてもよいし、嫌いは嫌いでよいが、差別、抑圧、排斥しない。)で豊かな精神文明を築いていると思います。