神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.245 多摩川汗顔

2024-07-28 23:35:52 | あそび
(1)「きょうもぜったい出るぞ!」と決めて、3時まで頑張って3時半に出ました。
 この時期、外に出かけて涼しい処は、1.図書館、2.デパート、3.スーパー・・・となりますが、結局また多摩川に行くことにしました。

(2)着いて、いつもと違う河川敷を歩いていると、ガマの穂が群生してました。あまりに多いので、いちばん端の1本を撮ってきました。
     

(3)それからだんだんと遡って行くと、実をたくさんつけた灌木がありました。
 木のようすから、「クコ」だろうと思いましたが、葉のようすからすると自信がありません。これは、秋の到来を待つことにしましょう。
 〽あ~きよこい あ~きよこい たまがわべ~りのくこのみの~
     

(4)それからまたしばらく歩いて、藪をのぞきこむと、『カムイ伝』の世界みたいな生存競争が見えました。いや、じつに素晴らしい。いいものを見ました。
 「えっ、どこがいいかって?」
 「ガンガンやってるところですよ。おまけに陽に照らされて・・・。」
 〽ナ負けるな 一茶これにあり
     

(5)それから、またしばらく歩いて八高線の脇につくと、コモド〔子供〕ドラゴンに連れられてきたお父さんお母さんがくつろいでいる上を、上りの八高線がガタゴトと通過しました。
 いつもと違った雰囲気を味わえて、出かけただけのことがありました。
 平和が大事。ロシアも、イスラエルも、早く目覚めよ!
     

(6)それから、八高線をくぐって上流に回ると、東南アジア系のワカラン人が、ラップのような、ゴチョゴチョしゃべるだけの音楽を聴きながら、ビールをうまそうに飲んでました。
 その人達かどうかわかりませんが、独特のメンの残りを川に流して帰りました。
 これは儒教の影響なのか、仏教の影響なのか・・・。やはり、「水に流す」んですね?
 えっ、関係ない?
 と思っていると、下りの八高線が通りました。向こうに多摩大橋が見えます。
     

(7)ヒトが楽しんでいるところを邪魔しては申し訳ないので、水の中を少し上流へ移動して立っていると、突然、ウグイスが「あっちへ行け、あっちへ行け」と言い出しました。
 「五月蠅いな、いまはもう七月なんだぞ」
 と、ウグイス語で言ってやりましたが、ラチが明かないので、また少し上流へ移動して水際に立っていると、こんどは歓迎されました。

(8)トリさんが向こうの草陰に降り、こっちをみて挨拶しました。
    

(9)ハ~イと挨拶すると、こっちへ歩いてきて、姿を水に映してみせました。
     

(10)それを見て「きれい、キレイ」と喜ぶと、さらにこっちへ来ました。しかも、水に全身を写しながらです。
 首をかしげていますねぇ。わたしの機嫌を伺っているんですねぇ。
     

(11)それからこっちへ歩いてきて、姿見をしてモジモジしてました。
     

(12)私は、トリさんがあまりの速さで迫ってきたので、何語を話せばよいか戸惑っていました。
 でも、この時、バイデン大統領が、後継に指名したハリスさんに ”I love you ! "ッて言っていたの思い出しました。そして、
 「そうだアレを使ってみよう、使うなら今だ。」
 とばかりに真似してたところ、
 「ふん」
 と、横を向かれてしまいました。
     

(13)トリ返しのつかない、アツイ日となりました。 
     
 
 今日は、ここで。
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No.244 ペスタロッチ

2024-07-28 00:07:15 | 追憶
(1)きょう、夕食時に7時のニュースを見ようとテレビをつけると、オリンピックの柔道をやってました。見ると、男子60kg級の準々決勝でした。
 私も、中学の頃は柔道を少しやりましたから、一応のルールはわかります。
 観ていると、寝技に入り込んで、外国人選手が日本人選手を絞めはじめました。しかし、日本人選手が相手の足をしっかりとらえていて、膠着状態になっていました。
 こういう場合、審判は「待て」と宣告して立ち技からやり直しをさせるものですが、なかなか中断させません。状況をどう判定するかは審判次第です。ようやく「待て」と宣告しました。
 ところが、どうしたことか、外人選手は止めずに攻め続けました。その間3~5秒ありました。そうして二人の体が離れましたが、その時、日本人の選手は、一瞬畳の上にあおむけになりました。すると、審判は、「待て」の後も攻め続けた外国人選手を責めるのでなく、あおむけになった日本人選手をみて、「絞め技で落ちた」と判定したようで、相手選手の勝ちを宣告しました。
 これには当の日本人選手は納得がいかず、協議後の握手もしませんでしたし、長いこと畳の上を往復して抗議の意思を示していました。しかし、なすすべなく、受け入れざるを得ませんでした。
 見ていたかぎりでは、誤審と思いました。ただし、選手は、試合中は一瞬たりとも畳の上であおむけになるべきではありません。これは心構えの問題としてです。

(2)というわけで、昔から私が応援するとその選手はだいたい失敗するか負けるので、いまはもうほとんど見ません。見るのはニュースでくらいのものです。たまたまみても、それでも今日のようなことが起こりますから、後味が悪い・・・。

    

【コレクション 32】
(1)きょうはペスタロッチです。
 「No.236 アンナ」で『ペスタロッチにふさわしき妻アンナ』(ザイファルト著 長田新訳 玉川大学出版部 1957年)の記憶のことを書きました。
 ペスタロッチについては、いつのことであったか、古書店で『隠者の夕暮 シュタンツだより』(ペスタロッチー著 長田新訳 岩波文庫 1996年)に気が付いたので買って読んだくらいで、このほかには、ペスタロッチについても、教育についても語るだけのものは持っていません。しかし、確かパンフレットを持っていたはずだと気が付いて探したところ出てきました。次のものです。
 なお、私が記憶していた書名では「ペスタロッチ」でしたが、下のパンフレットも上の文庫版も「ペスタロッチー」です。
    

(2)このパンフレットは、B4判用紙を二つ折りしたものでB5判大で、表紙とも4㌻です。体裁は、
 1㌻ 上掲
 2㌻ 上段 岩波書店 復刻にあたって
    下段 長田新 ペスタロッチー傳を送り出して 〔下に掲載〕
 
 
 3㌻ 組方見本
 4㌻ 刊行案内 1985年1月刊 平均566㌻ 全5巻33000円 信山社
    装丁見本
 以上です。

(3)父は、小原国芳の「全人教育」という考え方に共鳴して、私を玉川学園の小学校に入学させたいと考えていたと話したことがありました。しかし、小学生に一人で親元を離れて、寮なり寄宿舎で生活させるなど、そもそも経済的にできるはずがありませんでしたから、次善の策として、少しでも町に近い母方の実家から藤岡市立藤岡小学校へ入学させる途を選んだのだと思われます。

(4)3年生からは一緒に住むようになりますが、1・2年は祖母のもとから通学したわけです。しかし、私の幼少時は野山を駆けずり廻るばかりの生活で、勉強する習慣がありませんでしたから、父はがっかりしたと思います。
 「父兄会」といわれた当時のこと、母が学校に面談に行くと、担任が「家でどのくらい勉強させているか」と聞いたそうで、これに対して「勉強などしたことがないです。帰るなりカバンを放り投げて遊びにいってしまいます」と答えたところ、「家で何もやらずに、学校の勉強だけであれだけ出来ればたいしたものだ」、「やればもっとできるようになる」と言ったとか・・・。

(5)そればかりか、小学校高学年になるとますますそれが進んで、日々に化石・石器・土器などを探しにうろついているばかりか、おまけに、悪意はなかったものの、ひと騒ぎもふた騒ぎも起こしてしまうので、「自分の子はほかのことは違う」と自慢して育てようとしていた父も、辟易していたかもしれません。
 これは、自分が子育てをしてみてわかるようになったことです。同時に、『隠者の夕暮 シュタンツだより』を拾い読みして気が付いたことでもあります。
 子は親から様々な影響を受けますが、親も子から多くを学びます。ものごと、何か一方的に作用するということはありません。必ず相互作用の中にあります。そう考えると、父には気の毒なほど不出来な子であったかも知れないと思われ、この年になって申し訳なく思うことがあります。
 過ぎてしまったことではありますが、年の功で見えてくるものもありますねぇ。
 では、ここで。
 
    
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