神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.254 夜明け前 夜明けあと

2024-08-06 23:32:09 | 文書・文献
 きょうは、雨が降るのか降らないのかと空のようすを伺いながら水遣りをしました。遣り終わって、自嘲気味に「これで雨が降るな」と思っていたら、案の定、ブログの準備を始めたところに雷が鳴りだしました。やむなくパソコンの電源を切ったとおもったら、大きな音がして一瞬停電。どこかに落ちたようです。
   かみなりに 時間取られて よなべかな
 ということで、さっそく本題です。

【コレクション 41】
(1)きょう、パンフレットを見なおしていたところ、「夜明けまえ」と銘打った東京都写真美術館の展示会のチラシが出てきました。 

 
 ちょっと下部が欠けていますが、大きさはA4判で、開催は2007年3月10日~5月6日でした。写真は全体として不鮮明ですが、雰囲気はわかると思います。どこかで見たことがあるというものも見られます。
 これを見ていて、1970年代(明治100年といわれた頃)の群馬のあちこちにこういう雰囲気があったことや、当時見た時代劇映画の所作はこうだったということなどがおもいだされて、懐かしくなりました。もう今の時代劇にはこういう雰囲気はまったく感じられません。どのあたりが日本の転換点だったのかと、ふと考え込んでしまいました。

(2)『夜明け前』といえば、思い浮かぶのは、なんといっても島崎藤村です。これには明治維新前の木曽谷をめぐるようすが克明に描かれていますから、私も読みました。いつ読んだのかとあちこちと調べたところ、「1974年3月16日求む」とメモがありました。ちょうど50年前です。このブログのNo.163~5の辺りで書いた「3人の恩人」に出会う時期を経て、法政大学を追い出される寸前の頃です。
 私が読んだのは、中央公論社「アイボリーバックス 日本の文学 7」(昭和48〔1073〕年2月)です。新書判より一回り大きい判で、持ち運びが便利なのと、縁取りの青があざやかで気にいってました。いまはもう経年のヤケのために往時の面影はまったくありませんが、私が連れ添った本としては代表的な1冊です。シミジミ。

(3)『夜明け前』と並んで、『夜明けあと』という星新一の作品があるのをご存じでしょうか。
 星新一の作品では『人民は弱し官吏は強し』(新潮文庫)を読んで興味を持ち、『明治・父・アメリカ』(同)などを読みましたが、『夜明けあと』を古本屋で見つけました。
 大きさは四六判、245㌻、1991年2月発行です。内容は、安政5(1858)年から明治45(1912)年の明治天皇の逝去までの出来事を、各新聞・書籍から収集して編年体でまとめ、星自身のコメントが適宜に付されているというものです。
 いわゆる年表などとは違い、もともと読み物として成り立っていた文献から収集したものを本体としているので、出来事の短評のようであり、読んで楽しく、痛快のことも多いものです。ニヤリとさせられることもある、おススメ作です。 

    

(4)星新一の『夜明けあと』から2年後の1993年1月に岩波文庫で『維新新旧比較論』が出版されました。両者には似たところもありますが、星のものがパロディを感じさせるところがある一方、こちらは極めて真面目といった感じのものです。
 内容は、次の3つからなっています。
 1「新旧比較表(編年)」は、明治元(1868)年から9年までの改編された事項の得失などを対比してまとめています。
 2「新旧比較表(族別)」は、身分・上下に関わる新旧変化をまとめています。
 3「新旧比較論(社会)」は、出処進退・税制・学校・警察・裁判など新制度めぐる変化をまとめています。

     

 まだ、書きたいところもありますが、雷のためにちょっと予定が狂いました。
 きょうはここまでにします。

        
     多摩川と秋川の合流地点 向こうは高月

 ダジャレを一つ。
 これは、むかし塾の先生の頃、雷が鳴って子供が恐がったときに、間もたせで話していたことです。
  「雷のことを英語でサンダーっていうんだけど、知ってる?」
  「・・・」
  「ある時ね、外国人が日本に来て、地方へ旅行に言ったら、ゴロゴロって鳴ったんだよ。」
  「・・・」
  「そのとき、近くにいた子供がね、アッ!カミナリサンダーっていったんだよ。」
  「・・・」
  「それを聴いていた外国人が、雷はサンダーって言うんだってわかってたんだよ。」
  「???」
  「それで国に帰ってからみんなに話したのがもとでサンダーになったんだよ・・・」 
  「ウソだー!」
  「ごめん、ごめん・・・、じゃあ次へ行くよ。」

        
     近くのトンボ:「近くの」といっても、「極楽」ではありません
  
 
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No.253 斎藤 實

2024-08-06 00:03:15 | 君へ
(1)きょう、北アルプスの不動岳の北付近で滑落事故があったそうです。不動岳の位置は、黒部ダムがある黒部湖のいちばん南端で、湖が終る付近の東側の尾根です。そして、その不動岳を出て、北の船窪岳に向かう途中での遭難事故だそうです。
 遭難者は10人のグループ〔パーティ―〕のうちの21歳の女子学生とのことですが、どんなグループで、この遭難者はどのくらいの経験があったのか。

(2)予定では、上高地から糸魚川までを2週間ほどかけて縦走する計画だったそうです。
 このコースのうち、私が経験したのは、槍ヶ岳-上高地間の下り〔行程1日】、北の白馬大池ー白馬岳〔1泊〕ー唐松岳ー五竜岳〔1泊〕-鹿島槍ヶ岳-冷池(つべたいけ)〔1泊〕ー爺ヶ岳までの3泊4日で南下する縦走の行程です。
 残りの、白馬大池から北の朝日岳ー糸魚川と、事故のあった槍ヶ岳ー不動池-船窪岳ー爺ヶ岳は、北アルプスが御料地でなかったこともあり、計画倒れで実現していません。
 
(3)ですから推測ですが、このグループは家から不動岳まで少なくとも2泊3日はかかっていたでしょう。つまり、4日目に不動岳ー船窪岳の間を歩いたかもしれません。そうすると、ようやく体が山に慣れてきて、同時に疲労がたまり始めていたことが考えられます。しかも、ここは地図にも「滑落注意」が書かれる名所です。いわば、最初の難所だったのかもしれません。

(4)さらに、この先の爺ヶ岳ー鹿島槍ヶ岳(鹿島槍)は割合に平坦ですが、ここを過ぎると、「八峰キレット」、五竜岳付近の「赤目」、唐松岳北の「不帰の嶮(かえらずのけん)」など、気が抜けないと行程が連続します。
 言い直すと、不動岳近くまで4日の行程を経てきて、そこからさらに4~5日は気が抜けない行程が続くわけです。
 私は、南アルプスの縦走約7~8日間では、最後に林道を約40km歩いたのもあって、相当な疲労と思いましたが、北アルプスはさらに「気が休まらない」ということがあります。

(5)まあ、この危険地帯といわれるところを、40~50歳ころの私が通過できたのですから、若い人なら大丈夫ということも言えるかもしれませんが、この遭難事故の有無にかかわらず、ムリな計画はやめるべきと思います。

    
      多摩川べりにて

(6)きょうの【コレクション】はきのうの続きです。
 じつは、水沢市に行った際に「斎藤實記念館」にも行きました。そのときのパンフレットがありますから、それを載せることにします。
 この大きさは、A4判の用紙を二つ折りしたA5判で、4㌻です。
   4㌻ 裏表紙             1㌻ 表表紙


   2㌻                  3㌻ 


 天眼鏡なしでも読めそうですか。まあ、雰囲気はわかっていただけるでしょうから、良しとしましょう。
 なお、「木村栄記念館」は、時間切れで間に合いませんでした。ザンネン。

(7)ところで、私がお土産をもらったときにうれしいものは何だと思いますか。一番はまんじゅう、2番は地酒・・・と思うでしょう。でも違います。
 一番うれしいのは、あちこち(驛・刊行案内所・市役所・図書館など)によく置いてあるパンフレット・市報などです。たいがい、最良の紙を使って、最良の案内をしてくれます。しかも、「欲しい」というと相手も喜びます。タダで、労せずいろいろな情報が手に入る。
 たしか、井原西鶴の『世間胸算用』?のどこかに似た話がありますよ。
 もっとも、私には商才はありません・・・。
 きょうはここまでです。

    
     〽青年の~樹よ~
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