神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.263 冷池山荘-爺ヶ岳-扇沢

2024-08-15 23:56:07 | 
(1)白馬大池から上がった山行もいよいよ終わりです。
 私がここに上がった時期を『日記』で調べたところ、1998年9月7日~11日〔車中泊を含め、4泊5日〕でした。
 7日の23時過ぎに家を出ました。8日0:19立川発の松本行に乗る予定が、人身事故のために46分遅れて1:05分に出発。しかし、松本へ行くまでに遅れを回復して、接続の大糸線に間に合い、予定どおり6:00白馬大池駅に着きました。このあとは、初日に書いたとおりです。そして、8日は白馬山荘泊、9日は五竜山荘泊、10日は冷池〔つべたいけ〕山荘泊と経て、11日朝6:00下山開始、帰宅となります。
   

(2)冷池山荘付近からの日の出です。このあとに撮った「鹿島槍ヶ岳方向の写真」はきのう乗せましたからそちらをご覧ください。
   

(3)下の写真は冷池山荘を出発するときのものです。最終日なのに思いのほか元気です。
 なお、『日記』には、「白馬大池」の手前の「乗鞍岳付近から、秋田から来た人と一緒になり、結局、下山まで同行する」とありますから、この写真を撮ったのはその秋田の人に違いありません。しかし、残念ながら、もうその人のことはまったく記憶から消えています。 
   

(4)今思うに、キレット小屋での宿泊をやめたのは、この同行者がいたのおあるかもしれません。もちろん、予定外だったことが大きいと思いますが・・・。
 それから、私は、山へは行くときは「単独行」ですが、行ってから必ず同行者ができます。山には似たような考えで出かけて来る人がいるもので、頂上などで、先に到着した人に「ごくろうさん」と声をかけられ、あとから来た人に「大変でしたね」などと声をかけ、アリバイのためにシャッター推してもらっていると、その後は、ひとことふたこと話しているうちに連れ立って歩くようになります。

(5)さて、冷池山荘を6:00に出て、7:30に爺ヶ岳〔左の頂上〕を越えます。   
 
 そして、尾根を右に行き、少し険しく崩れている辺りがありますが、その手前に「種池山荘」があり、8:45その脇から「柏原新道」を下り、12:00に降りて、扇沢〔黒部ダムへのバスターミナル〕まで歩き、12:30扇沢発、13:14大町駅発、16:01八王子着、17時頃帰宅。
 これも『日記』からですが、「爺ヶ岳から360°の展望がえられる。富士・浅間・八ヶ岳・妙高・穂高・戸隠すべて見えた。前日、前々日も満足していたが、この上ない好条件のうちに下山できた」と書いています。

(6)最後に、写真を見ていたところ、「白馬岳頂上」で撮った次の写真が出てきました。
    

 これも記憶から消えていたものですが、『日記』に「白馬大池から山荘まで、5人組の女性と抜きつ抜かれつする。国立〔市〕の人が混じっているらしかった。看護婦〔師〕か。」とありました。
 おそらく、写真の女性5人がその人たちでしょう。そして、同行した秋田からの男性は、そこに映っている人か、この写真を撮ってくれた人か・・・でしょう。
 山ではいつも「一期一会」、そうして分かれて再会できた人は、湯沢市からの人1人です。

【コレクション 58】
 きょうは、「再建日本の出発」です。
 これは、大きさはA4判で、裏表1枚のチラシです。
 ご覧いただければわかりますように、2007年5月3日~22日の間に国立公文書館の「再建日本の出発」と題して「春の特別展」がありました。
   表面


 右上に「憲法」の前文、中央に憲法原本が掲げられています。

   裏面


 憲法制定60年にちなんで、制定までの関係文書の影印が見えます。どんなものがあるかは読めると思いますので、説明を略します。

 憲法を守らない首相が、よりによって8・15のこの時期に立候補しない〔任期いっぱいでの退陣〕を表明しました。国際的に多端な時に、自党の裏金問題など何一つきちんとした対応もないまま放り出しておいて「責任を取る」と?。
 何にも解決しないまま、また政権のたらい回しをやろうとしています。まあ、本当に困ったものです。なんとか思い知らせたい。そう思う人は、「この1点で団結を」しましょう。

 最後に「早田ひな」という卓球選手の発言をめぐってにぎやかになっています。
 早田さんの「本意」はあの言葉の通りなのか、中国はその何を問題にしているのか、知覧特攻平和記念館の実態はどんなものなのか、注目しています。
 「特攻」は強いられた悲劇であり、美化すべきでない、と思ってきましたが、妙なことで話題に持ち上がりましたね。ではここで。

    
              曇る日でも同じ

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No.262 五竜岳ー鹿島槍ヶ岳

2024-08-15 00:24:51 | 
(1)きょうは、下の地図の唐松岳ー五竜岳ー鹿島槍ヶ岳です。
 唐松岳ー五竜岳は普通の山行でしたが、五竜岳-鹿島槍の間には、崩壊して岩場とキレット〔切れ込み〕といわれる難所があります。目のマークがある処です。
    

(2)唐松岳を越えて、13:40唐松山荘前に到着しました。
 ここは、「不帰嶮〔かえらずのけん〕」を通過してきたものからすると、一瞬パッと開けた感じがします。おそらく、東の「八方尾根」から入ってくるハイカーの癒しの場所だからかもしれません。もちろん、八方尾根でも遭難事故を聴きますから、軽く見てはいけませんが、人の手が入ってきれいに整備された一帯は安心感を与え、あか抜けた感じがしました。
 そして、ここからハイマツ帯の中を進んで、17:00に五竜山荘に到着です。
 2日目は、白馬山荘を6:00に出発してざっと11時間、少し欲張りすぎました。

(3)五竜山荘を6:15分出発。6:50分五竜岳山頂。
 下の写真は、出発時に五竜山荘前から見た五竜岳です。
 山荘から頂上までは時間はわずかですが、上がって行ってちょうど最初の影になっている箇所などは道幅も狭いうえに、下の方へ崩れているので、踏みはずすと滑落事故につながる処です。
    
    

(4)五竜岳頂上を過ぎると、地図のG4・G5とある処を通過し、「赤抜」とある気の抜けないところになります。写真はその一帯を写したものですが、正確な説明ができません。


 ただ、右上の尖った山頂が鹿島槍ヶ岳北峰、その右が南峰への吊尾根、左が東尾根です。ですから、そこを手前の下ってきて「八峰キレット」、手前へ一山越えて「口ノ沢のコル」、その手前が北尾根の頭、さらに手前の尖ったのがG5ということか・・・といったところです。
 五竜岳を南へ下り始めてしばらくしてこの眺望を目にし、ここを通過するのかと思いながら撮ったという記憶があります。 
 それから、途中の「八峰キレット」の付近に「キレット小屋」があります。
 「口ノ沢のコル」を越えて降った処に突然現れます。見ると、後ろに山を負い、前に谷を見晴るかすという位置の「猫の額」のようなところにあります。あまりの感動に、予定を変更してここに一泊しようかと思ったものです。
 今でも、先を急ぎすぎたことを残念に思っています。   

(5)ともかく、3大難所といわれるところを通過しました。
 写真は、鹿島槍ヶ岳南峰〔2889.7m〕頂上です。なお地図には2889.1mとあります。誰かが60㎝分の石を積んだんですね。(ふふふ!)
   
    
(6)この日は、鹿島槍ヶ岳を下って、15:15分に布引山を通過し、16:30「冷池〔つべたいけ〕山荘」に到着しました。
 下の写真は、翌朝見た鹿島槍ヶ岳南峰のモルゲンロート〔朝焼け〕です。北峰はにはまだ陽が当たっていません。双耳峰であることがよくわかります。
 なお、左に見える山が布引山です。
  
 
 続きは明日に。   

【コレクション 57】
 きょうは、『八王子の空襲と戦災の記録』です。
    

 大きさはB5判、8㌻です。
 全体は、横長のB4大2枚分の用紙を二つ折りし、さらにもう一度二つ折りするとできます。ですから、これを広げると、2~3㌻、もう一度広げると4~7㌻となります。
 体裁は、
 1㌻ 上掲 「八王子教育委員会」と「八王子郷土資料館」の連名になっています。
 2~3㌻ 「あれから40年 いま明らかにされた 八王子空襲」のタイトルの下に推薦文
     八王子市長 波多野重雄 平和を守るための尊さと強い信念を
     「八王子の空襲と戦災の記録」
       編集委員会委員長 俵田忠定 市と市民の手で綴る戦災史
     八王子教育委員会教育長 瀬沼満 戦争を知らない世代に伝えるために
     監修者 今井清一 斎藤秀夫 戦争の体験は日本の戦後のひとつの起点
 4~7㌻ 目次 内容写真見本 組見本
 8㌻ 装丁見本
    出版要項 刊行予定昭和60〔1985〕年5月上旬
    体裁 B5判 収録写真441枚 
       総説編約700㌻ 資料編約400㌻ 市民の記録編約400㌻ 
 以上です。
 この本は昭島市の図書館の郷土コーナーにも配本されていて、私も親族の被災について調べたことがあって利用しました。全市にわたってくまなく被災状況を調べあげられていて、たいへん貴重なものです。
 長崎・広島の原爆の被害の大きさはいうまでもありませんが、この八王子市のような空襲による被害は全国に数かぎりなくあります。
 いま、ウクライナやガザその他の係争地などを観るにつけ、「ひとたび戦争が始まった時のひどさを忘れてはならない」ということはだれも否定ないでしょう。
 その場合、忘れてはいけないのは、「日本が戦争を引き起こした側だった」ということです。日本が戦争を仕掛けなければ、戦争を思いとどまっていれば、その前に、戦争を止める勢力が治安維持法などで弾圧されていなければ、あの戦争はなかった、防げたということです。
 いま、日本は戦争を仕掛ける側にマタマタなろうとしています。
 もちろん、日本の政府は戦争をやると言っていません。それどころか、「平和のため」といいながら、ずっと戦争準備をしてきたのです。ここが問題です。
 「どこかが攻めてきたらどうする」ではなく、「日本がやらなければ戦争は起きない」、これが基本精神であるべきです。つまり、憲法9条の精神です。
 きょうはここで。
 
   
   「君の名は」、「岸・・・に住むチョウ」。
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