(1)白馬大池から上がった山行もいよいよ終わりです。
私がここに上がった時期を『日記』で調べたところ、1998年9月7日~11日〔車中泊を含め、4泊5日〕でした。
7日の23時過ぎに家を出ました。8日0:19立川発の松本行に乗る予定が、人身事故のために46分遅れて1:05分に出発。しかし、松本へ行くまでに遅れを回復して、接続の大糸線に間に合い、予定どおり6:00白馬大池駅に着きました。このあとは、初日に書いたとおりです。そして、8日は白馬山荘泊、9日は五竜山荘泊、10日は冷池〔つべたいけ〕山荘泊と経て、11日朝6:00下山開始、帰宅となります。
(2)冷池山荘付近からの日の出です。このあとに撮った「鹿島槍ヶ岳方向の写真」はきのう乗せましたからそちらをご覧ください。
(3)下の写真は冷池山荘を出発するときのものです。最終日なのに思いのほか元気です。
なお、『日記』には、「白馬大池」の手前の「乗鞍岳付近から、秋田から来た人と一緒になり、結局、下山まで同行する」とありますから、この写真を撮ったのはその秋田の人に違いありません。しかし、残念ながら、もうその人のことはまったく記憶から消えています。
(4)今思うに、キレット小屋での宿泊をやめたのは、この同行者がいたのおあるかもしれません。もちろん、予定外だったことが大きいと思いますが・・・。
それから、私は、山へは行くときは「単独行」ですが、行ってから必ず同行者ができます。山には似たような考えで出かけて来る人がいるもので、頂上などで、先に到着した人に「ごくろうさん」と声をかけられ、あとから来た人に「大変でしたね」などと声をかけ、アリバイのためにシャッター推してもらっていると、その後は、ひとことふたこと話しているうちに連れ立って歩くようになります。
(5)さて、冷池山荘を6:00に出て、7:30に爺ヶ岳〔左の頂上〕を越えます。
そして、尾根を右に行き、少し険しく崩れている辺りがありますが、その手前に「種池山荘」があり、8:45その脇から「柏原新道」を下り、12:00に降りて、扇沢〔黒部ダムへのバスターミナル〕まで歩き、12:30扇沢発、13:14大町駅発、16:01八王子着、17時頃帰宅。
これも『日記』からですが、「爺ヶ岳から360°の展望がえられる。富士・浅間・八ヶ岳・妙高・穂高・戸隠すべて見えた。前日、前々日も満足していたが、この上ない好条件のうちに下山できた」と書いています。
(6)最後に、写真を見ていたところ、「白馬岳頂上」で撮った次の写真が出てきました。
これも記憶から消えていたものですが、『日記』に「白馬大池から山荘まで、5人組の女性と抜きつ抜かれつする。国立〔市〕の人が混じっているらしかった。看護婦〔師〕か。」とありました。
おそらく、写真の女性5人がその人たちでしょう。そして、同行した秋田からの男性は、そこに映っている人か、この写真を撮ってくれた人か・・・でしょう。
山ではいつも「一期一会」、そうして分かれて再会できた人は、湯沢市からの人1人です。
【コレクション 58】
きょうは、「再建日本の出発」です。
これは、大きさはA4判で、裏表1枚のチラシです。
ご覧いただければわかりますように、2007年5月3日~22日の間に国立公文書館の「再建日本の出発」と題して「春の特別展」がありました。
表面
右上に「憲法」の前文、中央に憲法原本が掲げられています。
裏面
憲法制定60年にちなんで、制定までの関係文書の影印が見えます。どんなものがあるかは読めると思いますので、説明を略します。
憲法を守らない首相が、よりによって8・15のこの時期に立候補しない〔任期いっぱいでの退陣〕を表明しました。国際的に多端な時に、自党の裏金問題など何一つきちんとした対応もないまま放り出しておいて「責任を取る」と?。
何にも解決しないまま、また政権のたらい回しをやろうとしています。まあ、本当に困ったものです。なんとか思い知らせたい。そう思う人は、「この1点で団結を」しましょう。
最後に「早田ひな」という卓球選手の発言をめぐってにぎやかになっています。
早田さんの「本意」はあの言葉の通りなのか、中国はその何を問題にしているのか、知覧特攻平和記念館の実態はどんなものなのか、注目しています。
「特攻」は強いられた悲劇であり、美化すべきでない、と思ってきましたが、妙なことで話題に持ち上がりましたね。ではここで。
曇る日でも同じ