次の写真は、前に一度、その日の末尾に小さく載せたことがありますから、記憶されている方もおられるでしょう。手持ちがなくなったからの再利用ではありません。
「私の傑作」です。
ヒガンバナの首のところが折れて、そのために、雄蕊?が横向きに火炎を噴き出したかのようになっているところへ、右後ろの羽の一部を失ったチョウが潜るように飛び入って取り付いています。
少し向こうに、首が折れずに立って咲いている別のがあるのに、なぜ向こうへ止まらないのか・・・。
おそらく何かの「共感」を語り合いたかったのでしょう。
そう思いながら、私は何回もシャッターを押しました。
この一枚はそれを思わせ、観ていて飽きない、同時にいろいろなことを考えさせてくれる、「会心の作」です。
今日は、ロシアのナワリヌィ氏の死を知り、ロシアの民衆の苦悩と、かつての日本の民衆の苦悩と反省が重なって見えたという人も多いことでしょう。
ひとつ、鹿児島県出身のNさんのことを紹介しましょう。
これは本名を伏せたほかは事実で、『進退録』(宮内公文書館蔵)に出て来ることです。
Nさんの名は羊〔ひつじ〕、生まれは大正8(1919)年元旦です。
羊さんは、鹿児島県の農林学校で林業を勉強して、昭和14(1939)年3月に卒業し、4月に帝室林野局に入局しました。そして、北海道の札幌支局・大夕張出張所に配属されました。
それから1年もたたない昭和15〔1940〕年2月、休職します。理由は徴兵です。
就職して1年もたたないのでは、年間の仕事のサイクル(手順)も覚えきらなかったでしょう。事実上の離職です。
それから1年して昭和16(1941)年2月、休職延長つまり戦争から帰れない、徴兵延長です。
さらに1年、17(1942)年2月、再延長。
そして、17年5月、解除となり復職して再び大夕張出張所に戻ります。
ところが、18(1943)年9月、またまた召集がかかり応召します。
さて、羊さんは無事に職場復帰できたでしょうか?
無事復帰できたならハッピーですが、それでも、終戦後に帝室林野局は解体されて無くなりますから、羊さんは、いくらも働くことができないまま終わったことになります。
戦争の悲劇は、戦死だけでなく、戦場体験のほか、人生を狂わせられます。
羊さんには、親が2人、祖父母が4人、そのほか、兄弟・友人・先生などなど、ざっと数えても少なくとも数十人はいます。もし戦争がなければ、・・・。
いま、ロシアに羊さんが何人いるのか、すでに何人の羊さんが死んでいったのか、たまらないですねえ。
羊さんのその後、わかったらまた書きましょう。
なぜ啼くの?
先を見据えて、必要な時は、損してもものをいわないと、結局、より大きな悲劇がもたらされます。
ロシアの母は、いまそれを悩んでいるでしょう。姿勢がとわれます。
遠くを見る練習のために次の1枚進呈します。
では、この辺で。
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