NPO法人 地域福祉協会

清掃事業  森林事業(植栽・剪定)

近代哲学の終焉。

2016-03-13 | コラム

古代ギリシャの哲人と

近代哲学を導いたデカルトやロックの

学問動機は

根本的に異なる。

 

ソクラテス氏や

プラトン氏は

基本的に純粋に学問を究めていた。

 

デカルトやロック

モンテスキューやルソーの著作は

無神論ないし理神論を

政治的に吹聴する

不純で放埒な意図がみられる。


したがって

近代哲学に

理性の透徹はない。

 

無意味に長たらしい文章

内容が意味不明で自己満足な

単なる暇人の日記が

近代哲学の著作である。

 

近代観念論や経験論の本質は

神からの逃避であり

私はナザレのヨシュアという方を知らないと述べたぺテロ氏の頑なな否認のリピートである。


ギリシャの論理学を持ち出し

その三段論法が

あたかもギリシャの認識論と存在論であるかのように都合良く抽出し

論理学で筋が通らないことは

存在しないとしたのだ。


あるいは

感覚的な経験が知識と真理の源泉だとしたのも、その経験にはモーゼやエゼキエルの経験は含まれておらず


単に

ロック自身が

神を観たことがないから

神はいないという主張である。

 

同様に

カントの純粋理性批判は

全く純粋ではない。

 

権力への意志を唱えながら

何ら権力が得られなかった

ニーチェは愚か者である。


是に於て

稚拙で愚鈍な

近代主義者の真実を露わにせねばならない。


昔のOECDの調査報告書には

日本にはマルクス主義者と近代主義者しかいないという指摘があった。


上記の指摘は

誉め言葉ではなく

外人さんが日本の学者をだらにしていることすら

日本の学者は気付いていない。

 

つまり

明治以降の日本の社会科学は

全く深化していないのだ。



いまでもなく

私は前近代主義者であり

超保守主義者

原始共同社会を志向するものである。

 

 

高橋(ウルトラコンサバ)