宗恒の茶庭

「茶道 思いつくまま」や「和の美術」など

正客になる修行

2017-08-23 14:02:12 | 茶道
先日の茶会濃茶席で私は正客に祭り上げ?られました。
私としては正客は敬遠したいところでしたが、年齢か?皆様にお願いされ、余り固辞しても時間を取られるので受けることにしました。
席主の方を何回も拝顔はしていますが、茶仙人のような方なのでなおさら緊張するので敬遠したかったのです。

まずは一通りの御挨拶をしてお軸のことを伺いました。
《不昧公の豆腐の絵ですよ。自画賛の和歌は有名ですよ》と。読み上げて頂きましたが私には初めての和歌でした。
お花について「純白のむくげはすがすがしいですね。お花入れも素敵な青磁ですね」と緊張しながらの私。

お釜は風炉と一体のもので全体に丸みを帯びています。水指も高さほんの7,8cmの浅い物で《唐銅の平水指ですよ。唐銅というのは金と銀と銅の合金です。》とご説明を頂きました。お釜や風炉のこともご説明頂きました。
《お茶会ではお点前は誰がしてもできるものなので、お道具を拝見して目利きになることですよ。》と席主様。

お濃茶が素敵な大ぶりの平茶碗で出されました。出し帛紗を添えられていましたが、それは遠慮して自分の小帛紗を使いました。《折角出されたものだからどうぞお使いなさいな》と。確かに自分の小帛紗ではこのお茶碗には頼りなさすぎます。《出し帛紗も素晴らしい裂地のものか、そうでもないものかを判断する目利きに》とおっしゃいます。
杓子定規に考えずに臨機応変に判断する事が難しいです。
《お茶碗は瀬戸唐津です。》・・・ここでそのことを詳しく知りたかったのですが、また伺いそびれました。会話術・コミュニケーション力が欠けています。

お茶碗等を拝見しているうちにもうお点前が終了していました。
うっかり「お茶入れお茶杓お仕覆の拝見を」ということ忘れていました。すっかりお道具は下げられていてその席は終了。
拝見はお願いされなければ見せていただけないこと・・・・確かに席主の方は自らのお道具について聞かれもしないのにべらべらと言うものではないとはいわれますが。

「あー何という正客であったか」と自己嫌悪に陥りました。
社中の方も何人かお連れして、修行の足りない正客振りをしっかり見られてしまいました。

しかしこれも勉強!恥をかくことが勉強!正客になるための修行・勉強ができたと席主様に感謝!齢を重ねる毎に、このような修行が必要になってきたのです。このことを自覚できたことだけでもこのお茶会に出かけてよかったです。
お茶会自体は素晴らしく十分楽しめたのですが、自分の中で大いなる反省感があるのです。

帰宅して瀬戸唐津についてや瀬戸黒、ベタ黒などについて茶道事典で調べてノートにメモしておきました。また、松平不昧の豆腐の和歌についてもネットで調べました。

コメント (2)
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