実は出演前、局から事前アンケート用紙がきておりました。そこには次のような2点のことを書いておりました。
「思っていること…出演者が女の子ばかりになってきている。男の子がどんどん出てくれるといいと思います」
「得意なこと…ハーモニカが大好きです。2台持っています。1台は学校で使うヤマハツーライン。もう1台は個人的に持っているハーモニカ。学校のやつは表と裏で、ハ長調とヘ長調の二つの音階でできているから便利です。でも、家のやつは、音がよく響くのです。(※これは複音ハーモニカと呼ばれる、一つの音に対し2枚のリードが使われるハーモニカのことです。2枚のリードはわざと微妙にピッチをずらしてあるため、吹くとそのうなりがビブラートのようになって、豊かな音色となるのです)ぼくは、ツーラインで、よく音の響くハーモニカが出ればいいな、と思っています」
その事前の情報を、番組内で話してもらえるようなことを本番前に聞きました。
今考えると、贅沢な話です。一介の小学生のたわごとを、テレビ番組内で拾ってもらって採用してくれるというのですから。
【本番収録で覚えていること】
自分では意識していなかったのですが、けっこう必死の30分間だったのだと思います。のちに本放送、1978年2月19日のものを見たのですが、あまりしっかりと様子を覚えていないんです。「どんぐり音楽会」は収録番組でありながら、時間的な編集作業は一切なく、一発撮りをそのまま放送していました。
・ディレクターの合図待ちで本番スタート。おそらく出演者全員でステージに立ち、顔見せをしたのでしょう。その後待機の席に戻って、出演時以外は進行を見て楽しんでいました。もちろんかなり緊張はしていたはずですが。
・3人の審査員の先生がいらっしゃって(そのうち一組は狩人のお二人)、ひとり持ち点が10点、30点満点で審査されていました。この中に水谷俊二先生がいらっしゃったことを覚えています。
名古屋少年少女合唱団の主宰としても知られる水谷俊二先生。ご自身も声楽家。愛知教育大学名誉教授でいらっしゃることは、ネットで検索した今、初めて知りました。とすれば、そこに通っていたうちの子もどこかで水谷先生のお世話、薫陶にあずかっていたかもしれません。親子二世代で。ありがたいことです。
というのは、私の両親が水谷先生のファンで、自然私も水谷先生に勝手に親しみをもっていたのです。
・この方の歌に対する評価が大変適切であること。
・基本の歌い方を大切にされていらっしゃること。
・(我が家と同じで)歌謡曲のちゃらちゃらとしたものを子どもが歌ってテレビで披露する姿は若干苦手。童謡など、純粋な歌唱力で(今言うと語弊があるのだろうけどね)勝負してほしいというスタンス、芸能界への道具として手を貸すような真似だけはしたくない
そういう匂いがプンプン感じられる先生だったのです。
さて収録に話を戻します。
【オープニングの石川進さん】
これは収録直後に父が言った言葉ですが、
「石川進はやっぱりすごいな」と。
オープニングトーク第一声が、例のアシスタントさんの
「いやー寒いですねーー!」だったのです。(私は覚えていませんでしたが)
ですが、そうです。これは収録。
収録日の2月1日は本当に寒い日だったのです。おそらくこの第一声は、アシスタントさんの、思わず漏れてしまった「リアルタイム」での感想。帰り際に父が言ったのです。「だって、19日が本当に寒いかどうかわからないじゃないか。未来の予測できないときの時候の挨拶というのは、怖いから普通しちゃいけないんだ」と。
そういう「テレビ的な事情」が、あの時代にしてわかっていた父もすごいと思ったのですが、石川進さんは、次のように返したのです。
「そうですね、寒い日が続いてます、でもね、今日は19日で、暦の上では『雨水』っていうんです。どんなに寒い冬も、今日あたりから、温まり始まる…っていうことで、春を待ちましょう。」
こう返してくれれば、この日がどのような気候であっても、違和感なく聞こえるわけです。さりげないフォローができる石川さんに、父は「プロだなあ」と感服したそうです。
【シンプルな伴奏】
自分は確か4番目ぐらいの出演だったと思います(違ったかも)。
紹介の時の石川さんの声が、「それでは、本日の『黒一点』です。」でした。
上記の資料の「出場者が女の子ばかり」を読んでくださったのだと思います。実際この頃から、出場者が女の子ばかりの週がざらにありました。
読んでくれていて、ありがたいな、と思うと同時に、なんだか妙な注目を感じてしまい、緊張が増したことも覚えています。
歌唱については、まあまあの出来だったと思います。
なんと言っても一度も事前に合わせていない伴奏で歌うのですから、しかもリハーサル時に「歌い出せない」というパニックを経験しているのですから、行けるのかどうか、いろんなことが気になっていました。
実際の演奏は、例の打ち合わせたバンドリーダーさんのギターがほとんどで、ベースとドラムが一部で申し訳程度についたものだったのではなかったかと記憶しています。まあ、問題なく歌えました。もちろんほかの出場者の子たちのような、演奏の派手さも、ドラマティックさもありませんでした。
でも、それで、私には十分でした。その日たった1回の歌唱がそこでやり切れたのですから。
【テンパって、痛い場面を作る、しかも2回】
歌い終わったところで、プレッシャーから解放されました。同時に頭の中は何もありません。
石川さんが、「どうですか?あがっちゃったかな?」と質問されて、思わず、「あ、あがっちまった」
と言いかけ、「あがっち…ました」で会場の笑いを誘ってしまいました。
自分自身は、そういうことで失笑を買うことを想定もしておりませんでした。今ならば、「あ、おいしいところもらった」とみんなに笑ってもらえるようにふるまうのでしょうが、当時の自分は、繕い笑いしかできませんでした。
そして、例の「ハーモニカ」のことを尋ねられたのです。石川さんは、「君はハーモニカが好きなんだって?」と尋ねただけだったのですが、私は、先ほどの失敗を挽回しようと、こともあろうに、応募票に書いた通りのことを一生懸命説明しようとしました。
思い出しても、痛い、痛い。まるで自分に音楽の知識があることをひけらかすかのような言い方で。
石川さんは、それをうまく受け流して笑いに変えてくれるリアクションをしてくれました。あちらのほうが音楽のスペシャリストだというのに。
会場は大いに盛り上がりましたが、私は、自分がおもちゃにされたことのありがたみを少しも理解できていなかったのです。
「わかってもらえなかった、バカにされた、恥をかいた」
この思いが後を引きました。
さらに、例の番組終了時のインタビューでも、考えていた通り一生懸命アピールしようとして空回り。やはり会場の失笑を買う結果に。思い出すたび心がズキズキ痛みます。
45年経った今でも、この時の経験は、ほろ苦い教訓を残す思い出です。
得点は、30点をいただきました。
講評が水谷先生だったことはうれしかったです。「上手に歌ったね。でもね、声がもっとお腹から出せるようになるよ。呼吸の仕方を勉強していってください」というありがたいお言葉でした。
「思っていること…出演者が女の子ばかりになってきている。男の子がどんどん出てくれるといいと思います」
「得意なこと…ハーモニカが大好きです。2台持っています。1台は学校で使うヤマハツーライン。もう1台は個人的に持っているハーモニカ。学校のやつは表と裏で、ハ長調とヘ長調の二つの音階でできているから便利です。でも、家のやつは、音がよく響くのです。(※これは複音ハーモニカと呼ばれる、一つの音に対し2枚のリードが使われるハーモニカのことです。2枚のリードはわざと微妙にピッチをずらしてあるため、吹くとそのうなりがビブラートのようになって、豊かな音色となるのです)ぼくは、ツーラインで、よく音の響くハーモニカが出ればいいな、と思っています」
その事前の情報を、番組内で話してもらえるようなことを本番前に聞きました。
今考えると、贅沢な話です。一介の小学生のたわごとを、テレビ番組内で拾ってもらって採用してくれるというのですから。
【本番収録で覚えていること】
自分では意識していなかったのですが、けっこう必死の30分間だったのだと思います。のちに本放送、1978年2月19日のものを見たのですが、あまりしっかりと様子を覚えていないんです。「どんぐり音楽会」は収録番組でありながら、時間的な編集作業は一切なく、一発撮りをそのまま放送していました。
・ディレクターの合図待ちで本番スタート。おそらく出演者全員でステージに立ち、顔見せをしたのでしょう。その後待機の席に戻って、出演時以外は進行を見て楽しんでいました。もちろんかなり緊張はしていたはずですが。
・3人の審査員の先生がいらっしゃって(そのうち一組は狩人のお二人)、ひとり持ち点が10点、30点満点で審査されていました。この中に水谷俊二先生がいらっしゃったことを覚えています。
名古屋少年少女合唱団の主宰としても知られる水谷俊二先生。ご自身も声楽家。愛知教育大学名誉教授でいらっしゃることは、ネットで検索した今、初めて知りました。とすれば、そこに通っていたうちの子もどこかで水谷先生のお世話、薫陶にあずかっていたかもしれません。親子二世代で。ありがたいことです。
というのは、私の両親が水谷先生のファンで、自然私も水谷先生に勝手に親しみをもっていたのです。
・この方の歌に対する評価が大変適切であること。
・基本の歌い方を大切にされていらっしゃること。
・(我が家と同じで)歌謡曲のちゃらちゃらとしたものを子どもが歌ってテレビで披露する姿は若干苦手。童謡など、純粋な歌唱力で(今言うと語弊があるのだろうけどね)勝負してほしいというスタンス、芸能界への道具として手を貸すような真似だけはしたくない
そういう匂いがプンプン感じられる先生だったのです。
さて収録に話を戻します。
【オープニングの石川進さん】
これは収録直後に父が言った言葉ですが、
「石川進はやっぱりすごいな」と。
オープニングトーク第一声が、例のアシスタントさんの
「いやー寒いですねーー!」だったのです。(私は覚えていませんでしたが)
ですが、そうです。これは収録。
収録日の2月1日は本当に寒い日だったのです。おそらくこの第一声は、アシスタントさんの、思わず漏れてしまった「リアルタイム」での感想。帰り際に父が言ったのです。「だって、19日が本当に寒いかどうかわからないじゃないか。未来の予測できないときの時候の挨拶というのは、怖いから普通しちゃいけないんだ」と。
そういう「テレビ的な事情」が、あの時代にしてわかっていた父もすごいと思ったのですが、石川進さんは、次のように返したのです。
「そうですね、寒い日が続いてます、でもね、今日は19日で、暦の上では『雨水』っていうんです。どんなに寒い冬も、今日あたりから、温まり始まる…っていうことで、春を待ちましょう。」
こう返してくれれば、この日がどのような気候であっても、違和感なく聞こえるわけです。さりげないフォローができる石川さんに、父は「プロだなあ」と感服したそうです。
【シンプルな伴奏】
自分は確か4番目ぐらいの出演だったと思います(違ったかも)。
紹介の時の石川さんの声が、「それでは、本日の『黒一点』です。」でした。
上記の資料の「出場者が女の子ばかり」を読んでくださったのだと思います。実際この頃から、出場者が女の子ばかりの週がざらにありました。
読んでくれていて、ありがたいな、と思うと同時に、なんだか妙な注目を感じてしまい、緊張が増したことも覚えています。
歌唱については、まあまあの出来だったと思います。
なんと言っても一度も事前に合わせていない伴奏で歌うのですから、しかもリハーサル時に「歌い出せない」というパニックを経験しているのですから、行けるのかどうか、いろんなことが気になっていました。
実際の演奏は、例の打ち合わせたバンドリーダーさんのギターがほとんどで、ベースとドラムが一部で申し訳程度についたものだったのではなかったかと記憶しています。まあ、問題なく歌えました。もちろんほかの出場者の子たちのような、演奏の派手さも、ドラマティックさもありませんでした。
でも、それで、私には十分でした。その日たった1回の歌唱がそこでやり切れたのですから。
【テンパって、痛い場面を作る、しかも2回】
歌い終わったところで、プレッシャーから解放されました。同時に頭の中は何もありません。
石川さんが、「どうですか?あがっちゃったかな?」と質問されて、思わず、「あ、あがっちまった」
と言いかけ、「あがっち…ました」で会場の笑いを誘ってしまいました。
自分自身は、そういうことで失笑を買うことを想定もしておりませんでした。今ならば、「あ、おいしいところもらった」とみんなに笑ってもらえるようにふるまうのでしょうが、当時の自分は、繕い笑いしかできませんでした。
そして、例の「ハーモニカ」のことを尋ねられたのです。石川さんは、「君はハーモニカが好きなんだって?」と尋ねただけだったのですが、私は、先ほどの失敗を挽回しようと、こともあろうに、応募票に書いた通りのことを一生懸命説明しようとしました。
思い出しても、痛い、痛い。まるで自分に音楽の知識があることをひけらかすかのような言い方で。
石川さんは、それをうまく受け流して笑いに変えてくれるリアクションをしてくれました。あちらのほうが音楽のスペシャリストだというのに。
会場は大いに盛り上がりましたが、私は、自分がおもちゃにされたことのありがたみを少しも理解できていなかったのです。
「わかってもらえなかった、バカにされた、恥をかいた」
この思いが後を引きました。
さらに、例の番組終了時のインタビューでも、考えていた通り一生懸命アピールしようとして空回り。やはり会場の失笑を買う結果に。思い出すたび心がズキズキ痛みます。
45年経った今でも、この時の経験は、ほろ苦い教訓を残す思い出です。
得点は、30点をいただきました。
講評が水谷先生だったことはうれしかったです。「上手に歌ったね。でもね、声がもっとお腹から出せるようになるよ。呼吸の仕方を勉強していってください」というありがたいお言葉でした。