songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

どんぐり音楽会出演の思い出 その8 それなりに頑張ったけど、不完全燃焼だった本番

2023-06-19 20:35:49 | Weblog
実は出演前、局から事前アンケート用紙がきておりました。そこには次のような2点のことを書いておりました。
「思っていること…出演者が女の子ばかりになってきている。男の子がどんどん出てくれるといいと思います」
「得意なこと…ハーモニカが大好きです。2台持っています。1台は学校で使うヤマハツーライン。もう1台は個人的に持っているハーモニカ。学校のやつは表と裏で、ハ長調とヘ長調の二つの音階でできているから便利です。でも、家のやつは、音がよく響くのです。(※これは複音ハーモニカと呼ばれる、一つの音に対し2枚のリードが使われるハーモニカのことです。2枚のリードはわざと微妙にピッチをずらしてあるため、吹くとそのうなりがビブラートのようになって、豊かな音色となるのです)ぼくは、ツーラインで、よく音の響くハーモニカが出ればいいな、と思っています」

その事前の情報を、番組内で話してもらえるようなことを本番前に聞きました。
今考えると、贅沢な話です。一介の小学生のたわごとを、テレビ番組内で拾ってもらって採用してくれるというのですから。

【本番収録で覚えていること】
 自分では意識していなかったのですが、けっこう必死の30分間だったのだと思います。のちに本放送、1978年2月19日のものを見たのですが、あまりしっかりと様子を覚えていないんです。「どんぐり音楽会」は収録番組でありながら、時間的な編集作業は一切なく、一発撮りをそのまま放送していました。
・ディレクターの合図待ちで本番スタート。おそらく出演者全員でステージに立ち、顔見せをしたのでしょう。その後待機の席に戻って、出演時以外は進行を見て楽しんでいました。もちろんかなり緊張はしていたはずですが。

・3人の審査員の先生がいらっしゃって(そのうち一組は狩人のお二人)、ひとり持ち点が10点、30点満点で審査されていました。この中に水谷俊二先生がいらっしゃったことを覚えています。

名古屋少年少女合唱団の主宰としても知られる水谷俊二先生。ご自身も声楽家。愛知教育大学名誉教授でいらっしゃることは、ネットで検索した今、初めて知りました。とすれば、そこに通っていたうちの子もどこかで水谷先生のお世話、薫陶にあずかっていたかもしれません。親子二世代で。ありがたいことです。

というのは、私の両親が水谷先生のファンで、自然私も水谷先生に勝手に親しみをもっていたのです。
・この方の歌に対する評価が大変適切であること。
・基本の歌い方を大切にされていらっしゃること。
・(我が家と同じで)歌謡曲のちゃらちゃらとしたものを子どもが歌ってテレビで披露する姿は若干苦手。童謡など、純粋な歌唱力で(今言うと語弊があるのだろうけどね)勝負してほしいというスタンス、芸能界への道具として手を貸すような真似だけはしたくない

そういう匂いがプンプン感じられる先生だったのです。

さて収録に話を戻します。

【オープニングの石川進さん】
これは収録直後に父が言った言葉ですが、
「石川進はやっぱりすごいな」と。
オープニングトーク第一声が、例のアシスタントさんの
「いやー寒いですねーー!」だったのです。(私は覚えていませんでしたが)
ですが、そうです。これは収録。
収録日の2月1日は本当に寒い日だったのです。おそらくこの第一声は、アシスタントさんの、思わず漏れてしまった「リアルタイム」での感想。帰り際に父が言ったのです。「だって、19日が本当に寒いかどうかわからないじゃないか。未来の予測できないときの時候の挨拶というのは、怖いから普通しちゃいけないんだ」と。
そういう「テレビ的な事情」が、あの時代にしてわかっていた父もすごいと思ったのですが、石川進さんは、次のように返したのです。
「そうですね、寒い日が続いてます、でもね、今日は19日で、暦の上では『雨水』っていうんです。どんなに寒い冬も、今日あたりから、温まり始まる…っていうことで、春を待ちましょう。」
こう返してくれれば、この日がどのような気候であっても、違和感なく聞こえるわけです。さりげないフォローができる石川さんに、父は「プロだなあ」と感服したそうです。

【シンプルな伴奏】
自分は確か4番目ぐらいの出演だったと思います(違ったかも)。
紹介の時の石川さんの声が、「それでは、本日の『黒一点』です。」でした。
上記の資料の「出場者が女の子ばかり」を読んでくださったのだと思います。実際この頃から、出場者が女の子ばかりの週がざらにありました。
読んでくれていて、ありがたいな、と思うと同時に、なんだか妙な注目を感じてしまい、緊張が増したことも覚えています。

歌唱については、まあまあの出来だったと思います。

なんと言っても一度も事前に合わせていない伴奏で歌うのですから、しかもリハーサル時に「歌い出せない」というパニックを経験しているのですから、行けるのかどうか、いろんなことが気になっていました。
実際の演奏は、例の打ち合わせたバンドリーダーさんのギターがほとんどで、ベースとドラムが一部で申し訳程度についたものだったのではなかったかと記憶しています。まあ、問題なく歌えました。もちろんほかの出場者の子たちのような、演奏の派手さも、ドラマティックさもありませんでした。

でも、それで、私には十分でした。その日たった1回の歌唱がそこでやり切れたのですから。


【テンパって、痛い場面を作る、しかも2回】
歌い終わったところで、プレッシャーから解放されました。同時に頭の中は何もありません。
石川さんが、「どうですか?あがっちゃったかな?」と質問されて、思わず、「あ、あがっちまった」
と言いかけ、「あがっち…ました」で会場の笑いを誘ってしまいました。

自分自身は、そういうことで失笑を買うことを想定もしておりませんでした。今ならば、「あ、おいしいところもらった」とみんなに笑ってもらえるようにふるまうのでしょうが、当時の自分は、繕い笑いしかできませんでした。
そして、例の「ハーモニカ」のことを尋ねられたのです。石川さんは、「君はハーモニカが好きなんだって?」と尋ねただけだったのですが、私は、先ほどの失敗を挽回しようと、こともあろうに、応募票に書いた通りのことを一生懸命説明しようとしました。
思い出しても、痛い、痛い。まるで自分に音楽の知識があることをひけらかすかのような言い方で。
石川さんは、それをうまく受け流して笑いに変えてくれるリアクションをしてくれました。あちらのほうが音楽のスペシャリストだというのに。

会場は大いに盛り上がりましたが、私は、自分がおもちゃにされたことのありがたみを少しも理解できていなかったのです。
「わかってもらえなかった、バカにされた、恥をかいた」
この思いが後を引きました。

さらに、例の番組終了時のインタビューでも、考えていた通り一生懸命アピールしようとして空回り。やはり会場の失笑を買う結果に。思い出すたび心がズキズキ痛みます。

45年経った今でも、この時の経験は、ほろ苦い教訓を残す思い出です。

得点は、30点をいただきました。
講評が水谷先生だったことはうれしかったです。「上手に歌ったね。でもね、声がもっとお腹から出せるようになるよ。呼吸の仕方を勉強していってください」というありがたいお言葉でした。
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教育の専門家とやらはお気楽でいいですな 「8人に4リットルのジュースを分けると1人何リットル?小学6年生の約半数が間違えた理由」にもの申す

2022-12-27 21:26:09 | Weblog
全国学力テストというものがあります。
基本的な暗記や計算、言語事項だけでなく、様々な考える力、教科特有で獲得させたい力や価値感などを総合的に見て伸ばしていこうとする意図で毎年行われているものです。
大変厳重に管理されていて、実施する各学校でも慎重に扱わなければならなくて、いろんなマニュアルがある。
結果は地域ごとなどで公表されることが多く、平均点が低いと、「この地区の教育はどうなっているんだ?」と責められる、例のあれです。
まあ、「ゆとり」以来、日本人の真の学力が落ちてきていて世界に太刀打ちできなくなっているとやらで、躍起になっている文部科学省と現場
子どもたちは小学生にして、大学入試共通テストのようなテストの進め方を覚えていくわけです。

私も、問題をよく見ます。
大変だな、と毎回思います。小学生が単元の終わりごとにやっている、教材会社の出しているテストとは、まるでわけが違うからです。(そっちは、下手すりゃ15分もあればちょちょいと100点満点の答案ができてしまうようなやつです)
大変なわりには、高い得点をとっても誰からも褒めてもらえないような、すっきりしないテストなのです。

で、表題について。
このテスト(令和3年 6年生の問題)に、表題にあるような問題があったそうです。
「8人に、4リットルのジュースを等しく分けます。1人分は何リットルですか。求める式と答えを書きましょう。」


皆さん、いかがですか?

じっくり時間があれば、多くの人は、正解にたどり着けると思います。答えは「0.5または2分の1」となりますが、「2リットル」と解答した児童が36.0%、その他の間違いを含め約半数が誤答という結果となったとのことです。
うーむ…でも…と思っていると、この記事(どことは言いません)に意見を寄せた教育の専門家の方によると、

・もととなる「1リットル4本」のイメージができていない
・イメージをせず、「8人に、4リットル」の文字(数字)だけで判断し、計算しやすい「8÷4」の式を立て、1人分は「2リットル」と答えてしまう
・原因は、問題文に書かれている内容をイメージできない、イメージをしようとしないことと、そもそも式のもつ意味をしっかりと考える習慣が身に付いていない
・先に「答えを出すための技術的なやり方」や「公式を覚えること」を優先してきた教育に起因している



表題に書いた通りです。「教育の専門家とやらは、お気楽でいいですな!」
なにそれ??そんな分析や評論ならば、小学生でもできるじゃん。読んでてだんだん腹が立ってきて、いたたまれなくなったので、この記事を書き始めました。

少しでも教育の現場にいたことのある人間ならば、間違えた子が多かった理由のもう一つの側面をなぜ語ってくれないのだ??
これでは頑張ってテストに臨んだ子供たちが浮かばれない。自分が小学生だったら、
「確かに、その通りです。間違えた原因はそれだと思います。だけど」と、何ともやりきれないもやもやだけが残る。
で、「こりゃいかん」と躍起になった先生や親たちから叱られ、類似の問題をたたき込まれて、他の勉強に身が入らなくなり、の無限ループ

「専門家」様、どうしてもう一つの側面について触れてあげないのですか!?

①そんなこたわかってる!じゃ、あんた、あの時間であんだけの問題数こなしている中でこの問題出されて、そういうこと悠長に想像したり、考えたりしている余裕はあるのか?

冒頭に書いた通りです。このテストは問題数が多く、考えさせる問題が中心。多くの子どもは、「もう時間がないのに、まだこんなにも問題がある」の中でやっています。
その中で簡単そうな見た目の問題があれば、さっと済ませてしまいたくなる心理にもなるでしょう。
いわゆる「受験用の学習」に慣れている子であれば、ここで立ち止まって考え直すのでしょうが、それは受験のテクニックです。
算数の本質とは、必ずしも一致しません。脳も疲れるのです。

②これは「悪問」です。

問題文の文法として、皆さんは不自然さを感じませんでしたか?一応理論上は成立している文ですが、やっぱり通常ならば、「4リットルのジュースがあります。」で始まるはずです。
「8人に4リットルのジュースを分けると」落ち着いた状態で問題文を呼んだ私でも、この文章は2度見、3度見しました。明らかに引っ掛ける意図があり、単純な子を振るい落とそうとしているのです。
ただ残念なことに、算数の教科書にも、時々このような不自然な日本語による文章問題は散見されます。
まあもしかしたら、「算数独特の言い回しに慣れ、感覚をつかめ」とでも言いたいのかもしれませんが、それでも件の出題が意地の悪い文になっていることは明らかです。

この問題に不正解して、「ああそうだったかー!なるほどそういう風に考えればいいんだな!」なんて気分には、なれないと思います。
言い換えれば、この問題の不正解によって学ぶものは、あまりありません。こういうのを「悪問」というのです。
少なくとも、子どもを算数嫌いにはさせても、算数好きにする要素は全く含んでいない、質の悪い問題であるということ
なぜ「教育の専門家さんとやら」は、そういう側面に少しも触れようとしないのでしょうか?


私も学生時代、あまりできの良い生徒ではありませんでした。まだ共通一次試験の時代でありました。
大学受験のために共通一次試験を受け、思いのほか苦戦して自己採点でも悪い結果で、半泣きで帰宅しました。
テレビや新聞で講師の先生が、各教科の解答、解き方などを示していました。そして、口をそろえてこう言うのです。
「今回の試験も、例年通り、基本に乗っ取った問題ばかりです。きちんと基礎を学んでいれば、それほど苦労せずに解ける問題ばかりでしたな。」

自業自得なので仕方がなかったですが、私はこの言葉にずいぶん打ちのめされた思いをしたことを、今でもよく覚えています。
で、その後も見てみると、毎年、この先生方は、試験のあと、同じようなことを言っているのですよね。
ただし令和4年度は、「難しかった」とおっしゃっていましたが。泣いている受験生の皆さんを、テレビ越しでたくさん見ました。これはこれで、どうかとも思うのですが…彼らの3年間の勉強はなんだったのだろうってね。

話はそれましたが、でも今回はね、相手が小学生なんですよ。一生を左右する入試ならば、そんな甘いこと言っていられるか、っていうのも、少しはわかるのですが。
ちょっとは彼らの気持ちにも寄り添ってやってほしいな。
勉強嫌いにさせるための試験作ってどうするんだよ。追い打ちかけて「これだから何も考えずに数見ただけで式にしようとする安易な子が育つんだよ」なんて言わないでほしいのです。
受験テクニックの専門家と、教育の専門家は、違うのだと私は感じています。
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真の極悪人とは何か?北京と東京のオリンピック開会式を比べ、非難する人たち

2022-02-06 02:54:04 | Weblog
北京冬季オリンピックが開幕しました。
早速わが岐阜県の堀島選手がメダルを取り、わが家でも湧き上がっています。

さて、先日行われた開会式について、二つのことを、今述べておきたいと思い、ひさしぶりに投稿しました。


1.今回の開会式はかなり良かった


北京オリンピックというと思いだすのは、例の2008年夏、悪夢の酷暑4時間の最悪開会式です。
あれを、壮大で、すごかったとか言っている人もいて、全く理解しないというわけではありませんが、
私には、あれほどひどいものはなかった。
①4時間。馬鹿ですか??
アスリートや関係者を、酷暑の中、あんな長時間
「鍛えられているから大丈夫」「野球でも云々」とか言っている人、あんなことに膨大な体力を奪わせて、それでも良いというのでしょうか?
どんなに良いものを涼しい環境で体験していたとしても、たいていは2時間ちょっとが限界です。
何でもかんでも詰め込んで、派手にやって、正気の沙汰とは思えませんでした。

②単なる中国の国威発揚のショー
中国がいかに凄くて、力があるのか
それを延々と見せつけられただけの4時間でした。まあ、おそらくヒトラーがベルリンでやっていたことと同じだったのでしょう

③どこが多民族の共同国家だ??
一番腹が立ったのは、終盤だったか、「中国は多くの民族が共存している国家」を主張しようとして、子どもたちを出演させていました。
少数民族がこんなにいるんだよ、と見せつけようとして、さまざまな民族衣装の子たちが出ていたのですが、
その子たち、全員漢民族。
他の国の方々には、見分けがつきませんから、わからないかもしれませんが、東洋の我々に、わからないはずがない。
オーストラリアで、イギリス人系白人が、アボリジニの衣装を着て踊っているようなものです。
ずいぶんな民族差別行為、民族の誇りの侵害だと思われました。現地の子が出れば済むだけの話なのに。

ですが、今回は、その悪印象を払拭してくれる開会式でした。
時間が短く、コンパクト。主張も一貫している。美しい映像、奇をてらうことや壮大なことにとらわれない構成。
習近平主席が同席していて、よくこんなことできたな、と思わせた、「イマジン、再び」
聖火ランナーの最終走者にウイグルの選手を起用する演出。かつての孫 基禎(ソン・ギジョン)さんのような、複雑な心情を表に出す様子は見られず、
これはこれで一つの主張のように思われました。

まあ中国の掌の上で転がされているだけなのかもしれないが、それでもオリンピック精神は、政治と独立して主張できる場であることを、
国の圧力には負けず、アピールできたのではないか、というのが私の評価です。放送利権という大金には従順なようではありますが。


日本入場の時、やけに盛り上がりに欠けていた、とか、(入場直前に流れていた曲が、例のソフトバンクの白い犬のCM曲だったので、「えっ?中国人が日本に抱くイメージって、あのCMだったの??」などと思ってしまったが、チャイコフスキーくるみ割り人形の、「葦笛の踊り」でした…)
開会式前にPRされていたコロナ対策で、「選手村では、人の手を介さない、ロボットによる調理をしている」と、チャーハン作りロボットの実演を、さも、これが中国の技術ですとでも言いたげに公開していたけど、あれ、日本の冷凍食品作りの機械まるパクリじゃん、と怒ってみたり、はありましたが
私には開会式は好印象でした。


2.東京オリンピックと比べて貶める罪深い人たち

で、世間的にも結構好評だったようです。しかし、こういうときに必ず現れるんですよね、いやーな性格の人たち
半年前の東京オリンピックの開会式と比べて、いかに東京がひどかったかを語りたがる人

この人たちはね、本当に、本当にいただけません。非常に悪質なものを感じます。

確かに考えさせられたところはあります。
日本は、芸術を、なんか変なものとまちがって認識し、主張しようとしてしまっているのではないか?ということ
東京オリンピックの開会式では、いろんなことを主張しようとして、それを、「芸術」という名の、…まあ言ってしまえば、得体のしれない、難解っぽい物にしたがる。
そして、それを、高尚なもの、質の高いものだと自己満足に向かおうとする。
でも、そんなものをオリンピックに求めるのですか?ということ
日本で行われるイベントって、大体、そういう方向に走ろうとしますよね。で、結果はどうですか?
本当は、実は、そうじゃないんじゃないですか?と、最近ようやく日本のみんな、気づき始めているような気がするのです。あれ、本当に、芸術なのでしょうか?そもそも、芸術って何?と。

わかる人にだけすごさが分かればいいという考えは、ともすれば傲慢な自己満足で、もっとへたすれば、醜い物ともなりうる。


それは、そうなのですが。

東京オリンピックの開会式を、偉そうに上から目線で非難している皆さん、一番大事なことを忘れています、ていうか、わざと忘れたふりをしていますよね?
オリンピックの、本当に直前の直前、あなたたちは、何をしましたか?
詳しくは、ここで述べました。以前の記事、「なぜ、今なんだ?」

あんな状態で中心人物を、「あの時期に」放り出しておいて、「これで清い人たちだけになったから、よい開会式に」
なるわけないでしょ。小学2年生でもわかる理屈だ。
司令塔がいない。積み上げられたものは全部崩された。時間がない。コロナはある。
そんな状況で、むしろ私はよくあれだけの準備期間で開会式にこぎつけたものだと感動すらしました。
内容は手放しで評価できるものではないけど、よく頑張っていました。
もしもあれを「日本人の恥」などというのならば、そういう状況を作ったのは、ネット社会とマスコミの、低いモラル、正義という名の暴力容認主義です。
悪意の世論操作にのこのこと乗ってしまった我々の責任 そういう意味で「日本の恥」というのならば、認めましょう。

注目度がオリンピックほどではなかったパラリンピックの開会式は、けっこうよかった。そりゃそうでしょ。時間も人材もあったのですから。

あのオリンピック直前、何らかの悪意ある力に乗せられて、内部を壊滅状態にしてしまったのは、我々なのです。
関係者やスタッフなどのせいにして自分の罪にも気づかず、偉そうに「あいつら最低」と、再び世論を動かそうとしている悪党たち
騙されてはけません、乗せられてはいけません。そういう人物たちが、何の努力もせず、我々の財産を食いつぶしていくのです。真の悪人とは何か、知っておきましょう。










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オリンピックが終わって考える

2021-08-14 15:41:15 | Weblog
私は、十字架を背負って生きていかなくてはならないのかもしれない、と考えております。
前々回にも記したとおり、オリンピック、やると決まったのだから精いっぱい選手も応援して、見ました。すごく感激もしました。
これに関わったすさまじい人たちの思いの一端も知ることができ、学び、感動は今も新しい情報として入ってきます。
世界中のいろんな思い、情勢も知ることができました。考えさせられました。
もしも書くことができれば、紹介したいものがいくつもあります。

でも、やはり、決行したことによるしわ寄せ、後始末、負の遺産も明らかになりつつあるわけで、これが、「事前にわかっていた」私の背負うべき十字架なのです。
たとえは違いますが、先の大戦で戦争が終わった後、「だから私は最初から戦争は止めろと言っていたんだ」とか、
「みんなの責任だから、誰も責められるものではない。仕方がなかったのだ」とか、「私は正義を貫いたのだ。人に危険人物扱いされようと、私は戦争に反対していたというのに。」とか
そういうたぐいの人間にはなりたくありません。
どれだけ叫んでいても、決行を止めることはできなかったわけですから、また、そこまで命がけではなかったのですから、やることが決まった時点で、十字架を背負いつつ、頑張る人にエールを送る以外に手はないと思ったのです。

さて、私はどんな十字架を背負ったのか。
1.一番心配された、「感染症の拡大について」。確かに現在、予想された通りの感染の広がりがあり、危険です。しかし、この拡がりと、オリンピック開催との因果関係については、立証が難しい。
個人的には、現在猛烈に広がっている「デルタ株」よりも、さらに強力な「ラムダ株」の原因が、オリンピックにあるような、嫌な予感がしております。
いやな予感ほどよく当たるのが、今回のコロナウイルスなのが、さらに嫌なのですけどね。

2.続いて、お金の問題
観客が入らなかったことをはじめとする、数多くの損失を、私たち日本や、東京が負うということは、わかっていましたよね。
これがじわじわと、我々を苦しめていくであろうことは容易に想像できます。
コロナ対策を含め、現在の政府は、まるで元寇が去った後の鎌倉幕府になってしまうのではないか、という状況です。
なぜ、IOCは損失がないのでしょう?手を差し伸べてくれないのでしょうか?
アメリカのテレビ局は、なんだか、思ったほどの視聴率を稼げなかったとのことですが、私に言わせれば、ざまあみろでございます。

3.ほら見ろ暑いじゃないか IOCの正体を拡散せよ
前回にも触れたとおり、これについては日本側の責任もかなりあることが分かったので恥ずかしい限りで、申し訳ない。
しかし、こういっちゃなんだが、IOCだって知らないはずはなかったと思いますよ。日本の7,8月の不快指数。特に湿度。
「ほかの大会だって暑かった」「アスリートならばそのぐらい乗り越えられて当然」という意見もありましたが笑止千万
日本には、秋という、スポーツには最も良いパフォーマンスができる季節があり、その時期にアスリートを招けば、気持ちよく過ごしてもらえるし、
何よりも最高のパフォーマンスができる。
何度も触れますが、これも、アメリカのテレビ局の都合で勝手に決められた、「絶対のおきて」によって、時期をずらせなかったこと
早期に日本人の多くがこの鉄のおきてを知っていたら、東京誘致にそれほど積極的にはなれなかったはずです。
私たちがすべきは、このたわけたおきてがアメリカの視聴率のわがままで決められているということを世界中に知らしめること
IOCは、アスリートや開催地ファーストなどでは、決してない団体であり、金もうけ至上主義、資本を持っている機関の犬である、ということを知らしめることなのです。

若い世代には嘲笑されますが、我々年配の世代にとって、再び東京にオリンピックを呼ぶことは、悲願でありました。1964年の大会だって一筋縄ではいかない多くの苦難を抱えながらの開催だったとは聞いていますが、
それでも、開催できたことによる国民の喜び、国にもたらされた恩恵、オリンピック後のの日本の元気と国の成長は、すさまじいものがあったのです。
オリンピックって、すごいんだ。ある程度以上の年代の人たちが、共通でもっている感情です。って、私はそこよりは下の世代なんですけどね。伝わってくるんですもん。その思い。

しかし、今回のオリンピックが終わって(すみません、パラリンピックはまだではありますが)、国民が再びそのような思いになることは、考えられません。

時節柄不謹慎だからと、「復興五輪」は前面に押し出せなかった?
日本はあの震災の時、世界中からありがたい支援をいただきました。完全な復興には遠いとしても、このオリンピックで、ことあるごとに感謝の意を発信すればよかったじゃないですか。
復興を「誇る」のではなく、復興への「感謝」を前面に出していけばよかったのです。決して格好つける必要はない。

4.図らずも今回の東京オリンピックの特徴を瞬時にあぶりだしてしまったパリの映像
日本のメダリストたちがコメントをする際、口をそろえて「まず、この大会を開催させていただいた多くの関係者の皆さんへのご理解ご協力に感謝いたします」から始まるコメント
心の美しさに頭が下がりました。しかし、意地悪な言い方をすれば、これが、勝利を手放しで喜べない今回のオリンピックの状況を端的に表していたともいえます。

このコロナ禍は、世界中今まで経験したことのない状況です。閉会式で次回開催地:パリのパイロット映像が流れました。
凱旋門で、エッフェル塔で。街のみんなが気軽に足を運べるようなところがオリンピックの競技の会場になる。
私にはこの映像が、すごく魅力的に見えました。そしてその原因がすぐにわかりました。
「開放されているんだ」街に溶け込んだ、開かれた会場。なんて魅力的なのだろう。そしてこれが、パリが提示する、(悪意はないのでしょうが)東京へのアンチテーゼとして
見事なコントラストをなしていたのです。東京は、「in」。パリは、「out」。
そう、東京オリンピックは、一言でまとめれば、「閉鎖空間の中のオリンピック」でした。もちろん意図したものではありませんでしたが。

5.思いもよらぬところで騒がれた、IOCの無力さ
ベラルーシ陸上のティマノフスカヤ選手が、ポーランドに亡命したことはニュースでもよく取り上げられました。
代表チームの運営に疑問を持っていることを発信したところ、強制帰国を命じられた、ということで身の危険を感じ、亡命へ。
ティマノフスカヤ選手は、IOCの介入を要求し、現在、調査中とのことです。ベラルーシはここ数年、独裁の横暴さがとみに顕著になってきていると報じられております。

独裁のために選手の人権が危険にさらされるとしたら、オリンピック精神に最も外れたものとなります。
IOCは調査を開始すると言っておりますが、確かにここには政治、内政不干渉、などややこしい側面が立ちはだかることでしょう。
それでも、こういった選手を救うためにこそ、IOCは存在するのだと思います。
国の事情なんかより、一人のアスリートを尊重せよ
これが進まなかったら、いよいよIOCも、形だけの存在ということになってしまいます。


いくつか話は飛びましたが、感動をたくさんいただいたものの、いろんな疑問が残り、こんなことでは、日本の都市は今後一切、オリンピックを招致しようとは考えないでしょう。
アスリートを否定するつもりは毛頭ないですが、常に後味の悪い思いが付きまとったオリンピックでした。
以前私は、「今のIOCは、ノルマントン号だ。エルトゥールル号であるべきなのだ」と述べてきました。

IOCが、謙虚さをもち、金のある資本元の圧力に屈せず、アスリートの健康を考えて開催時期を柔軟に考え、開催地が感染症で困っているのを見たら少しは身銭を切ってワクチン供給や、その費用を捻出して寄付したり、
観客が入れない状態で財政がひっ迫するほどの赤字になりそうだと知ったのならば、同じく身銭を切るなり、オリンピック基金か何かで世界中から援助を求めるなど、開催地とともに力を合わせて困難を乗り越えてくれようとする姿勢を見せてくれていたら、私たちもこの団体を支持し、「いつか、街が元気になったらまた東京へ」ぐらい信頼もしたかもしれません。
でも今のIOCには、裏切られたという思いしかありません。「自分たちの団体さえ赤字にならなければいい」と公言しているのです。

恩は、何年たっても忘れることはありません。しかし、その逆もまたしかり、なのです。
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謝罪とともに~共犯だったんだ、私たち~東京オリンピック

2021-08-04 16:21:45 | Weblog

もう、一部ではだいぶ言われていることを後追いで書くので気が引けますが。

今までさんざん、IOCの悪口を書いてきました。すべてはアメリカの放送局の言いなりであると。
しかし、なぜ日本のマスコミが動かなかったのか。金のあるアメリカの放送局や、IOCの犬だから、と思っておりました。
それを否定するつもりはありません。
しかし、日本も、とんでもない弱みを握られていたんですね。

今回の写真は、2013年、東京が二オリンピックを招致するときに作って配布した資料の16ページ目に書いてあるものです。
私がこの記述を紹介してもらったのは、オリンピックが開幕して2日後のことでした。

非常にショックでした。 知らないことは、やっぱり罪です。 私も罪人の一人です。ただただ申し訳ないし、情けなくも腹立たしいです。
「開催時期は、(IOC理事会がその他の日程に合意した場合を除き)7月後半から8月の中で選択するものとする。東京が予定する開催時期と、その根拠について述べてください」
の問いに対し、
「この時期の天候は晴れが多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である。(後略)」

と答えているという…

おそらく、招致に少しでも有利になるように、はったりをかましたわけでしょう。「できれば10月に」とでも書いたものならば、候補から外れることはわかりきっていたのでしょう。
知らなかった。
なんという大ウソ。 これは詐欺です。
アスリートのことなんか何にも考えていなかったのは、私たちだったのではないか

予想通り、多くのアスリートが、現在、憤っています。「なんでこんなに暑い時にやるんだ?」

「いやいや、アトランタも北京も暑かったじゃないか」「鍛えればなんてことない」「こんな時でも工事現場で外で働く人たち云々、甘えるな」と反論する人もいますが
やはりスポーツをするのに(特にこういうレベルのスポーツ)適しているとは到底思えません。狂気じみています。
理想的な気候だ、なんて思う人、いますか?あのアトランタの暑さの悲劇を見てきていたから、てっきり今回の東京は、それを教訓に10月ごろにやるものだとばかり思っていました。

どう言い訳しようと、日本は、不誠実な嘘で、アスリートを裏切ったのです。このことは、閉幕後、きちんと責任を追及しなければなりません。
そして「無知の罪」を犯した私(だけではないと思いますが)も、責任を感じなければなりません。
日本人が一番嫌う、不誠実な嘘をついたのですから。

しかし、そうはいってもやはりこの開催時期に関して、金を持っているアメリカの放送局の言いなりになっていることは、世界中が知るべきだという考えに変わりはありませんし、
IOCの、やはりアスリートファーストになっていない考え方、放送局への犬ぶりも間違いのないことです。
もう二度と、日本はオリンピックを呼ぶべきではない。

コロナの心配の付きまとうこういう時期
こんな中でも、スタッフの皆さん、選手の皆さん、ボランティアの皆さんなどが最大の努力をして、感動の絶えないオリンピックを展開してくれていることには、全く頭が下がります。
前回書かせてもらった通り、できるだけ存分に応援させていただいております。素晴らしいアスリートのパフォーマンスを見ることができて、幸せです。

この期になってまだ会場外で「五輪をやめろ」のシュプレヒコールを上げている人たち
いろんな立場の方がいます。お気持ちお察しします。
それどころじゃない方、今いっぱいいらっしゃいますもんね。

でも、今、このパフォーマンスは、誰にとってもマイナスでしかない。
もしかして感染者が大爆発を起こしたら、ロックダウンでスケジュール変更もあるかもしれませんが
通じない方法では、やるべきではないです。もう遅い、と前回私は述べました。

楽観論と言われるかもしれませんが、今は医療スタッフの見解を信じ、せめて大会中は精一杯応援したいです。
その後、改めて考えなおしていきたいですね。そんな余裕もないほど感染症で追い詰められないことを、今はただ祈りながら。
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