songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

ここにも性教育後進国の影が!セクハラと(ごめんなさい)つわもの松田聖子さん

2018-04-22 20:58:06 | ライフ
ため息が出ます。

「時代おくれの男の認識」だそうです。

今回のテレビ朝日の女性記者と財務事務次官のセクハラ騒動
これが事実だとすれば、確かに、なんとも時代遅れのひどい男です。

まあそこはみんな認めるでしょう。それはいい。

どうにも気になるのは、
「女はずっと昔から我慢してきた。スケベ話もじょうずに使えば話も弾んでいた、なんていう人もいるけど、勘違いも甚だしい。
男は笑っていたかもしれないけど、女は笑いながらも、ずっとずっと嫌だったんですよ。男社会だったからわからなかったんでしょうかね?」

と、平気でのたまう女性コメンテーターたち。
そして「そうだそうだ」とうなずくご一同様。


それは嘘です。

母たちの世代を見てきましたから。

母や、叔母たちの会話を、幼いころからずっと聞き続けてきました。
叔父たち、男のメンバーと楽しく会話する中には、必ずスケベな話(猥談)が出てきました。
そしてみんなで笑い転げていました。
近所のメンバーなどで慰安旅行などがあれば、旅館で他の方の奥さんのおしりを触るなど日常茶飯事で、
パシンと叩かれながらふざけ合っていました。でも、やりすぎる人はみんなからひどく嫌われていました。
もちろん浮気はなかったし、また、そういうことが苦手そうな方には、決して失礼なことはしていませんでした。


ちなみに私は、そういうことは下手なほうで、笑いを誘うような猥談はできなかったなあ、と思います。
でも、そういう話で笑い合っている「場」は、実に楽しかったのです。
母も、叔母たちも、近所のおばさんたちも、まったく嫌がっている様子などありませんでした。
いやな性的振る舞いや言葉を発する人には、しっかりと態度で「NO」を突き付けていました。

でも、母は言っていました。
「Aちゃんの世代からはダメだね。」


Aちゃんというのは、一番年下のおばです。現在還暦を少し超えたぐらいの世代のことです。
確かに、A叔母さんは、そういう会話が苦手でした。現在、よく見かける女性の典型です。
母たちの世代から見れば、彼女たちは男との会話も腹を割ってできないし、ギスギスしているというのです。

でも、母の世代から上の人数も、今では少数ですし、もちろん母の世代全ての女性が、男性の公然とした猥談やボディータッチを肯定していたわけではありません。

さて、男性。
ここまでにも述べてきたとおり、男も、猥談やタッチが許される人、許されない人がいて、上手な人はそういう要素をじょうずに使って、会話を弾ませることができたのです。
上手な人は、そういうのを嫌がっている女性には、決してそういう話題を振りません。もちろん行為も控えます。


下手で、品位もない人がそれをやろうとするから、嫌がらせになる。



…しかし、テレビのコメンテーターは、「女性はすべて嫌だった」という。



じゃあ、聖子さんも、そうだったんでしょうかね?

松田聖子さん。私はかつて、彼女のことをたくさん書いてきました。
代表するラジオ番組「夢であえたら」。当時の音源があまり出回っていないのが残念なのですが…
もうこの番組は、今やっていれば、大炎上番組でしょう。ロボスケによる、セクハラ発言「だけ」でできているような会話。

第一声が、「聖子ちゃん、今日のパンツの色は?」で
本当に色を答えてしまう聖子さん。

「聖子ちゃんのおっぱいは、桜色」「聖子ちゃんの特技、ブラのホック外し」

枚挙にいとまがありません。

しかし、それらに対応する聖子さんの答え方、笑い方、かわし方、罵倒の仕方

神業としか言いようがない鮮やかさでした。
でも当時としては普通の対応のように聴こえていたので、当時の女性キャラの皆さんは、多かれ少なかれ、
この手の会話の、上手な対応、笑いに変える技を持っていたと思うのです。
もちろん、ひどい目に合っていたという、元女子アナの話も聞きますけどね。


なんにせよ、聖子さんは上手だったし、いやらしさは感じなかったし、ご本人がそれほど嫌がっているようにも感じられませんでした。



昔の人は、性との付き合い方を、それなりの知恵で身に付けていたと、私は考えています。
私の大学の寮では、在学当時、まだ「春歌」が歌われていました。
「わははは!」と笑い飛ばし、「私たちはどんなに気取っていても、みんなスケベなんだよ」と共有し合って発散し合い、
人とのつながり合いを楽しんでいたのです。

性教育って、どうしてそういう側面を全く無視しているのでしょうか?
だからまったく教育として機能していかない


あの当時に戻れとは言いませんし、それはそれで問題があります。
でも、「性にもたしなみがある」ぐらい、私たちの基礎教養として身に付けるべきだと思うのです。
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麻生香太郎さんが亡くなり、また一人語り部がいなくなりました~岡田有希子さん33回忌に寄せて~

2018-04-09 02:39:07 | 音楽
4月8日という日は、いろいろある日なのですね。
お釈迦様の誕生日だし、AKBにとっても記念すべき日

でも忘れてならないのは、私たちの世代にとっては、故、岡田有希子さんです。


タイトル、意味不明ですよね?すみません。


麻生香太郎さん、作詞家(SEYMOURのセカンドネームを持つ)、作家、評論家。
先月亡くなられましたね。
私は図らずも学生時代、松田聖子さんなどというアイドルにドハマってしまったため、
音楽とアイドルについて、いつも考えさせられたものでした。

自分はなぜ、「アイドルなんて音楽を壊すだけのものだ」と、ルックスに惑わされず、音楽だけを追求しようとしていたのに
アイドルに(ほぼ聖子さん)滅茶苦茶はまってしまったのか

そんなころに出会った本が、麻生さんの本
『ガキ主役産業の手帖 芸能界の「発想」から「経済ヒント」まで』(情報センター出版局、1986年)
でした。


私の中の、もやもやとしていた思いを、いろいろすっきりさせてくれる、バイブルのような本でした。
10年ほど前に私がこのブログで聖子さんについていろいろ述べてきましたが、
麻生さんのこの本の理論でわかったことを基に書いているところがいくつもあります。

この(1986年)直後ですよ。テレビで、いかにも時代を先取りしたかのような「ギョーカイ君」を扱った、業界物のドラマが一世を風靡したのは。
麻生さんのこの本が起爆剤になったに違いないと私は確信しております。
本の中で、「業界の中で生きる作詞家の不健康な生活」が自虐的に述べられています。
わずか65歳のご生涯。ずいぶん無理をされてきたのではないかと思います。遅ればせながらご冥福をお祈りいたします。

さて

この本の終わりのあたりに、岡田有希子さんのことがわずかに述べられているのです。1986年刊行ですから。

私のかすかな記憶ですが、麻生さんは次のように述べられています。

岡田さんが亡くなったことに対し、いろんな憶測が流れている。
しばらくは大騒ぎだろう。残酷だが、いずれ騒ぎは収まり、また業界では同じようにアイドルが量産されていくのだろう
そして我々はこれからも粛々と作詞をしていく…


業界仲間と一杯やりながら、麻生さんは仲間からこう言われたのです。
「なあ。俺たちのせいだとは思わないか?」
ちなみに麻生さんは一切岡田さんとは仕事をしていなかったので、
「そんなもん誰のせいともいえない」と言いかけ麻生さんを制し、友人は、
「じゃあ、なぜ岡田は死んだんだ?〇〇さんはなぜ死んだ?(ほかにもこの時期、デビューを控えて自殺された方がいたのです)」
…という一節。でも実はこれ、本当は「友人側」の言葉を言ったのが麻生さんだったと思われるのです。


業界の事情を多少とも知っていて携わる者が、この事件に何も教訓を得ようとしていないことに激しい怒りをぶつけていらっしゃいました。

芸能界は汚いところだ
誰もが知ったかのように(私を含めて)言います。
でもそれは必要悪であったり、デマも含まれていたり
そしてお互いに、やばそうなところは本当に「見ないまま」お互いに生活をしている

麻生さんは、大真面目で一本気だった岡田さんの死に、「このままではいけない」と強い警鐘を鳴らしたくて、
この本の発行を決心されたように、この歳になると思います。

その、ある意味歴史の生き証人が、また一人亡くなられたのです。


申し訳ありませんが私はそれ以後の麻生さんの著書は読んでおりません。
でもその後の雑誌記事などを見るに付け、おそらく一貫して、主張しようとしていることは似ているたでしょう。


一方私ですが

私も有希子さんに近い世代の者として、彼女の事件の一報を聞いた時、不思議にも、「ありうる」と思ってしまったものです。
当時から私も、彼女の馬鹿真面目さ、一本気なところは知らされていました。
松田聖子さんのラジオ番組「夢で逢えたら」の、いくつか後の番組を岡田さんが受け持っていたように覚えています。(「ちょっとおあずけ」だったのかな?やっぱり)
数回しか聞いていないのですが、そのうちの1,2回
放送事故としか思えないようなトークがあったのです。

すごく憂鬱に思い詰めているような暗いトーク。言葉も絞り出すようにちょっとずつ。
確か投書に対してのコメントだったのに

尋常とは思えませんでしたが、その回は放送されました。
もう1回ほど、それに近いトーンの時があって、テレビで見るニコニコした彼女からは考えられないような瞬間を時々感じていました。


訃報は、そのだいぶ後のことだったのですが、「そういう人だったのかもしれない、ご両親が芸能界行きを反対していたのも、何かを感じていたからかもしれない」
と、私などは勘ぐってしまうのです。

もう、あんな悲しい出来事は、ごめんです。
そうでないと、有希子さんも浮かばれません。
あれから30年以上たちました。芸能界も少しは改善されたのでしょうか?
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