久しぶりの投稿です。日常生活は、あまりにも忙しくなってしまいました…。
ところで。
全くどういうわけか、28年も昔の「異邦人」に改めてハマってしまいました。
久保田早紀さん(現、久米小百合さん)のデビューヒットであり、ミリオンセラー。ヒットした当時、私は中学生でした。
当時もよい曲だと思ってはいましたが、それほど特別な感情を持ってはいませんでした。
ポルノグラフィティの、「サウダージ」がヒットした時、間奏のイメージがあまりにも「異邦人」を思わせるものだったので、走馬灯のようによみがえってきました。その頃から、時々思い出しては再評価をしていました。
今年(07年)1月ごろからの、「パワー フォー リヴィング」CM出演には、さすがにびっくりしました。(ちなみにパワー フォー リヴィングは、他の国でも時々、あのように、約1ヶ月を借り切って、CMジャック的な広報活動をしているそうです。)が、まあ、あの団体はそれなりに無謀な活動はしていないらしいそうなのでやや安心はしたのですが…。
で、今年、改めて「異邦人」を聴きなおすにつれ、この曲の偉大さを改めて思い知っている今日この頃です。
デビュー曲にして、「これ以上のものは作れないのではないか」と思わせるほどの完成度、最高傑作だったのですね。歌詞、旋律のよさはもちろんですが、やはり圧巻は、萩田光雄さんのアレンジ。一度聴いたら絶対に忘れることのできないあの前奏。見事なオーケストレーション、管も弦も知り尽くした音色の効果、視覚に訴えてくる音楽像。聴けば聴くほどすごいです。
そして、この曲の果たしたもうひとつの大きな役割が、この数年前から続いていた「世界紀行的ヒット曲シリーズ」に止めを刺したことだと思います。
「カナダからの手紙」に始まり、「サンタモニカの風」「アメリカンフィーリング」「飛んでイスタンブール」など、昭和51年ごろから、歌詞の主人公が海外へ行ったり、海外からの恋人を思ったりする歌がよく歌われるようになりました。今から思えば、この頃あたりから、日本人にとっての海外旅行は、ちょっと金銭的にがんばれば手の届くものになりつつあったのですね。だから、海外を歌った曲に、親近感や決して絵空事ではない憧れが感じられたのかもしれません。
そして、なにゆえ「異邦人」が「世界紀行的ヒット曲シリーズ」に止めを刺したといえるのか。
ひとつは、前述どおりの、圧倒的な音楽的な完成度の高さ。海外をテーマに、これ以上の曲がそうやすやすと作られるとは思えません。
そして、詞の内容です。
西アジアからヨーロッパを思わせる国に一人きりで来ている主人公。その景色や人々の生業の美しさに心を引かれる。また、現地の人たちも、見慣れぬ風貌の主人公を気に留めたり、振り向いたり。時には親切にもしてもらっているのであろう。
しかし、ふと気がつけば、それは自分がいわゆる「異邦人」だからであり、ひととき珍しがられているだけである。自分に関係なく、この国での日常は淡々と繰り返されており、やはり自分は、この国に住むべき人間ではないのだ。
さらに自分を顧みると、まさにそれは、彼と自分との関係、そのものだったのではないか。…そう、この旅は、主人公にとっての傷心旅行であったのだ…。
そんな世界が歌われていると私は解釈しております。
これは、それまで歌われていた、単純な(失礼)海外への憧れや、ガイドブック的な歌詞を持った歌とは、明らかに一線を画しております。
「どれだけ海外の美しさやエキゾチックさに触れたとしても、それは一過性のものでしかない。ここにいる限り、私は単なるもの珍しい異邦人でしかないのだ。」
という、鋭い自己凝視が行われています。これだけのことが語られてしまうと、そうそう気楽に「海外よいとこ、一度はおいで」的な歌は作れません。
ちょうど、時代も、海外旅行が日常化し始めた時期でもありました。
「異邦人」を聴きなおすにつれ、この時代に奇跡的に生まれた記念碑的傑作であると再認識してしまうのです。
ところで。
全くどういうわけか、28年も昔の「異邦人」に改めてハマってしまいました。
久保田早紀さん(現、久米小百合さん)のデビューヒットであり、ミリオンセラー。ヒットした当時、私は中学生でした。
当時もよい曲だと思ってはいましたが、それほど特別な感情を持ってはいませんでした。
ポルノグラフィティの、「サウダージ」がヒットした時、間奏のイメージがあまりにも「異邦人」を思わせるものだったので、走馬灯のようによみがえってきました。その頃から、時々思い出しては再評価をしていました。
今年(07年)1月ごろからの、「パワー フォー リヴィング」CM出演には、さすがにびっくりしました。(ちなみにパワー フォー リヴィングは、他の国でも時々、あのように、約1ヶ月を借り切って、CMジャック的な広報活動をしているそうです。)が、まあ、あの団体はそれなりに無謀な活動はしていないらしいそうなのでやや安心はしたのですが…。
で、今年、改めて「異邦人」を聴きなおすにつれ、この曲の偉大さを改めて思い知っている今日この頃です。
デビュー曲にして、「これ以上のものは作れないのではないか」と思わせるほどの完成度、最高傑作だったのですね。歌詞、旋律のよさはもちろんですが、やはり圧巻は、萩田光雄さんのアレンジ。一度聴いたら絶対に忘れることのできないあの前奏。見事なオーケストレーション、管も弦も知り尽くした音色の効果、視覚に訴えてくる音楽像。聴けば聴くほどすごいです。
そして、この曲の果たしたもうひとつの大きな役割が、この数年前から続いていた「世界紀行的ヒット曲シリーズ」に止めを刺したことだと思います。
「カナダからの手紙」に始まり、「サンタモニカの風」「アメリカンフィーリング」「飛んでイスタンブール」など、昭和51年ごろから、歌詞の主人公が海外へ行ったり、海外からの恋人を思ったりする歌がよく歌われるようになりました。今から思えば、この頃あたりから、日本人にとっての海外旅行は、ちょっと金銭的にがんばれば手の届くものになりつつあったのですね。だから、海外を歌った曲に、親近感や決して絵空事ではない憧れが感じられたのかもしれません。
そして、なにゆえ「異邦人」が「世界紀行的ヒット曲シリーズ」に止めを刺したといえるのか。
ひとつは、前述どおりの、圧倒的な音楽的な完成度の高さ。海外をテーマに、これ以上の曲がそうやすやすと作られるとは思えません。
そして、詞の内容です。
西アジアからヨーロッパを思わせる国に一人きりで来ている主人公。その景色や人々の生業の美しさに心を引かれる。また、現地の人たちも、見慣れぬ風貌の主人公を気に留めたり、振り向いたり。時には親切にもしてもらっているのであろう。
しかし、ふと気がつけば、それは自分がいわゆる「異邦人」だからであり、ひととき珍しがられているだけである。自分に関係なく、この国での日常は淡々と繰り返されており、やはり自分は、この国に住むべき人間ではないのだ。
さらに自分を顧みると、まさにそれは、彼と自分との関係、そのものだったのではないか。…そう、この旅は、主人公にとっての傷心旅行であったのだ…。
そんな世界が歌われていると私は解釈しております。
これは、それまで歌われていた、単純な(失礼)海外への憧れや、ガイドブック的な歌詞を持った歌とは、明らかに一線を画しております。
「どれだけ海外の美しさやエキゾチックさに触れたとしても、それは一過性のものでしかない。ここにいる限り、私は単なるもの珍しい異邦人でしかないのだ。」
という、鋭い自己凝視が行われています。これだけのことが語られてしまうと、そうそう気楽に「海外よいとこ、一度はおいで」的な歌は作れません。
ちょうど、時代も、海外旅行が日常化し始めた時期でもありました。
「異邦人」を聴きなおすにつれ、この時代に奇跡的に生まれた記念碑的傑作であると再認識してしまうのです。