songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

生きたり死んだりする歌

2011-05-08 01:34:24 | 音楽
最近心の中でよくループする歌。

トワ・エ・モアの「誰もいない海」。

幼いころから、不思議な歌だと思っていました。
やさしいタッチのフォークソング。(もとはジェリー藤尾さんのシャンソンだったらしいですが)美しいメロディー。
歌詞も情景が見えるようで、美しく進む。

ところが、最後の一行で、ドカンと重くのしかかるのです。「つらくても つらくても 死にはしないと」「淋しくても 淋しくても 死にはしないと」「ひとりでも ひとりでも 死にはしないと」

この曲のことを調べてみたのですが、特にこれと言った、歌詞に関するエピソードは見つけられませんでした。未だもって不思議な重量バランスを持つ歌詞です。


震災後、いろんな人たちの姿を、テレビを通してではありますが、見てきました。
すると、一言で被災者とくくれない、いろんな立場の方がいらっしゃることが、あたりまえではありますが、はっきりと見えてきました。
まだ4月初旬だったと思いますが、集団で避難しているところに、誰かは忘れましたが、何か力を与えてくれるようなプレゼント訪問があったのです。そこをインタビューしているところを見ました。

60代ぐらいのおじいさんが答えていました。
「こういうのを見てね…。本当は、もう生きていくのいつ辞めようかと思ってたの。家族もいなくなって、俺だけ生き残って。何にもなくなって。生きていちゃいけないみたいなね。でもね、まだ生きていかなくちゃいけないのかな、なんてね。」

同じように集団で避難生活している人の中にも、表面では笑っていても、中には、いつ自分の命を終わりにさせようか、ひっそりと思い続けている人もいるのだろうな、と、改めて感じて、胸が苦しくなりました。与えられた命を精いっぱい生きなさい、なんて、軽々しく言えたものではありません。自分の命と信じたもの。自分の命と引き換えても残しておきたいものをすべて失った人、絶対に、たくさんいるはずです。

そんなとき、冒頭の「誰もいない海」が、ストーンと。まるで長い間埋まらなかったテトリスの長い棒がフィットして一気に溶けたような感じで、心におさまってきたのです。

そうか、これなのか。

1960年代から70年代、生きる、死ぬ、は、歌の歌詞として、かなり頻繁に登場していました。
同じ「誰もいない海」という言葉で始まる「17歳」なんて、あんなに能天気な歌詞なのに、締めくくりは、「私は今 生きている」
君が望むなら命をあげてもいい。骨まで愛して。朝日の中うつろな蝶は死ぬ。あなたに命懸け。
もう枚挙にいとまがありません。

これが80年代になると、重い、くさい、必死すぎーーー!と思われたからか、一気に歌詞から消えていきます。そこから20年以上の歳月が流れました。

そろそろ、命に真剣に向き合う曲が来ても、笑われない時代になってきたのではないでしょうか。
坂本九さんの「心の瞳」、マナカナの「いのちのうた」、同じ作者竹内まりやさんの「人生の扉」など、昔と比べると少しおしゃれな装いをしながらも、命と向き合ういい歌は、結構あると思うのです。恋愛の歌に命をかけたっていいじゃないですか。天城越えヒットの陰に、そういう面もあったと思います。

「生死に向き合うことが少なくなって、今の子供たちは、命に対する意識が希薄になった」と言われてずいぶん久しいです。
それは、確かにそのとおりった、と、今回の震災、そして、40年前の巷の歌たちが証明してくれているように思います。

自分が立ち上げた、懐かしい質疑をあげておきます。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/207446.html
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テレビCMよ、何をやっている!?今こそお礼を!

2011-05-05 09:00:53 | マスコミ関係
 前回の補足になります。

 日本が戦争までと、戦後で最も変わったことと言えば、海外への協力体制なのかもしれません。

 もちろん戦争までの時代も、日本は海外に積極的に出かけ、多くの活動をしていたようですが、多くは、大東亜帝国論にのっとった、勢力拡大の匂いとともにやっていたものです。
感謝を受けたこともあったかもしれませんが、迷惑をかけたことも多々あったようです。もちろんいろんな理由はあると思いますが、まあ、全体的には、あまり国際的には徳を積んだ結果とはならなかったようです。

 戦後の日本は、結局そこが一番違ったのかなあ、と、今感じます。

 今朝のニュースでは、何とロシアの、劇場占拠テロ事件での協力から、感謝のしるしに本国のオーケストラがやってきたとまで聞きました。

 日本がやってきたことはあながち間違いではなかった、と、行政レベル、政治レベルでも評価してもらっているのです。本当にありがたい話です。

 しかし、手放しでありがたがっていてはいけません。ここからです。

 テレビを見ておりますと、どこもかしこも「頑張れニッポン」です。で、「きっと立ち直る」「日本が一つのチーム」「日本の力を、今こそ」

 それはそれでよいのですが、今、肝心なことを忘れそうで、ちょっと心配しています。

 「ありがとう、世界の皆さん」を、今こそ、もっと大々的にアピールすることです。ちょっと時期を逃していると言えるほど遅いような気さえします。
 「海外旅行へ行く人は、そちらの国の言葉で、日本人です、ありがとうございます、とロゴを打ったTシャツを着て歩こう。」とまで言った人もいます。
 さすがにそこまでは勇気がいりますが、日本が世界の国々に感謝の意を伝えることは大切です。それも、総理から外交官を通じての声明文、と言ったおかみの通達レベルで止めず、多くの人たちの目に留まりやすい形での感謝の表示が必要です。

 国内ならば、CMがその役割を果たすべきでしょう。
 「日本は強い国だから、きっと乗り越えられる」だけでは、どう見たって礼儀不足です。あれほどまでに愛国心アレルギーで君が代、日の丸をあれだけ批判していた国の人の言葉とは思えません。日本の誇りは、まあそれでよろしいが、本当に誇るべきは、礼節を重んじる国、というところではないのですか?

 特にテレビcm。早々に考えていただきたい。私たちの国は、海外の国々に頼りつつ、私たちのできることで力を貸しつつ、そのつながりのバランスの中でしか生き延びることができない国なのです。でも、その中で、信頼という、最も高い徳を積んでいくことが、生きる哲学につながっていくのだと思います。
 話はそれますが、以前沖縄に旅行して琉球の歴史を学んだとき、「ああ、琉球の政策と考え方こそ、今の日本の生き延びる道なのだ」と妙に納得したことを覚えています。現代の日本は、琉球、沖縄の政治学に学んでいるのですね。
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まさかみんながみんなあれほど単純とは思っていませんが…危険なビンラディン容疑者死去のニュース

2011-05-03 23:31:20 | Weblog
3月6日にジゼル文珍氏のブログへコメントし、私のブログにもお返事いただいてから、まだ2カ月もたっていないのですが、わずかこの2カ月の間に、世の中あまりにも大きく動きすぎてしまいました。

この、震災前の3月初旬、私はテレビ場番組を見ながら、フィフィさんのコメントを通して、いかに私たち日本人が、アラブ、イスラム圏の事情について無知であるかを思い知らされたのでした。以前、やたらに内戦の絶えない中東の事情を調べようとしたことがありましたが、それはそれはあまりにも複雑すぎ、長すぎる恨みの絡み合いの歴史に、早々に調べるのを投げ出した記憶があります。

私も物心ついたころからニュースでは中東情勢の内戦が絶えず、やれクーデターだ、テロだ、聖地だ、聖戦だと血なまぐさい話ばかり。
そうこうするうちに「イスラム」「原理主義」という言葉も同時に報道されてきました。

ですから、私に限らず多くの日本人は、イスラム教について、妙な偏見を持った時期が、誰にも一時期あったのではないでしょうか?

今でもわからないことだらけの宗教ですが、大変まじめで、節制を促し、実用的な人生の知恵に基づく宗教であるように思います。
日本人のような享楽的で、多神教の民族には、必要かもしれないが敬遠したくなる宗教であるように感じます。

で、ビンラディンで、アルカイダで、イスラム原理主義のテロ組織、で、イスラム、です。

ビンラディン容疑者は亡くなりましたが、私たちにとっては、死んでしまったことによって、もっと分からなくなってしまった、というのが、日本人の本音ではないでしょうか?
結局あの9,11は何だったのか。
一説では、もともとビンラディン容疑者は、アメリカとの何らかのつながりをかつては持っていたとか、下手にたたくとアメリカに不利な情報も出てきてしまうような人だとか、今はテロ組織のリーダーとしての力はあまり持っていないだとか…

これから知らなければいけないことがたくさんある中で死んでしまいました。

しかしアメリカの映像を見ると、ずいぶん手放しで喜んでいるアメリカの市民の映像がたくさん流れています。
恣意的だと思ってしまいますよね。そう思うの、私だけではないはずですよね。

これでまた一つ、下手すれば、イスラム教への妙なステレオタイプができ(一応オバマ大統領は、宗教に対しての攻撃的側面は一切ないと強調して言ってはいるのですが)、
誤解を生み、イスラム圏内の方々の不安をあおり、不信感を増加させ、やっぱり、テロ組織の不毛な報復が始まってしまうような、嫌な予感しか感じられません。
アメリカの一方的な報道の仕方は、とても世界を意識したものとは思えませんでした。私は、危険を感じます。

そして、アメリカはパキスタンの隠ぺい体質にも触れ、「政府の見解を問いただしたい」と、次のステップをにおわせています。
言いたいことは分かる。
しかしアメリカよ。あなたたちこそ、何を隠そうとして、ビンラディン容疑者の死亡を誇らしげに語り、闇に葬ろうとしているのか。
公にできない、アメリカの威信を地に落とすような、ヤバい裏事情に関し、「死人に口なし」状態にしてしまったのではないか?

そして、それを知っていて不当な暮らしにあえいでいる地域の人々がきっといるはず。
そこを明らかにして、少しでも分かりあおうとする姿勢を出さない限り、アメリカは、意味もなく敵を増やしていくだけなのではないか?イスラエルの歴史がそれを語っているではないですか。

もちろん私たち日本人こそが、その辺、「バカ」でいてはいけない、重要なところです。マスコミ報道に対して、慎重な判断力、分析力を持たねばならない、日本人の情報リテラシーが問われているのです。
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未曾有だけど、未曾有ではない。歌を聴きながら。

2011-05-03 01:03:14 | 音楽
それ以前から、何となく感じていましたが、あの番組で黒柳徹子さんが「星の流れに」を歌っていたところを見て、思わずグッとくるものがありました。

黒柳さんは、言わずと知れた、戦争をもろに体験している世代の方です。
あの世代の方々、あの戦争を体験された世代の方々にとっては、戦時中は「国策」による軍歌や国威高揚を掲げるもの、悼む歌でも兵隊さんを悼むようなものしか歌うことも、流すことも許されませんでした。

そして、やっとのことで戦争が終わって。
GHQは、一応自由を掲げる国へと、指導を開始したのに。

戦後、「頑張ろう日本」と、表立って元気づけようとするような曲は、全く現れませんでした。
「りんごはなんにも言わないけれど りんごの気持ちはよくわかる」で国民みんなが涙したのです。
「とんがりぼうし」だって、それらしく励ますような曲調や歌詞は垣間見られますが、非常に間接的に、ひっそりとメッセージを送っているにすぎません。

歌手の人が、「頑張れソング」を作り、「僕には歌しかないから」と、売上をチャリティーに回すようなことなど、全くありませんでした。
「青い山脈」など、戦後4年もたってからです。
今回冒頭で話題に出した、「星の流れに」は戦後2年たってから。ヒットはさらに遅く、昭和24年ごろと聞いております。
歌詞のモデルとなった人は、もともと戦時中は従軍看護婦でお国のために誇りを持って兵士たちを手当てしてきた女性。やっとの思いで戦後東京へ帰ってきてみたものの、焼け野原で住むところもなく、お金もなく、人目を忍んで夜の女になることでしか、生き延びるすべがなかったという実話から生まれた歌。著作権の関係で歌詞が載せられないのが残念ですが、無駄な言葉が少しもなく、一部の歌詞だけでこの曲を語るには、あまりにもおこがましい、名曲です。それでもどうしても、ということで引用され、時代の言葉ともなったのが、「こんな女に 誰がした」です。

われわれ日本人にとって、歌は、気持ちよく、元気にしてくれるものというよりも、「こもりうた」に代表されるような、どこにもぶつけようのない、苦しさ、恨めしさ、やるせない気持ちの爆発させどころもない不発弾の塊が、ある隙間から絞り出されるように出てくる「うらみぶし」が多かったのです。

こう言っては傲慢でしょうが、音楽ごときで何とかなるほどのダメージではなかった、というのが当時の状況のように思われます。
歌う人たち本人にも、作る側にも、元気づけられるだけの余力はなく、物資も交通も絶望的。楽天的だった長谷川町子さんでさえ、「原始人と同じです。のんびりやり始めました」というぐらいの崩壊ぶりだったのでしょう。

当時の歌の中身を思うと、今とは比べ物にならないほどの厳しい状況の中にみんながいたということを思い知らされるのです。

今の私たちには、手を差し伸べられる余力のある人が、私も含め、いっぱいいます。被災された方々、まことに大変かと思いますが、「夜の女になるしか生きる道がない」という状況には、とりあえず今は、なっていないと思われます。

そして、あの時代と一番違うこと、

世界中の方々が、手を差し伸べてくださっているのです。

戦後日本が、あれほどの困難からスタートしておきながら、自分の国の得だけを考えず、余力ができれば積極的に海外にも協力して、力を貸し続けてきたこと。「もっと国内のことだけに金を使えばいい」と言われ続けていた歴代政府でしたが、ここにきて、日本が戦後してきたことの正しさ、積んできた「徳」が証明されているようにも思えます。

だからこそ、これから海外と接する私たちは、今まで以上に海外の方々に感謝の気持ちを表していかなければならないと思います。最終的には、いかに「徳」「信頼」を積み上げ続けていくか、なのですね。

受けたダメージが未曾有でありながら、国民の損失ダメージが未曾有レベルになる前で食い止めている今回の被災。
何度も言いますが、被災された皆様へのお見舞い、深く深く申し上げます。復興への長い年月が考えられます。
でも、知っておかなければならない。私たちの国民ダメージレベルは、未曾有レベルにはならずに食い止められそうなのです。
それはなぜなのか、私たちは、今こそ学び、将来へ語り継いでいかなければならないのではないでしょうか?
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