songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

ベストテン番組を離れたとき

2007-04-28 21:38:10 | 音楽
好きな歌手が出ることや、好きな歌が聴けること、応援している人が上位に入ってくるうれしさなどがわかって、私はベストテン番組を楽しむようになってきました。

しかし、それだけが楽しみなのではありませんでした。
「ザ、ベストテン」では、司会の久米さんや黒柳さんによる、歌手の知られざる一面を紹介してくれるところ、そして何よりも、「テレビ局やスポンサーなどの都合」に関係なく公正にランクインさせたり、今までは「テレビにあまりでない人」に出演していただくべく交渉したり、実現したり、の生々しさ。

「テレビで、生で歌っていただく」ための東奔西走振りも、時々見せるわけのわからない演出も、全て効果的で、楽しかったのです。
また、一般の観客がいないという設定もよかったと思います。「歌謡ショー」なのではなく、「歌を味わってもらう」ことが前面に出されていました。

あらゆる斬新で、主張のはっきりしたアイデアが詰め込まれた「ザ、ベストテン」でしたが、久米さんの降板を機に、私は見る意欲が一気に失せていったことを覚えています。

あれだけ甲高くて飄々とした語り口の久米さんだったのですが、実は言うべきことは語り、時々出る黒柳さんの暴走を押さえ、妙に説得力のある話しぶりは、一流だったのだと思えるのです。ほとんどの司会者に見られる、いやみもおべっかも、若ぶったそぶりも見せない。やはり彼を越える司会者は現れませんでした。

余談ですが、今まで見た歌番組の司会者で、「久米さんの変わりになれそうなレベルの人」は、私の印象では、若い頃の玉置宏さんか、「歌の大辞テン」で活躍された徳光和夫さんぐらいです。

でも、司会者が変わっただけでなく、私がベストテン番組を離れた理由は、
・明らかな組織票によって、アイドルが曲の出来に関係なくランクインするようになったこと(ランキング操作としか思えませんでした)
・特に、おニャン子が出てから、それに拍車がかかり、テレビ局同士の確執も、視聴者に明らかにわかるようになってしまったこと

が大きかったです。情報操作によって、聴きたくもない歌ばかり聴かされるベストテンなど、見る気がなくなってしまいました。

一方の不二家歌謡ベストテン。以前にも触れましたが、私はこの番組の司会ロイ・ジェームズさんの語り口が本当に好きでした。
いぶし銀で、渋くて、声に力があって。
最先端のベストテンを流しているにもかかわらず、平気で批判を入れたり、逆に世代を超えて、評価すべくは評価したり。勉強になることもたくさんありました。

これ、おそらく、あのロイさんの声で言われていたから、素直に受け入れていたのではないかと、今になると思います。

ロイさんが病休され、そのまま亡くなってしまったのですが、その代打や、後を継いだアナウンサーの方々。大変失礼ながら、どれも失望させられるものばかりでした。不思議なものですね。誰がパーソナリティーで、ということだけで、ここまで聴く意欲が変わってしまうのですから。

ともあれ、昨今のベストテン番組は、「その手の」凄腕ナビゲーターがいないので、つまらないですね。「CDTV」や、「DHC歌謡ベストテン」などは、毒舌を許してもらった江守徹さんぐらいの方が司会をしたほうが、絶対に面白い。もちろん、絶対におべっかはなし、というスタイルでね。
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ベストテン番組への思い

2007-04-27 09:19:17 | 音楽
自分の中の印象にある、最初のベストテン番組は、日本テレビ系の「紅白歌のベストテン」という番組でした。

うろ覚えではありますが、「ベストテン」とは名ばかりで、全国の各地放送局の歌謡ベストテンがスタジオの後ろに掲示してあるのです。その中での注目曲が数曲歌われるだけで、あとは、ただの歌謡ショーだったように覚えています。

それほど好きな番組ではありませんでした。

ですから、TBSで「ザ、ベストテン」が始まったときも、それほど注目もしていなかったし、当初はそのような番組があることさえ知りませんでした。それが、あれほどの、歴史に名を残す番組になったとはなぜだったのか。もちろん一時期、私も楽しみに見ていました。

以前にも書きましたが、「ザ、ベストテン」を楽しみに見るようになって数年後(具体的には80年でした)、ラジオにもベストテン番組が、しかも相当たくさんあることを知りました。いくつか聴きかけましたが、結局自分が聞くようになったのは、ニッポン放送「不二家歌謡ベストテン」でした。

この二つの番組に、私が無意識のうちに共通して求めていたのは、客観性、権威、重みだったのではないかと思います。

「ザ、ベストテン」の場合、番組のいろんな企画の勝利もあったとは思いますが、
番組前期には公正で、多くの世代が視野に入っていると思われたランキング決定に、重みが感じられたのです。当時私も中学生でしたので、おじさん受けすると思われる曲がランクインしていたところで、別に「聴きたくない」とも思わなかったし、そこでチャンネルを変えようとも考えませんでした。

そうこうするうちに、幅広い音楽を楽しむようになっていったのだと思います。

若い世代がターゲットと思われるベストテン番組では、その手の曲はあまりランクインされません。聴取者は好きな曲ばかりが聴けるうれしさがある反面、自分に馴染みのないジャンルの音楽に触れる機会を失ってしまいます。当時の私には、そういうものが、どうにも自己満足、わがまま、思い上がりのように思われて、あまり価値のあるものとは感じられなかったのです。

不二家歌謡ベストテンも、そういう意味で、公正と思われるランキングが好きでした。当時は、「ジュークボックスでの演奏回数も要素に入っています」などという言葉がまだ残っていて、さすがの私も、「ジュークボックスって何?」と尋ねたくなってしまいたくなるところもありましたが、その辺はご愛嬌で。

ただ、どちらの番組も、あるときを機会に、聴く意欲がなくなってきたのです。

それは、パーソナリティーの交替でした。
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松田聖子さん12~その歌声の特異性~

2007-04-18 00:00:02 | 音楽
さて、前回述べた83年の、私の考える3度目の絶頂期。聖子さんはその後もヒット曲を出し続け、その後現在にも続く活躍ぶりは、わざわざ私が書くまでもないことです。

「蛍の草原」も、すばらしい曲ですし、「あなたに会いたくて」を始めとした、本人による作曲の曲が増えてきたことは喜ばしいことです。

でも、私の中に、「4度目以降の絶頂期」は確認できませんでした。といって、別に否定しているわけではありません。ただ、やはり、第1期の絶頂期以降永遠に失われてしまった聖子さんのパワフルでみずみずしい、あの声が今でも恋しい。

教えて!gooでも記しましたが、聖子さんの声は、私の知る範囲では、唯一無二の魅力を持ったものでした。同時期のデビューで考えれば、声のみずみずしさだけならば、河合奈保子さんのほうが上だし、(こういっては何ですが)ルックスも彼女のほうがはるかにアイドルらしい。清純っぽい歌声、逆に影を持ったような雰囲気や色気で聖子さんを上回る人は何人でもいました。

ならば、なぜ聖子さんがトップでいられたか。私は、「かわいらしさの中にある娼婦性」であると考えています。

河合奈保子さんのようにさわやかさを極めているわけでもなければ、中森明菜さんのように憂いを匂わせているわけでもない。聖子さんの声には、明るさの中に、どこか湿度があるのです。

また、今まで述べてきたような歌い方(風は秋色の引き技、夏の扉の「あ」など)は、まさにコロンブスの卵。真似することは誰にでもできるが、そういう歌い方を(たとえ偶然や、勘によるものだったとしても)編み出したのは、彼女が最初なのです。

さて、聖子さんについては、他の方面でもいろんなことが語られています。多方面から総合的に考えて聖子さんを評価しようとする「訳知り顔な」評論家や、生き方に共感を覚える、などといった安直なファンの方もいますが、私は、聖子さんの音楽を、そんなつまらない「付加価値」によって語られるのはまっぴらですので、あくまでも音楽面に絞って語ってまいりました。

ですが、ひとつだけ、聖子さんの「歌以外での」功績で、あまり語られていないことがありますので、最後にひとつ。

84年に聖子さんは「Rock'n rouge」を発売し、この曲をイメージソングとして、カネボウの化粧品キャンペーンCMに、自らが出演しました。

今の時代の目で見ると、「だから、何?」と、何の違和感も持たれないかもしれませんが、当時の化粧品CMの事情に詳しい人ならば、画期的なことだったことがわかると思います。実は、洗顔剤などの周辺製品は別として、その頃までの化粧品、特に口紅のCMは、白人モデルを起用するのが常識とされていたからです。理由は安直で、「色映えがよいから」。

そこに聖子さんが、自分の歌を引っさげて乱入して来た。
現在当たり前のように出演している、化粧品CMの日本人女性タレントたち。彼女たちのために最初に道を作ってくれたのが聖子さんであったということは、意外に知られていないことなのです。(それまでにも夏目雅子さん等日本人モデルはいましたが、どちらかといえばモデルとしての出演であり、お茶の間でおなじみのアイドルが出演するということは、それまでなかったのです。)



いやあ、長かった。思いっきり。

次回、少し充電してから、改めて自らの履歴をふり返ります。
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松田聖子さん11~大村さんと、3度目の絶頂期~

2007-04-15 22:51:46 | 音楽
聖子さんは、今でも、独身アイドル時代の代表曲をテレビで歌ってくれ、と頼まれると、多くの場合、「sweet memories」を歌われます。これは、割と高い音を多用しない、ということもあるでしょうし、どんな年齢になっても、その年齢なりの味を出せる、ということもあるからでしょう。しかし、やはりご本人の中で、思い入れの強い曲であるというのが一番だと思います。

さらに、実は聖子さんにとって、一番難しい時期に一番よい曲を与えてくれた人こそ、大村雅朗さんであったということを、聖子さん自身が一番よくわかっていたからだと思うのです。故、大村さんへの感謝の心として、今も聖子さんは、「sweet memories」を歌っているように思います。

実は大村さんは、聖子さんの実質上の出世作となった「青い珊瑚礁」の編曲や、今も強烈なサウンドで魅了する「夏の扉」の編曲をしている人なのです。

しかし前回にも書いたとおり、この曲を出すに当たっては、スタッフがあまりよい顔をしなかったそうです。今となっては真相はわかりませんが、その理由は、

①英語を歌うと言うことで、当時洋楽に強い興味を示していた聖子さんが、このような曲を足がかりに海外へ進出しようとすることを懸念していた。
②当時は人気アーティストが聖子さんに送った曲をシングルにする、というシステムがひとつの「売り」になっており、力はあるが世間的には名の知れていない大村さんの曲を表に出そうと考えるスタッフはいなかった。

あくまでも推測ですけどね。

簡単に言うと、聖子さんのスタッフは、実質最高の音楽力を持った、本当の意味での最大の功労者である大村さんに対して、ほとんどそれ相応の対応をしていなかったということです。売れっ子ミュージシャンばかりを手厚くもてなして。

しかし、歌っている聖子さんだけには、本物と、本当の恩人が誰であるかが、わかっていた。

で、結果としてこの曲は細野さん作曲の「ガラスの林檎」B面にひっそりと入り、CMでも最初は「歌:松田聖子」の字幕はありませんでした。

歌が話題になり、聖子さんが歌っていると知れてさらに騒がれた頃、「ガラスの林檎」「sweet memories」は両A面扱いとして改めて売られ、テレビのベストテン番組では、秋に発売した「瞳はダイアモンド」とともに同時にランクインするという珍事まで巻き起こすほどのヒットとなりました。

もしかしたら、こういう「じらしヒット」は、当時のスタッフの作戦であったと考えることもできないではありませんが、ちょっと無理のある論です。

このあと、「ユートピア」というアルバムが発売されました。実は私は、このアルバムを最後に、聖子さんのアルバムを買うのをやめてしまいました。このアルバムの好きなファンは多数いますが、わたしの感覚では、「もういいよ、こういうの。」という感じだったのです。ただ、このアルバムの中に1曲、強く輝く曲がありました。「セイシェルの夕陽」という曲です。

これも後で知ったのですが、大村さん作曲の曲でした。しかしアルバムの中では、ひっそりと後半の半ばに収まっているに過ぎませんでした。相変わらずの売れっ子ミュージシャンによるごった煮のアルバム。大村さんの曲は、全く、その価値に似合うだけの扱いを受けていませんでした。

でも、聖子さん本人だけは違いました。聖子さんはこの曲も好んで歌い、今では聖子さんファンで、知らない人はいないといわれている名曲です。

ともあれこの83年後半、聖子さんは、単なるアイドルではない、本格的な歌唱力を持ったシンガーであるということを世間に知らしめ、私は新たな喜びを持って聖子さんの3度もの絶頂期を見ていました。

私の、当時18年の人生の中で、これほどまでに喜び、感動、驚きを与えてくれた歌手はいませんでした。こっぱずかしい「ファンレター」などというものを書こうと、若気の至りで突っ走ってしまったのは、この時期でした。
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松田聖子さん10~その名は大村雅朗~

2007-04-11 06:05:18 | 音楽
これはあくまでも私の個人的な受け止めですので客観性は欠くかも知れませんが、同じような感情になった人は多いと思います。

きっかけは、ペンギンでした。
サントリー缶ビールの、おしゃれなアニメCMでした。アニメーターは、ひこねのりお氏。昔風のバーで、ジャズの演奏に合わせて、女の子が歌っている。実に素敵な音楽。英語の歌詞。

このCMが流れるたび、テレビを見ていました。そこには全く先入観などなかったのです。

ところがこのCMが流れ出して2ヶ月近くたった頃でしょうか。急に右下にテロップが流れ始めたのです。「歌:松田聖子」

このときのカルチャーショックは計り知れないものでした。
あれだけ聖子さんの歌を聴き続けてきた自分が、なぜ気づけなかった?という自己批判。でもその数十倍、「彼女は本物のシンガーだった!」という再発見の喜びでありました。曲名は「sweet memories」、作曲者は、大村雅朗という、ちょっと聞かない名前でした。

後で聞いたことが二つあります。
ひとつは、あのCMが流れている間、「あの歌はなんていう歌?誰が歌っているの?」という問い合わせがサントリーに多数寄せられていたということ。みんな、気になっていたのですね。
松田聖子、という名前がなくても世に残ることができるだけの音楽であったことの、何よりの証明です。ただこの曲、「ガラスの林檎」のカップリング曲でしたので、始めから知っていた人はいたでしょうが。

もうひとつは、この一部英語の曲を出すに当たっては、スタッフから大きな反対を受けていたということ。

…このあたりについては、また次回。
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