もう10年以上も昔のことですが、自分の属するある学会の記事に、デモについて投稿したことがあります。
日本におけるデモの、なんとつまらないことか
少なくともデモとはデモンストレーションという意味なのだから、少しはやるほうも見るほうも楽しめるものでなくては。
日本では「○○はんたーーーい!」と一人が言うと、残りの人が「○○はんたーーーい!」、と、同じ言葉をシュプレヒコールしながら練り歩くという。
そんなもん、見たいとも思わないし、参加したいとも思わない。第一、それによって意見が通ったり、世の中に影響を及ぼした実績があまりにも薄い。70年安保から浅間山荘への流れで、集団で決起してデモを起こしても、世の中は動かないという心理に近いものを見続けてしまったわれわれ以降の世代が、このようなデモを肯定的にとらえられるはずがない。
アメリカは違う。
デモというからには、参加したくなるような魅力が、そのメッセージの中にもある。
鳴り物を持って、ミュージックぽく言葉を流し、踊り歩きながらメッセージを唱えていく。
日本もいい加減、何か工夫してはどうか。面白くなければ、人は寄ってこない。集団で世の中に一石を投じるならば、それなりの魅力を出すことだ。
むしろそこは「空席」の市場。ビジネスチャンスもあるだろうし、無責任、無関心で政治批判ばかりしている国民からの脱却のチャンスになるかもしれない。
…というようなことを書きました。残念ながらボツになってしまったのですが。
最近、やたらにマスコミが、「原発再稼働反対」でデモが起きていることを妙に好意的に報道しています。
少しテレビで見ました。確かにかつてのデモよりは工夫が見られました。過激さをなくして、参加しやすくしているようです。facebookなどの力が大きいこともわかりました。
でも、やっぱり足りない。
ありゃ、つまらん。
今に、つまらない商売がらみの団体がこのデモを利用することでしょう。つまらないところだけ、私の10年前の予言が当たってしまっています。ビジネスチャンスを考えている人がいる。
だって、構えがあまりに稚拙すぎるから。
マスコミも反吐が出るほどずるい。
ここから述べることは、普通の中学生でも、当たり前のように授業で話していることです。そのことに正面切って答えているマスコミが全くいないことに、私はどうしようもない怒りを持っています。
①あんなに怒りのこぶしを上げていた「CO2対策、地球温暖化現象に今こそ歯止めをかけるべきだ」報道やキャンペーンは、どこへ行ってしまった??
もともと、化石燃料依存からの脱却、排気による環境悪化、CO2による地球温暖化への懸念から、危険性は承知しつつも原発を増やしてきた日本。
再稼働を反対するということは、非常に現実的にお考えいただいて、火力に戻すということ。節電しようがなんだろうが、火力に戻すということ。
こんなに暑い今日この頃、「エアコンをつけなさい」と言われています。それでも節電して、自然エネルギーの発電に転換する数十年後までは、火力に頼るということ。
また、電気代が相当値上げするであろうことは確実ですが、それでも、現実的に見て数十年間はCO2を大量に放出する火力でよい、と言っているわけですね。
そのことに一切触れないというのは、あまりにも卑怯すぎる。現実的な代案が全くないのです。「代案を持たずにとりあえず叫んでいる」ということさえ報じないマスコミに、社会の木鐸を語る資格はありません。
②国民とは?市民とは?民意とは?
ここ数年、ずっと考えていることです。
「国民は怒っています」じゃあ国会議員は国民ではないのか?官僚、役所の職員は国民ではないのか?生活保護をやたらに手厚く受けて働きもせず楽な暮らしをしている人たちは国民ではないのか?
「民意」そんなものがあるならば、とっくに選挙における「浮動票」なんてのはなくなっている。だいたいポリシーを持たない、不勉強な浮動票に頼らなくてはならないような選挙を繰り返してきたから、政治が機能しなくなってきているのではないか?
もちろん、日本に「市民」(ヨーロッパ発祥の社会学上のことなです)などというものは存在しません。
そろそろ、お分かりいただけましたでしょうか?
あのデモを、最初に商売に利用したのは、マスコミ各社なのです。
日本におけるデモの、なんとつまらないことか
少なくともデモとはデモンストレーションという意味なのだから、少しはやるほうも見るほうも楽しめるものでなくては。
日本では「○○はんたーーーい!」と一人が言うと、残りの人が「○○はんたーーーい!」、と、同じ言葉をシュプレヒコールしながら練り歩くという。
そんなもん、見たいとも思わないし、参加したいとも思わない。第一、それによって意見が通ったり、世の中に影響を及ぼした実績があまりにも薄い。70年安保から浅間山荘への流れで、集団で決起してデモを起こしても、世の中は動かないという心理に近いものを見続けてしまったわれわれ以降の世代が、このようなデモを肯定的にとらえられるはずがない。
アメリカは違う。
デモというからには、参加したくなるような魅力が、そのメッセージの中にもある。
鳴り物を持って、ミュージックぽく言葉を流し、踊り歩きながらメッセージを唱えていく。
日本もいい加減、何か工夫してはどうか。面白くなければ、人は寄ってこない。集団で世の中に一石を投じるならば、それなりの魅力を出すことだ。
むしろそこは「空席」の市場。ビジネスチャンスもあるだろうし、無責任、無関心で政治批判ばかりしている国民からの脱却のチャンスになるかもしれない。
…というようなことを書きました。残念ながらボツになってしまったのですが。
最近、やたらにマスコミが、「原発再稼働反対」でデモが起きていることを妙に好意的に報道しています。
少しテレビで見ました。確かにかつてのデモよりは工夫が見られました。過激さをなくして、参加しやすくしているようです。facebookなどの力が大きいこともわかりました。
でも、やっぱり足りない。
ありゃ、つまらん。
今に、つまらない商売がらみの団体がこのデモを利用することでしょう。つまらないところだけ、私の10年前の予言が当たってしまっています。ビジネスチャンスを考えている人がいる。
だって、構えがあまりに稚拙すぎるから。
マスコミも反吐が出るほどずるい。
ここから述べることは、普通の中学生でも、当たり前のように授業で話していることです。そのことに正面切って答えているマスコミが全くいないことに、私はどうしようもない怒りを持っています。
①あんなに怒りのこぶしを上げていた「CO2対策、地球温暖化現象に今こそ歯止めをかけるべきだ」報道やキャンペーンは、どこへ行ってしまった??
もともと、化石燃料依存からの脱却、排気による環境悪化、CO2による地球温暖化への懸念から、危険性は承知しつつも原発を増やしてきた日本。
再稼働を反対するということは、非常に現実的にお考えいただいて、火力に戻すということ。節電しようがなんだろうが、火力に戻すということ。
こんなに暑い今日この頃、「エアコンをつけなさい」と言われています。それでも節電して、自然エネルギーの発電に転換する数十年後までは、火力に頼るということ。
また、電気代が相当値上げするであろうことは確実ですが、それでも、現実的に見て数十年間はCO2を大量に放出する火力でよい、と言っているわけですね。
そのことに一切触れないというのは、あまりにも卑怯すぎる。現実的な代案が全くないのです。「代案を持たずにとりあえず叫んでいる」ということさえ報じないマスコミに、社会の木鐸を語る資格はありません。
②国民とは?市民とは?民意とは?
ここ数年、ずっと考えていることです。
「国民は怒っています」じゃあ国会議員は国民ではないのか?官僚、役所の職員は国民ではないのか?生活保護をやたらに手厚く受けて働きもせず楽な暮らしをしている人たちは国民ではないのか?
「民意」そんなものがあるならば、とっくに選挙における「浮動票」なんてのはなくなっている。だいたいポリシーを持たない、不勉強な浮動票に頼らなくてはならないような選挙を繰り返してきたから、政治が機能しなくなってきているのではないか?
もちろん、日本に「市民」(ヨーロッパ発祥の社会学上のことなです)などというものは存在しません。
そろそろ、お分かりいただけましたでしょうか?
あのデモを、最初に商売に利用したのは、マスコミ各社なのです。