songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

デモは商売になる

2012-07-26 23:02:25 | Weblog
 もう10年以上も昔のことですが、自分の属するある学会の記事に、デモについて投稿したことがあります。
 日本におけるデモの、なんとつまらないことか
 少なくともデモとはデモンストレーションという意味なのだから、少しはやるほうも見るほうも楽しめるものでなくては。
 日本では「○○はんたーーーい!」と一人が言うと、残りの人が「○○はんたーーーい!」、と、同じ言葉をシュプレヒコールしながら練り歩くという。

そんなもん、見たいとも思わないし、参加したいとも思わない。第一、それによって意見が通ったり、世の中に影響を及ぼした実績があまりにも薄い。70年安保から浅間山荘への流れで、集団で決起してデモを起こしても、世の中は動かないという心理に近いものを見続けてしまったわれわれ以降の世代が、このようなデモを肯定的にとらえられるはずがない。

 アメリカは違う。
 デモというからには、参加したくなるような魅力が、そのメッセージの中にもある。
 鳴り物を持って、ミュージックぽく言葉を流し、踊り歩きながらメッセージを唱えていく。

 日本もいい加減、何か工夫してはどうか。面白くなければ、人は寄ってこない。集団で世の中に一石を投じるならば、それなりの魅力を出すことだ。
 むしろそこは「空席」の市場。ビジネスチャンスもあるだろうし、無責任、無関心で政治批判ばかりしている国民からの脱却のチャンスになるかもしれない。


…というようなことを書きました。残念ながらボツになってしまったのですが。


最近、やたらにマスコミが、「原発再稼働反対」でデモが起きていることを妙に好意的に報道しています。
少しテレビで見ました。確かにかつてのデモよりは工夫が見られました。過激さをなくして、参加しやすくしているようです。facebookなどの力が大きいこともわかりました。

でも、やっぱり足りない。
ありゃ、つまらん。

今に、つまらない商売がらみの団体がこのデモを利用することでしょう。つまらないところだけ、私の10年前の予言が当たってしまっています。ビジネスチャンスを考えている人がいる。


だって、構えがあまりに稚拙すぎるから。

マスコミも反吐が出るほどずるい。

ここから述べることは、普通の中学生でも、当たり前のように授業で話していることです。そのことに正面切って答えているマスコミが全くいないことに、私はどうしようもない怒りを持っています。

①あんなに怒りのこぶしを上げていた「CO2対策、地球温暖化現象に今こそ歯止めをかけるべきだ」報道やキャンペーンは、どこへ行ってしまった??
 もともと、化石燃料依存からの脱却、排気による環境悪化、CO2による地球温暖化への懸念から、危険性は承知しつつも原発を増やしてきた日本。
 再稼働を反対するということは、非常に現実的にお考えいただいて、火力に戻すということ。節電しようがなんだろうが、火力に戻すということ。
 こんなに暑い今日この頃、「エアコンをつけなさい」と言われています。それでも節電して、自然エネルギーの発電に転換する数十年後までは、火力に頼るということ。
 また、電気代が相当値上げするであろうことは確実ですが、それでも、現実的に見て数十年間はCO2を大量に放出する火力でよい、と言っているわけですね。

 そのことに一切触れないというのは、あまりにも卑怯すぎる。現実的な代案が全くないのです。「代案を持たずにとりあえず叫んでいる」ということさえ報じないマスコミに、社会の木鐸を語る資格はありません。

②国民とは?市民とは?民意とは?
 ここ数年、ずっと考えていることです。
 「国民は怒っています」じゃあ国会議員は国民ではないのか?官僚、役所の職員は国民ではないのか?生活保護をやたらに手厚く受けて働きもせず楽な暮らしをしている人たちは国民ではないのか?

「民意」そんなものがあるならば、とっくに選挙における「浮動票」なんてのはなくなっている。だいたいポリシーを持たない、不勉強な浮動票に頼らなくてはならないような選挙を繰り返してきたから、政治が機能しなくなってきているのではないか?
もちろん、日本に「市民」(ヨーロッパ発祥の社会学上のことなです)などというものは存在しません。



そろそろ、お分かりいただけましたでしょうか?

あのデモを、最初に商売に利用したのは、マスコミ各社なのです。


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それじゃあ一言…またいじめか

2012-07-15 22:40:50 | ライフ
ひどい事件はまだまだ続いています。

聞けば聞くほど暗澹たる気持ちになるものも多い。

だいぶ前に私は、岐阜県で起きた例をもとに、自分のわかる範囲で述べてきました。
今回おもにマスコミをにぎわしているのは、大津市の事例です。


岐阜県の例との違いは、判明した、起こっていた出来事がどう客観的に考えても、あまりに悪質であること。
だから疑問だらけです。

そして、前回のシリーズで自分が書いたことに対し、自責の念も込めて、一つ論を加えなければならないと思い、筆をとりました。


リーダー(校長など)は、軽々しく「いじめがあった、なかった」は、確証が取れるまで言うべきではない
…が、前回の私の論ですが、一つ抜けていたのです。



「だからと言って、いつまでも未来永劫、『調査中』では無責任であろう」



特に今回の大津の場合、証言が多く、内容もひどい。
「いじめはあったものと思われる」は、早期に公表すべきだったと思います。
ただし、確かに大津側の、一理あると思われたところは、
「いじめを直接の自殺の原因としてよいものかどうか」のくだりです。

いや、私は直接の原因のように感じるのではありますが。
ほかの要因があるという可能性も、常に考えておかなければならない。

また、「いじめのアンケート」の効力と限界も、私たち大人は知っていないといけない。
隠れた叫びや真相を探る「手掛かり」として、また児童生徒の、発しにくい声を出させる手段としても、アンケートは有効です。
しかし、確かに限界はあります。たとえば、信ぴょう性。悪意の有無にかかわらず、どうしても人間の記憶にはどこかにあいまいなところが出てしまいます。
アンケートと直接の懇談で、ある程度のところまでは見えてくると思われますが、決定的な証拠としての説得力までを問われると、難しい。


そしてこれは非常にタブーな意見なのでしょうが、被害者の身体的状況、人格、個性は、全く問われなくてよいのかということ。
7,8年ほど前からでしょうか、「いじめは被害者がいじめと感じたところで、いじめである」と、はっきり定義づけられました。
いじめ、と平仮名で書いてしまうとなんだかオブラートで包んだ感じで嫌なのですが、平たく言えば、人権侵害罪ですね。

これによって、いじめであるかどうかの判断は、ある意味わかりやすくなりました。しかし、「本当にそれでいいの?」と、ちょっとでも想像力のある人ならば、立ち止まるのが普通でしょう。


私はかつて、いわゆる発達障がいと言われる子供たちと、何人も接してきました。厳しいハンデを背負っている子もいましたが、みんな、自分の心に正直で、醜い隠し事をしない子たちばかりでした。しかし、人間関係に関しては苦手なことが多かった。
この子たちにとっては、毎日がいじめです。たとえば同じ発達障がいの仲間同士で、毎日同じ子が加害者であり、その本人が被害者でもある。これを一つ一つ立件していけば、一人につき200件ぐらいの案件が成立してしまいます。


極端と言われるかもしれませんが、通常学級と言われるところでも、実際のところ、「自分の人権が侵害された」と感じる「感度」は一人一人違います。本当の本当に、どんなに感覚を研ぎ澄ませたって、「どうしてそれをあなたはいじめと感じてしまうの???」と理解不能なレベルだって、星の数ほどあります。

いじめは確かに、受けた本人の立場に立たなければならない。しかし、その言葉だけが独り歩きしてしまうと、お決まりの「思考停止」が待っている。その先にあるのは、真相の闇の深まりでしかありません。そして忘れてはならないこと。貴重な命が失われる前に、しなければならなかったことがあったはず。どこかが足りないのです。
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