songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

南野陽子さんの「リバイバル・シネマに気をつけて」を歌う~アラカンの男性で失礼

2024-08-25 23:01:13 | 音楽
南野陽子さんの「リバイバル・シネマに気をつけて」を歌う~アラカンの男性で失礼


アルバム「ブルーム」は、私が買った唯一の南野陽子さんの1枚です。
特にこの「リバイバル・シネマに気をつけて」と、「話しかけたかった」、「花束を壊して」の序盤3曲は、神がかっているといえるほどの展開で、最高のサウンドなのです。
久保田早紀さんの「異邦人」をはじめとする名曲を数多く手掛けたアレンジャー、萩田光雄さんの、渾身のサウンドがキラキラと輝き、こういうオープニングで南野さんのコンサートを見られた人は、さぞ幸せだっただろうな、と思います。

南野さんはよく言う量産型のアイドルではなく、非常に頭の良い方で、音楽、サウンドに関してはマニアのレベルで造詣が深いことは、近年知りました。クリス松村さんとの対談を動画で見たことがありますが、信濃町ソニーのスタジオの音色のこと、アイドルの名曲のことなど、次から次へと楽しい話が飛びだしていました。

その中で、次のような話が印象的でした。
「パンドラの恋人」発売時、スタッフの方は「通常版」と「プレミア限定、下敷きジャケット版」の2種類を発売したそうです。今、ふつうに見る「限定プレミア版」の先駆けだそうです。
ところが南野さんご本人はあまり良い気持ちではなかったそうです。曰く、
「ファンの方には小学生、中学生の人も多かったんで、限られたお小遣いの中で2枚買うとか、どちらを買うか迷うとか、そういう思いをさせることが心苦しくて。スタッフの会議にも乗り込んでましたね。」
結局は南野さんが折れて発売になったようですが、

この話、今のアイドルの方々にも聞かせてあげたい言葉です。

AKB商法。かねがね言っておりますが私は、彼女たちの音楽の中に好きなものは多いですが、商売方法は大っ嫌いです。
商売だからきれいごとばかりはいっていられません。特に昭和と令和では時代が大きく違います。
でも、アイドルって、どういう気持ちでお客さんに接していくべきなのか。誠実さとは何か。
当時10代だった南野陽子さんにはわかっていたのでしょう。

本当にファンを大切にするって、こういうことだと思います。決してたくさん投げ銭させることだとは思いません。「推し活」なんて今は当たり前のように言われているけど、何か違うような気がしてなりません。

経済的に余裕がある人が多くのお金をつぎ込んで支えるのもアイドルへの愛の形の一つかもしれません。でも、本当の気持ちで応援するってどういうことか、今一度考えてもらいたいように思います。

あ、動画ですが、syuxz1さんがだいぶ昔にアップされていたカラオケ動画に声を入れてみたものです。粗品でございます。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その10 エピローグ CBCからまさかの…

2023-07-02 01:03:14 | 音楽
【出演後、学校では】
 テレビ番組に出られたということは貴重な経験だし、今でも「あの時、思い切って動いてよかった」と思える出来事なのですが、当時の自分にとっては微妙でした。
 私は、会場の多くの人たちに失笑を買うようなことをしてしまった。あれが放送されるのだ、と。
 やはり出演するときは我を忘れてうぬぼれてしまうもので、「自分はあの場で大喝采を受けてチャンピオンになり、ヒーローとして収録を終える」ぐらいの気持ちになってしまいます。もちろんそれを人に事前に宣言などしませんが。
 しかし少なくとも自分は思ってもみない失敗をしていて、全然かっこよくなかったのです。放映までの2週間、なんと言えばよいのかわからない気分でした。

 担任の先生は、社会が専門の先生でした。テレビ局の様子、収録の実際など、何かと詳しくみんなの前で発表させようと声をかけてきました。

 大人になるとわかります。今でも、「マスコミ、テレビ局の仕組み」は、5年生の社会の授業で取り扱う重要な単元。それを自分の学級の児童が生で体験してきたというのだから色めき立ちます。100の資料よりも1の生体験。ぜひ学級で披露してほしかったのでしょう。その気持ちは、今では痛いほどわかります。私が担任だったとしても、絶対にそうします。

 ですが、私はプチ傷心状態。そんな大人の事情など分かるわけがありません。おまけに、今調べてわかったのですが、おそらく当日のCBCは、著作権その他の関係から、放送局に入ったらもう写真の撮影は禁止。我が家には当日撮影した写真が1枚も残っておりません。2回前の歌っている写真は、出演後、CBCから郵送されたものです(後で述べます)。
 当日の出来事も、ここまで延々述べてきたほど複雑で、とても簡単にスピーチできるほどまとめることができません。一応学級で簡単に話しましたが、まったく的を射ない話しかできず、担任の先生も肩透かしだったことだと思います。

【2月19日放映当日とその後】
 我が家には、その頃購入したばかりのカセットテープレコーダー(ラジカセではない)があり、それに録音しようということになりました。全部を録っても仕方がないので(?)、自分の歌った部分など一部にしようとしました。ライン録音の機能はありませんでしたので、「生録」です。ですから、録音中は家族みんな、黙って見ていなくてはならず、ちょっとしたストレスでした。(もう残っていないかな…?この時の録音)
 祖母も見てくれて、喜んでくれたように記憶しております。

 ビデオ録画は、当時は一部のお金持ちだけの道楽でした。まだVHSもベータもない、Uマチックと言われる規格のテープと機械で録っていた時代です。クラスに一人だけ持っていた家庭があって、録画をしてくれていました。
 それを学校で見せてくれたかもしれません(そのあたり覚えていないです)。「あげようか?」と言ってくれたようにも覚えています。ですが、うちに「録画できるような機械」を買う財力もなく、確かテープも高価なはず。そんなこんなで、ありがたい申し出ではありましたがお断りしました。VHSテープが一般的になって、我が家でもビデオの機械が買えたのはその6年後のことでした。
 放映翌日、私は少し気まずい思いで学校に行きました。かっこ悪い姿をひけらかしてしまったな、と。
 でも、クラスメイト達はみんなそんなこと気にせず、「よかった。面白かった。狩人と一緒だったね」と、温かい言葉をかけてくれました。
 考えてみれば、自分たちも小学校卒業間近。お互い少しずつ大人な会話ができるようになりつつありました。みんなのねぎらいや温かさが、本当にありがたく、ほっとしたことを覚えています。


【最後に、CBCからまさかの…】
 賞品で頂いたハンバーグの素やカステラなどは、本当にありがたく、どれも美味しかったため、しばらくの間我が家の食卓やおやつの時間を充実させてくれました。以前の予選の時は記念の鉛筆もいただいたように覚えています。また、出演の時にはめていた「どんぐり音楽会」のバッジもそのままいただきました。

 放映されたころでしたか、CBCから封書が届きました。
 ご出演ありがとうございました、という内容のお礼状でした。律儀でこれもありがたく思いました。2回前のところにある写真はこの時同封されていたものです。当日写真撮影は禁止されていたようで、あの写真は局の方から、記念に、ということで頂いたものです。先日実家でアルバムを見ていたら、その写真が挟んであったので、ブログで使わせていただきました。

 そして、そこに、もう1枚の手紙が…
 45年も昔ですのでうろ覚えですが、このような内容でした。

「どんぐり音楽会、出演おめでとうございます。司会の石川進です。あなたの活躍、素晴らしかったですよ(活字なので全員に同じ文書を出したと思われる)。これからの頑張りにも大いに期待します。
 さて、私、キューピーちゃんこと石川進、実は、タレントや司会もしていますが、実はプロの歌手でもあるんですよ(知ってた)。私も歌手として頑張っていますが、みなさんのような新しい時代を背負っていく子たちを、音楽の面でサポートしていきたいという夢も持っているんです。
 もしも、これからも歌の世界で頑張っていきたい、という夢をお持ちならば、私と一緒に夢をつかんでいきませんか?私は今、名古屋を拠点にスクールを開いていて…(事実この4年後に岡崎市に音楽学校を設立なされます)

以下にある案内状を保護者様と一緒にお読みいただき、よろしければご連絡ください。云々…」


 そうです。これは、石川さんの個人的な「スカウト」なのです。

 私も一瞬ミーハーな夢に揺り動かされそうになりましたが、家族は冷静でしたし、自分も声変わりを控えていたし、そんなことのために名古屋に通う気などさらさらないし、どうせこういう通知は出演者全員に送っているし。
 でも正直罪なことをなされる方だと思いました。中学校進学を控えている子どもの不安定な心情のところに、こういう誘惑をかましてくるのは、いかがなものかと。

今までにも述べてきましたが、自分は猛烈な音楽好きだったと思います。音楽を学ぶような環境はほとんど家にはなかったけれど、「もしも歌って生きていくことができるなら」と思うことさえ、少なからずあった少年時代です。そんなところにこんな通知が来れば、やっぱり心はざわつきます。

でもいろんな現実も分かりかけてきていたこの時期。お誘いはありがたかったですが、返信はせず、どんぐり音楽会を含めたこの件は、幕を引きました。


今だったら、どうなのでしょう?
放送局からの郵便に、出演タレントによる個人的な芸能事務所の入所案内なんて、同封することが許されているのでしょうか?しかも、番組ぐるみでやっている感、ありありでした。
あの番組の提供会社の中に、「石川進音楽学校」でも入っているのならばわからなくもない話ですが…おそらく現在こういうことをやったら、コンプライアンス的にアウトだったのでしょうね。

どんぐり音楽会は、その数年後、司会がマイク真木さんに代わって1983年まで続きました。
小学生が歌謡曲を歌うばかりの番組、メディアへの登竜門っぽい印象がどんどん強くなり、番組としての使命を終えたのでしょう。


長々と、すみませんでした。全く自分の記憶を失わないようにするためだけに書いたようなシリーズですので、客観性を欠き、寄り道だらけの駄文となったことをお詫び申し上げます。
でも、こうやって書き残していると、やはり思い出は甘酸っぱく、温かいものだと感じます。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その9 収録のその他、その後へ

2023-06-24 22:01:58 | 音楽
風がはこぶもの【本田路津子さんの曲を 五十路後半男性だけど歌います】


【本番中あれこれ】
①本番中のおしゃべり
 これは放映後、同級生に言われたことでしたが、
「ねえ、〇〇君(私のことです)、控えの席のところで、他の出番の女の子としゃべっていたじゃん。どうしたの?もう仲良くなっちゃったの?」
普通、出演者が歌っていたり、話していたりする番組の進行中に、私語などもってのほか。自分でもその指摘を受けるまでは覚えていませんでした。が、言われて少し思い出しました。
どの時間帯だったかは忘れましたが、確かに収録中、控えの席で隣の女の子に何かしゃべりかけられました。私も何も考えておらず、気が緩んでいたのでしょう。(とすると歌った後だったのかも)普通に受け答えをしていたのです。そんなことが一瞬あったことは思い出しました。しかしそれが、はっきりと何らかのアングルで映り込んでいたらしい。ビデオがほとんどない時代で録画がないからわかりませんが、多くの子がその場面を見ていたらしく、「仲良くなっちゃった?」とか詮索してきて私も慌てました。話しかけるほうも話しかけるほうですが、受けて答えていた私も大概ですね。

②あわて床屋
 確か本番前の最後のリハで(この時は全員歌う場面は省略させられました)、番組の最後にみんなで一曲歌うという流れがありました。この週のラストの曲は「あわて床屋」でした。
 しかし、出演者ほぼ全員がまともに歌えないという事態が発覚!私もかすかな記憶しかなかったので、歌いながらおぼろげな記憶を引っ張り出し、「ああ、こういう曲だった」と、でも気持ちよく歌わせていただきました。自分としては、出番で歌った「落ち葉」よりも、こちらのほうが、伸び伸びと気持ちよく歌えていた記憶があります。
 でも、私の世代でも、もう誰も知らない曲になっているということも自覚した瞬間でした。父からはずっと言われておりました。「テレビで流れるような流行歌ばかり歌うような人間になるな。日本には、唱歌、童謡という立派な文化がある。そこに歌の基礎があるのだから」と、
 だからと言ってエリート教育的に童謡ばかりを子どもに聴かせるようなことをされた覚えはないのですが、身の回りで歌われていた童謡は普通に聴いていたし、まだ私の世代では、ぎりぎり、子どもたちの遊びの中で自然に童謡を口ずさみ合うような生活、文化が残っていました。ですから「あわて床屋」もすぐに記憶のかけらを呼び出して歌うことができたのですが、ほかの出演者たちにとってはさっぱりだったようです。

 おそらく審査員に水谷俊二先生がいらっしゃったこともあり、あの「最後の歌」のコーナーは、子どもたちに、唱歌や童謡を大切にしてほしいという願いで設けられた時間枠だったのではないかと、あの時にも思っていたし、今もそう信じております。石川進:キューピーちゃんの歌もお見事でした。

③狩人「若き旅人」
 狩人のお二人にとっては凱旋出演だったのかもしれませんね。国民的大ヒット曲「あずさ2号」から、「コスモス街道」、そして1977年末に発売した3枚目のシングル「若き旅人」と、ヒット曲を連発していらっしゃいました。
 「どんぐり音楽会」では、この「若き旅人」を歌われておりました。そしてその時初めて、私は「カラオケ」という言葉が業界にあることを知ったのです。
 
私たち出演者は、みんな、生のバンドをバックに歌いましたが、ゲストの狩人さんが歌うときには、そのバンドの皆さんは演奏されていませんでした。その代わり、モニタースピーカーから、豪華な演奏が聴こえ、それをバックに狩人さんは歌っていらっしゃいました。世に言う「カラオケ」です。

そんな仕組みがあるとは知らず、少なからず私はカルチャーショックを覚えました。1970年代は、まだそういう時代だったのです。その「カラオケ」という言葉が世の中で普通に使われるようになり、国民がみんなマイク片手に歌うようになったのは、その数年後のことでした。

私たち出演者は残念ながら狩人のお二人と直接会話やコンタクトを取ることはできませんでしたが、以前述べさせていただいたような経緯で、私は(おそらく)特別に、狩人さんのサイン色紙をいただくことができました。
収録終了後、提供各社からの参加賞としていろいろお土産をいただいて両親のいる客席に戻っていく私は、どうやっていただいたのか覚えておりませんが、こっそり狩人さんのサイン色紙も持っておりました(おそらくほかの出場者の方は頂いていないと思います)。
すると、目ざとい狩人ファンのお姉さんたちがそれを見つけたようで、私に話しかけてきました。

「あー、サイン持ってる!いいなー!」「ねえ、お願いだから譲ってくれないかなー…
なーんて嘘だよ。おめでとう。大事にしてね。」と、本気とも冗談とも取れない言葉をかけられました。私はいきなり話しかけられて思わず身構えてしまいましたが、この言葉に、「ああ、狩人さんはいいファンをたくさん獲得しているんだな」と(今の私の言葉でいうと)、やけに心が温かくなった記憶があります。

前回の写真にも少し載っていますが、この時の出演者に送られた参加賞は、
・(例の)オリエンタルハンバーグの素、マースカレーもあったと思う
・ハワイの飲み物、グアバ
・長崎堂のカステーラ
・サンビシ醤油詰め合わせ
・納谷橋饅頭  だったと思うのですが、写真を見るに、すでに納谷橋饅頭は提供を撤退していたのかもしれません。私はことのほかあの納谷橋饅頭が大好きだったので、親が遠出した時は必ずお土産にお願いしていたぐらいでした。ですからこの時ももらっていたような気もするのですが…わかりません。

「どんぐり賞」(その週のチャンピオン)は取れませんでした。もしもとっていたとしたら、それこそ中学生になって、チャンピオン大会に出なくてはならなかったのかもしれませんが、まあ、そこまで上手ではなかったということだったのだろうと思います。

かくして収録は終わりました。この夜は親子3人で名古屋駅の飲食店エリア「廣寿司」に行き、食べた「江戸」というメニュー(まぐろと鉄火だけ)のおいしさに驚いたことを覚えています。ねぎらいの言葉ももらいました。今でも名店ですが、「廣寿司」は当時テレビCMも流していたほど有名で、父母も昔名古屋住まいだったこともあり、きっと精いっぱいのご馳走を考えてくれたのだろう、と、今更ながら有難い思いです。父母亡き今、あの夜の食事の時間を思うとぐっと胸に来るものがあります。

④おまけ
で… この日の「どんぐり賞」を取った人
後々じわじわ来た名前の人なので覚えています。「中島美雪」さんと言いました。ただしこちらの地方ですので、「なかしま みゆき」と読みます。シンガーソングライター中島みゆきさんの名前を耳にしたとき、どこかで聞いたことのある名前だよな…と考えていた時に、思い出したのです。「あ、あの時のどんぐり賞の人だ」

そして彼女が歌っていた歌が、本田路津子さんの「風がはこぶもの」


今回動画投稿させていただいたいきさつは、ここからなのです。もちろん大好きな曲です。歌いながら、ずっとどんぐり音楽会のことを思い出していたので、自分の記憶、記録用に、連続して投稿させていただきました。


で、あと少しだけ追記させていただきます。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その1 前夜 テレビに出た記憶

2023-04-24 01:02:56 | 音楽
自分の記憶する限り、自分が小学生時代にテレビに出演した記憶は2度あります。
1度目はあいまいな記憶ですが、多分1975(昭和50)年、小学4年生の頃
中央自動車道が瑞浪から中津川まで開通し、同年秋には恵那山トンネルが開通して「高速道路(正式には違うよね)で岐阜県から長野県まで行けてしまう」ようになった頃です。
その1年前には化石博物館が開館していて、よくテレビ局が取材をしに来ていました。
博物館の建物のすぐ南側には、例の小説「化石山」の舞台の一つ、建設関係の人や中国人俘虜の方々が秘密で掘り進めていた洞窟の跡地の一本があり、その壁面には多くの化石が見られることから、
「化石のトンネル」として公開されていました。化石博物館開館から数か月後のことだったと記憶しています。

私はいつも一緒に遊ぶ仲間3人で、その日はなぜかその博物館近くで遊んでいました。いつもの遊び場所とは離れているし、まだ明世小学校はあそこにはなかったし、理由は覚えていません。
突然知らないおじさん(2,3人いたか?)から声をかけられました。
「NHKです。ニュースの映像を撮っているのだけど、僕たち、協力してくれないかな?」

今だったら間違いなく「不審者で通報」レベルです。しかし訳も分からないまま、「なんか面白そうなことかな?」と、のこのこついていきました。
案内されたのは、その「化石のトンネル」です。

「洞窟の中を探検して歩くようにしてください。『ここ』と私が言ったところで、壁の化石を指さすしぐさなどしてくださいね。」
という指示でした。言われた通り、一発アドリブ芝居で、私たち3人は、実際には何度も入ったことのあるトンネルを、初心者のごとく指さしながら進んでいきました。

15分ほどの撮影を終えた後、担当さんは、「この映像は、NHK子どもニュースで流します。楽しみに待っていてくださいね。」と言って帰って行かれました。
肖像権もプライバシーも、契約書も何もないおおらかな時代でしたね。

当然浮かれていた私たちはあちこちに言いふらし、毎日夕方6時の「こどもニュース」を食い入るように見ていました。しかし、なかなかその映像、ニュースは流れません。
問い合わせ方も分かりません。何しろ、自宅含め、近所にようやく電話が開通したぐらいの時代ですから。気長に待ちました。
でもそのうち飽きて、見るのを忘れる日も多くなってきました。1か月以上たったころだったでしょうか、
「見たよ、テレビで」とクラスメイト。見逃したのです。
ビデオなどまだ全く普及していなかったこの時代、愕然としました。「もう二度と見られないのだ」と。でも、「近いうちに再放送があるみたいだよ」とも教えてくれました。

果たして数日後(だったかな?)無事テレビでその映像を見ることができました。
ニュースのアナウンスに載せ、自分たちの後ろ姿や、指差しが映りましたが、顔はほとんど映っていなかったと記憶しています。
その時間、1分程度。考えてみれば、ニュースのメインは化石なのですから。「こんなものか」というのが正直な感想でした。
特に誰かからうらやましがられることもなかったですし。それは一緒に写った他の友人たちも同じだったようで、まあよく「ちびまる子ちゃん」に出てきそうなエピソードでした。


2度目の出演が、表題の「どんぐり音楽会」です。
もちろんこちらは自分が希望して出演した番組です。
1978(昭和53)年2月1日収録    同2月19日(日) CBCテレビ「どんぐり音楽会」(朝9:00~9:30)放映

いろんなことを鮮明に覚えております…と言いたいところですが、歳のせいでしょうか、あれこれ忘れ始めています。
極めて私的なことではありますが、この場を借りて、覚えていることを記していきたいと思っています。自分のために。

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いつか(SOMEDAY)(50代で歌った)

2022-10-01 23:40:03 | 音楽
いつか(SOMEDAY)(50代で歌った)

一日2本アップというのは初めてかもしれません。
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