songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

どんぐり音楽会出演の思い出 その6 本番前

2023-05-29 01:20:06 | ライフ
【スタジオリハーサルへ】
2回目のCBCホール。同じように客席へ行くのかと思ったら、受付後、出演者のみ別の場所に案内されて、もうそこで父母とは別行動になっていきました。予備知識が何もなかったものでしたから、さすがに不安になりましたね。あれから半世紀近くたった今、思います。あの時間帯、父母はどうしていたのだろう?と。多少リラックスして新栄あたりで過ごしていたのか?父母亡き今となっては、もうわかりません。
出演者用の通路沿いだったか、目立たないところに、CBCがテレビを始めた当初のテレビカメラが資料として置かれていました。大掛かりで古めかしいカメラに驚き、生意気にも、「こういう昔の機材なんかが一般公開されてみんなで見学できるような施設があるといいなあ」なんて考えていました。
今のCBCホールはどうなのでしょう?もう15年近くあのあたりには足を運んでいません。
話はそれますが、うちの子が小学生時代、何かの絵のコンクールに入賞して、展示施設がCBCのギャラリーだったので、懐かしくて足を運んだことがあります。でも、少なくともその時は、そのような施設はなかったように覚えています。歴史ある放送局なのですから、そういう施設も作ってほしいと願ってしまいます。

話がそれました。ホールに連れて行かれ、いろいろ担当の方が進行を説明されました。私は、もうこの時から、司会の石川さんとか、水谷先生はじめとする審査員さん、ゲストの狩人のお二人がいらっしゃるものだと思っていたのですが、そうではありませんでした。


【事件発生・曲が違う!!】
「とりあえず、皆さん、バックのバンドさんと一緒に音合わせをしておきましょう」
ということで、マイク前での立ち位置などを教えてもらいながら、一組ずつ歌っていきました。
私は、4番目当たりの出演順だったのでは?という記憶です。ところが…

なんだかさっぱりわからない前奏が流れます。曲調が明らかに違います。どこでどう歌い出せばいいのか、さっぱりわかりません。パニックになっていると、当然担当者が怒ってきます。
「何やってるんだ!?練習してきたんでしょ?」
もう1回前奏からやってもらうのですが、やはり何ともつかめません。自分が悪いのか、自分は音痴になってしまったのか?…でもしばらくして落ち着き、ようやく自分にも、「間違えているのは楽団側だ」と気づいてきます。
「『落ち葉』はそういう曲ではありません。」
楽団やディレクター側はそんなはずはない、という態度でしたが、これもしばらくして、本当に何らかの手違いで、まったく違う楽譜がバンド側に渡っていたということが分かってきたようです。
もちろん現場はプチパニックです。

「じゃあ、君はちょっと別室に来て。あとの子は音合わせとリハーサルを続けるよ!」
私は別室(と言ってもおそらくホール横の薄暗い空間)に連れられて行きました。
本番を前にして、私はどうなってしまうのだろう?出演させてもらえなかったら???など、何とも言えない不安な時間でした。

ギターを持った、バンドの方と思われる方が私のところにやってきました。
「で、本当はどういう曲だったの?」と、やさしく聞いてくれました。もうこの時の私は、「自分がしっかりしていれば、何ら臆することはない」の境地でした。
楽譜は、持ってきていなかったと思います。「小学校の教科書に載っている曲で」と説明しても、あちら様が持っているわけがありません。一般的にはほとんど知られていない曲なのです。「どんぐり音楽会の思い出 その3 たった一度の予選会」の時に述べた、コピーという言葉が頭をよぎります。おそらくその予選のあと、何らかの手違いが生じたのでしょう。

偉そうなこと言いますが、この時、自分に多少の楽譜の心得があったことが幸いしました。
この時私は一生懸命その方に歌って聴かせ、楽譜上どういう音の動きなのか、速さやリズムはどうなのか、などを楽譜用語を交えて伝え、何とか曲の流れを理解していただきました。
あの時、自分に楽譜の心得がなかったら、私は本当に出場できなかっただろうと思います。私は当時ピアノも何も音楽の習い事をしていなかったので、私の音楽のお手本は学校の音楽の授業だけでした。
音楽が本当に好きだったので、習ったことをもとにして楽譜を読んだり、知識を付けたりしていました。それを家でハーモニカで吹いたり、リコーダーで吹いたり。鍵盤楽器は家にありませんでしたが、高学年になって、その頃世に出始めたばかりの「鍵盤ハーモニカ」なるもの(当時4000円)で楽しんだり。
それが、窮地を、とりあえずは救ってくれたのです。

ギターを持った方は言ってくれました。
「ありがとう。ごめんね、こちらの手違いだったみたいで。お詫びに、何かできることある?」
とのことですので、
「あの、狩人さんのサインいただくこと、できますか?」と、ダメ元で聞いてみました。すると、
「わかった。本番後、特別にプレゼントするね」

何ともありがたい話でした。当時人気絶頂の狩人さんのサイン。
引っ越しを重ねた我が家で、今、どこにあるのかわからないのでお見せできなくて恐縮ですが…もし見つかることがあったらアップさせていただきますね。

浮かれていた私でしたが、そうです。本番撮影は、すぐそこまで迫っていました。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その5 本番までの日々

2023-05-08 00:48:11 | ライフ
【レコード盤で練習】
予選を通ったことについて、学校の先生も喜んでくれたのだと思います。音楽を教えてくださった先生が、「レコードシングル盤」を貸してくださいました。「これで練習しておきなさい。」
私の家にはピアノはありませんでしたしもちろん弾けません(ピアノが入って練習することになったのは高校生になってからのことです)。

カセットテープレコーダーの普及率もこれから、音源はレコード盤だけ、という時代でした。
本番に向けて、より良い歌を歌いたいと思っていた自分にとって、ありがたい話でした。ちなみに両親が働いていて私はかぎっ子、一人っ子だったので、留守番していてちょっと暇があれば、気が向いたときにレコードをかけて一人で練習する、と言ったのん気なものでした。
学校の放送室では一人で歌えても、両親の前で一人で歌うことには抵抗があったのです。こう言ってはなんですが、あまり褒めてくれる両親ではなかったので、いい気持ちで歌えなかったですね。親の前で歌った経験はあまりありません。
自分で気持ちよく歌っていられればいい、人に文句を言われたくない、という、かなりわがままな態度でしたので(今でもそうかもしれません)、人前で歌って、何か指導してもらうなどという気分の悪いことなどしたくありませんでした。
祖母もよく出かけていたので、一人きりの時を中心に歌っていました。それが私にとってのレッスンすべてでした。
学校の先生も、そのレコード盤を貸してくれただけで、特に「レッスンするか?」という声がかかってきたこともありませんでしたし(先生の立場上も、それがベストだったのでしょうね)
両親も、予選が通ったからと言って何か態度を変えるわけでもなく、「どれ、お前の歌を聴かせてみろ」もありませんでした。まあ、私にはそれが一番気楽でよかったです。

レコードで練習している中で、自分なりに課題が見えてきました。「伴奏のテンポに合わせていると、息が続かないこと。」「変声期とは言わないまでも、声の高さが落ちかけていて、高音を体で支えにくくなっていること」等
どうすれば解決できるのか、わかりませんでした。でも、こういう性格でしたから誰かに教えを乞うこともせず、何とか頑張ればいいか、ぐらいでした。お世辞にも練習熱心ではなかったですね。その時の気分がいいかどうか、だけが、練習する、しないの基準でしたから。でも、音楽は大好きでしたのでいやになること、飽きることは全くなかったです。


【連絡待ちの日々 ずる休み??】
予選が11月だったので、遅くとも年内には収録に関する連絡が来るだろうと待っていたのですが、なかなか連絡が来ないのです。ついに、年を越してしまいました。
今だったらメールやらホームページやら、いろんな方法で気軽に問い合わせができるのですが、この時代の方法は二つ。郵便か電話です。
「それでも予選を通ったのだから、まさか忘れられていることはないでしょう、わざわざ問い合わせしなくても」と、やきもきした正月をむかえました。
でも、下手したら自分は小学校卒業しちゃって、出場資格を失ってしまうのでは、と、いらぬ心配ばかりしていました。無用なストレスが溜まります。友達にもまだ何も言えないでいるし。
(実際卒業してしまった子もいたのではなかったかと思います。そういう場合は特例で、応募時小6、という断りで出ていた子がいたような記憶があります)

これ以上待てない、いよいよ局に電話か、と思っていた1月も冬休み明け、ようやく通知が届きました。本番収録は2月1日水曜日の午後から。

ほっとしたと同時に、次の心配が浮かびます。
水曜日??

どう考えても、通常の学校の授業日です。早退しなければならない。でも、なんと言って??
「家の都合で早退します」
今ならば、周りの子もそれほど気にしないことですが、この時代の田舎です。病気でもなく学校から去ることは、「ずる休み」以外の選択がなかったのです。
そんな悪評を広められたくない。

…まあ収録の段階まで行ってしまえば隠しようがないのですから、そこまでのサプライズをねらっているわけでもないし、この段階で学級の仲間には事情を話すのがベストタイミングと考え、
「どんぐり音楽会に出演するので早退」を学級で公表しました。収録1週間前だったかもしれません。

思っていた以上に、驚かれました。
以前の「化石のトンネル」みたいな偶然ではなく、割と知られているテレビ番組に出る 結構な衝撃だったようです。うちの学校で、そういう形でテレビに出る子などいませんでしたから。
仲間の食いつき方が、「化石のトンネル」とは段違いでした。でも、まだ収録前だったし、照れもあるので、あまり語らなかったと思います。

2月1日の収録は2本立て(2週間分の録画)、とテレビではすでに放映されていました。
ゲストは、それぞれの回で、芹洋子さん、狩人のお二人、とテロップに出ていました。
早速学級の友達に聞かれました。
「ねえ、どっちのゲストの回に出るの?」
「狩人のお二人の回だよ。」
「えーーー!!いいなあーー。よかったよね、狩人の回で!」「サインもらってよ」
「いや、それは確かできないはずだから…」

ずいぶん失礼な子だな、とその時の私は思っていました。私にとっては、芹さんも、狩人さんも、とっても素敵な歌手だったので、全く同等に思っていたのです。
でも、同級生の女の子たち、ちょっとませてきた仲間たちにとっては、狩人さんたちは前年「あずさ2号」の大ヒットで、当時トップクラスのアイドル扱いを受けていたのです(収録時に私はそれを思い知ります)。
芹さんも大好きな歌手でしたが、当時の狩人さんほどの勢いには、世間的には及んでいなかったようなんですね。その時は。


そして2月1日水曜日。寒い日でした。
この日のために、両親も服を買いそろえてくれました。おそらく会社にも休みを取ったのでしょう。
なんだかんだ言って、私にとってはちょうどよい距離で気にかけてくれた両親には感謝しています。私もこの歳になるとわかります。恥ずかしいとはいえ、予選を通ったわが子の晴れ姿。嬉しく、誇らしかったのだと思います。
私はそれどころではなかったのですけどね。

学級のみんなに送られて、中央線で名古屋に向けて出発しました。祖母が留守番でした。
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どんぐり音楽会出演の思い出 その4 予選とその後

2023-05-06 15:01:29 | ライフ
予選の時に進行のかたがどのような指示をしていたのかは記憶にありません。ただ、ほとんどを客席で聴いていたということは、番号順にステージに呼ばれて歌っていたのだろうと思われます。
カラオケがない時代。後ろにはピアノが1台あっただけでした。事前に渡していた楽譜ですべての曲を伴奏されていたのであろうと思うと、まったくもって恐れ入ります。
真ん中にマイクが1本立っています。二人組で出るときは2本立ててくれていたかもしれません。

「マイクの前に立ち位置のテープが貼ってありますから、そこで歌ってください。間違ってもマイクスタンドを持つようなことはしないでくださいね。」
まだ世良公則さんもデビューするかどうかの時期だったから、マイクスタンドを持って歌うパフォーマンスをするミュージシャンもあまり多くなかったような気がしますが、多少はいたのでしょうね。音響の方々からすれば、マイクを触られる、マイクスタンドごと持たれるというのは、最悪の破壊行為でしかありません。もちろん安全性もあります。けがなどされたら大問題です。
それほど言われたにもかかわらず、1,2名の男の子がマイクスタンドをもってかっこつけていました。後ほど叱られていました。

そう、いろいろな面で私は面食らっていたのです。
今までにも述べてきたように、私は、小学校で行われていたあの奇妙な「お昼の放送のア・カペラのど自慢」の延長線上ぐらいの気持ちで歌いに来ていました。だから歌う曲も、教科書の曲や童謡、唱歌レベルで考えていました。
しかし考えてみると、それ以前から「どんぐり音楽会」では、歌謡曲を歌う子が増えていたなあ…と。そして、私が予選に臨んだ1977年あたりでは、出演者の8割が女の子で。特に自分が出演するなら…と考えていた頃には、女の子の出演率がぐんぐん上がっていたのです。
そして、歌のジャンルでも、唱歌童謡、教科書の曲を歌う子はかなり少なくなっていました。ほとんどの子が歌謡曲を歌っていたのです。私だって歌番組は見ますし、歌謡曲も歌っていましたが、それを歌ってテレビに出るという発想はありませんでした。

つまり、予選に出る構えが、根本から違ういろんな子が会場には集まっていたのです。


【予選開始】
いよいよ予選が始まり、いろんな子が歌い始めました。

生意気言うようですが、まったくの素人の自分が聴いても「箸にも棒にも…」のレベルの歌が結構ありました。
歌の最中に、昔の黒電話の呼び出し音のようなベルが鳴るのです。そのベルが1回しか鳴らなかったら不合格、2回鳴ったら合格、予選通過、というシステムでした。(記憶違いだったらごめんなさい)
予想通りというか予想以上というか、9割近い子たちがベル一つで、どんどん敗退していきます。
まるで他人事のように「ずいぶん残酷だなあ」と感じていました。でも思っているより、落ちた子たちも割とサバサバとしています。

近くの席で、女の子が家族や友達と、「また落ちちゃった」なんて言っているのが聞こえました。それで分かりました。
何度もチャレンジしている子たちがいるんだ、と。私が恐る恐る家族と出演の相談をするレベルとは全く違うのです。落とされてもくじけず、メディアに出るチャンスを何度も、したたかにねらっている子たちが、本当に多いのだと感じました。(もちろんそんな子たちばかりではなかったのですが)
ただの度胸試しで遊びに来たぐらいの子たちもいました。実に、いろんな子がいるものだと思いましたね。

その中で、ひときわ目を引く女の子がいました。

見かけは3,4年生ぐらい。予選だというのにドレスを着ています。今思えば、顔もうっすらとメイクしていたと思います。
お人形さんのようにかわいい子。明らかにまわりとオーラが違います。どんなかわいらしい歌を歌うのかと思いきや、歌いだしたのは八代亜紀さんのド演歌。「おんな港町」だったか「愛の終着駅」だったか…どっちにしても超絶難易度の高い曲。声色は全然ハスキーじゃなくて、むしろ「この声なら石川さゆりさん歌ってほしい」と言いたくなるような芯の通った声でした。ごめんなさい、名前は忘れました。
もちろん合格しました。
ところがこの子、自分の席に戻ると、お母さんと思しき方から何やらお叱りを受けているようなのです。きっと細かい表現についてのダメ出しだったのでしょう。
そう。この女の子は素人ではない。おそらく個人レッスン、または芸能事務所所属でプロ歌手を目指している子だったのだと思います。
その後彼女は私の出演した回ではないときに「どんぐり音楽会」に出演して、その週のチャンピオンになっていましたし、前回述べた東海テレビの番組にも出ていました。ちょっとした賞荒らし、有名人だったのだろうと思います。どこに出演するときも八代亜紀さんの歌を歌っていました。
あのルックスと歌唱力なら、おそらく芸能界入りしたと思うのですが、残念ながらその後のことは知りません。

私は当時から「歌」にしか興味がなかったのでわからなかったのですが、その頃にはもう「どんぐり音楽会」のような番組は、ただののど自慢番組から、芸能界への登竜門のような気持で出演している子が多くなっていた、ということになります。ですから今記した八代亜紀を歌うような子は極端だとしても、名古屋にもすでに巣山プロや劇団ひまわりのような事務所に所属していた子は多くいたでしょうし、世に出るための一つの手段、ステップとしてどんぐり音楽会の予選に出ていた子が非常に多かったのだ、と思われます。

むしろ私に対して、「じゃあ、お前はなんでこの番組に出ようとしてるんだよ?」と目的を質問されるほど。

私は歌が好きだし、いい歌披露したいし、歌って褒めてもらえば嬉しいし。本当にそれだけでした。今でも基本それは変わっていません。

さて、私が歌う番になりました。不思議とそれほどは緊張しませんでした。ベルが2回鳴った時は、もちろんうれしかったです。ですが、大した記憶がないんですね。それほど、この予選会で見たいろんな人々や光景が衝撃的だったのです。
両親も喜び、励ましてくれました。がこれも不思議なもので、私と同じくそれほど興奮したわけでもなく、「よかったな。今度は本番だな。」ぐらいの会話でした。

この時何人ぐらいの子が合格していたのかは覚えていません。が、20人はいなかったと思います。私はこの日に合格したメンバーで、本番1回分の収録を行うのだと思っていましたが、そうではなかったのです。他の回の予選通過の子たちもごちゃ混ぜにして、それぞれの収録に振り分けていたようです。


長い長い1日が終わりました。中央線の、遅い電車で家族で帰ったことを覚えています。

予選通過の結果は祖母も喜んでくれ、学校にも、「まだクラスメイトには内緒」ということで通過の報告をしました。

予選を通過すれば、あとは局からの連絡を待って、本番収録に臨むだけなのですが…
次回述べます…
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どんぐり音楽会の思い出 その3 たった一度の予選会

2023-05-04 12:23:38 | ライフ
【祖母の立場】
祖母は静岡県磐田市で生まれ育った苦労人でした。身を持ち崩してしまった祖父に成り代わるも主婦以外やったことがなく、家計は火の車、土地も財産も差し押さえられ、
叔父、叔母さんたち口をそろえて「あの時代のことは思い出したくない」といまだに詳しい話は聞かせてくれません。
父をはじめきょうだい達が就職して自立し、ようやく安定して暮らせるようになった頃に私は生まれたので、私はその時代を知りません。すでにその祖父は亡くなっていました。
私は、兄弟仲の良い叔父さんたちと祖母しか見ておりませんが、その頃の無理が祟ったか、祖母は大病を患い、手術後はその磐田の借家も引き払って、私が小学6年生になる直前にこの岐阜県東濃地方にやって来ました。
嫁、姑同居というやつです。その後3年ほど我が家で暮らしましたが病気が再発し、帰らぬ人となりました。

祖母は、基本私をかわいがってくれました。ちびまる子ちゃんの友蔵じいさん…ほどではありませんが、苦労された割には、楽天的な方だったと記憶しています。
どんぐり音楽会の話が出た時、祖母は開口一番、「出たいって言うんだから、やらしてみりゃいいじゃん」
家に来て間もないころで嫁姑の関係性も微妙だったためか、父母は大きく反対することもできず、予選へのはがき応募へと段階が進むこととなりました。

今、当時の祖母の年齢になって思うのですが、おそらく祖母は、たいして何も深く考えていなかった。
祖母は、この結果私がどうなろうと、一切責任がありません。陰口をたたかれることも、恥をかくこともありません。失うものは何もないのですから、「楽しそうだと思うなら何でもやってみな」ぐらいの気持ちだったと思います。

私は、積年の望みがかなったかと勘違いして小躍りしました。
そうです。話はまだ、「応募はがきを出す」段階にしか来ていないのです。当時の私は、「予選っていうのがあるんだな」ぐらいの認識しかありませんでした。


【予選の時に気づく コピーって何?】
考えていなかった最初の壁は、すぐにやってきました。
予選会実施要項が届いたのです。
歌う曲の楽譜を持参すること。曲名を記してCBCに事前に送ること…のようなことだったと思います。
曲はもう決めてありました。前回記した「落ち葉」(チャイコフスキー、古いフランスの歌)です。私は、自分の学校放送の「のど自慢の時間」ぐらいの認識しか持っていませんでした。
覚えていないのは、「楽譜をどうやって送っていたのだろう?」ということ。この時代私の町には、コピー機というものが存在しませんでした。
父母が印刷屋さんで頼んでいたのか、学校の青焼きコピーだったのか…これが実は後々(だいぶ後で)トラブルの原因となります。

予選は、1977(昭和52)年11月初旬ぐらいだったのではないかと思っております。
日曜日だったのではないかと思います。だから級友たち、誰にも知られずに出ることができました。学校の先生にだけは、知らせてあったと思います。(楽譜のこともありましたし)
もう本当に、このあたりの記憶はあいまいです。
場所は、CBCホールでした。受付をすますと、客席にそのまま通されたと思います。
例の青い椅子。今でこそリニューアルしてきれいですが、1977年当時、すでにシートの色はすすぼけていて、(うわぁ…)と思ったことを覚えています。テレビカメラに映る色と、現実との違いを初めて感じた一瞬でした。

何より驚いたのは、参加者の多さです。田舎者の私は、「出たい子がこんなにもいるのか!!」と驚いたものです。だって6年間通った自分の学校で、この番組に出ようとした人など一人もいませんでしたから。
予選があっても、せいぜい2人に一人ぐらいの合格率で、テレビに出られるだろうと、ホールに来るまでは本気で考えていました。
ざっと数えただけでも、ゆうに100人は超えています。「この中から選ぶのか?」
自分が選ばれるかどうか、よりも、この人の多さに、めまいにも似た感覚を覚えました。しかし、同時に自覚しました。
「この予選が通らなかったら、学年的に、もう二度とチャンスはない。この1回にかけるしかない。」

自分にとって、たった1回の予選会が始まりました。


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