昔は、安保闘争というものがありまして
でもこの時も、結局デモ隊は、きわめて不勉強だったと、当時参加された方たちは話しておられます
リードを取るごくごく少数の人物にイデオロギーがそれなりにあり、うまいこと人を集める扇動力のある人物がおり、だんだん過激な闘争へと動いて行ったそうです
私のものごころついた頃は、70年安保の騒ぎの末期であり、あさま山荘事件があり、あれだけ激しくやりあったわりには、
トイレットペーパーが確保できるかどうかということのほうが重要な事件となって、安保騒ぎは終息、一部の過激派が残るという結果となりました。
平和について、あの時期真剣に考えた国民はどれだけいたのでしょう。
私も小学生から中学生にあがるころ。
「戦争は嫌だ。悲惨だ。反対を唱えていることが何よりも大事なんだ」と考えておりました。平和とは、戦争がないこと
でも、その胡散臭さに徐々に気づいてきたころでもありました。
大学にあがった頃、同級生にこう話しました。「俺は戦争になんか行かない。万一戦争に巻き込まれそうになったら、国を飛び出していけばいい。」
すると同級生たちは、鼻でせせら笑い、そっきり会話に入れてくれませんでした。
お前ほど学んでいない人間と、対話なんかしたくないね、という意思がしっかりと伝わってきました。
…
それは、保身かもしれないが、価値観が自分にしか向いていない。周りの仲間にはどうなってほしいのだ。自分の身だけを逃がす人間が、他人と心を許しあい、仲間の幸せをも願う、ましてや社会の充実を願う人間になれるのか。
戦争のない、兵役のない人生を送ろうと考え、そういう世の中にしていく責任をこそ、我々は担うべきなのではないのか
そういうことなのだろうと思います。
しかし、平和とは、戦争さえなければよい、ということでもないでしょう。
私は、憲法9条には賛成ですし、そういう日本の時代を生きた人間です。
しかし、とりあえず「9条守れ」とシュプレヒコールしているメンバーに聞きたい
この前中国が尖閣に侵入したとき、何もできなかった日本の対応について、どう思っているのか
竹島にいろんな物的証拠を作っている韓国の行動に対して、話し合えば何とかなると思っているのか
話せばわかってもらえる、ということを、本当に考えているのか
それに対する明確で、全員同一の具体的答えを示してから、デモをやらなければならない
今回の件では、谷垣さんが完全に勝利です。
「デモをやるなとは言いません。でも、現状について、包括的に、広い視野で、情報を見つた上でよく考えてほしい。」
マスコミは今回、「安保に対する一方的な安倍政権の暴走に、みな不安で、いてもたってもいられずデモに参加した」「海外マスコミも取り上げている」というような内容で報じてきました。
不安ならば、勉強しましょう。
世界中の、紛争の中で心を失っている人たち、恨みしか残っていない難民たち、何百年にわたる負の連鎖が断ち切れず、来る日も来る日も報復の大地の上であえいでいる人たちの前で、
「日本を見習いなさい。武器を捨て、平和に暮らしています。皆さん、平和が大事なんです。」
…って、言えますか?
彼らの前で、現実的にしなければならないことが、平和に暮らす私たちを見せつけることなのかどうか、考えましょう。(いや、Yesと私は言いたいのですが)
デモを行っていない私が言うのもなんですが、
まず、学びましょう。
何が何でも選挙に行きましょう。
「それを考えるのが政治家だ」というの、もうやめましょう。政治家にとっても難問であることは、分かるじゃないですか。
どうしても私たちが、何らかの案を出さなければならないように思います。
ちなみに、与党安倍政権は言っています。
このままでは、日本の維持は危ない。
その原因が何であって、だからこうするべきだ、という論を進めています。
反対意見を出すのならば、まずは同じく、このままで、日本が危ないのか、安泰なのか、その見解から統一意見を出していただくべきですね。
全ては、そこからです。
でもこの時も、結局デモ隊は、きわめて不勉強だったと、当時参加された方たちは話しておられます
リードを取るごくごく少数の人物にイデオロギーがそれなりにあり、うまいこと人を集める扇動力のある人物がおり、だんだん過激な闘争へと動いて行ったそうです
私のものごころついた頃は、70年安保の騒ぎの末期であり、あさま山荘事件があり、あれだけ激しくやりあったわりには、
トイレットペーパーが確保できるかどうかということのほうが重要な事件となって、安保騒ぎは終息、一部の過激派が残るという結果となりました。
平和について、あの時期真剣に考えた国民はどれだけいたのでしょう。
私も小学生から中学生にあがるころ。
「戦争は嫌だ。悲惨だ。反対を唱えていることが何よりも大事なんだ」と考えておりました。平和とは、戦争がないこと
でも、その胡散臭さに徐々に気づいてきたころでもありました。
大学にあがった頃、同級生にこう話しました。「俺は戦争になんか行かない。万一戦争に巻き込まれそうになったら、国を飛び出していけばいい。」
すると同級生たちは、鼻でせせら笑い、そっきり会話に入れてくれませんでした。
お前ほど学んでいない人間と、対話なんかしたくないね、という意思がしっかりと伝わってきました。
…
それは、保身かもしれないが、価値観が自分にしか向いていない。周りの仲間にはどうなってほしいのだ。自分の身だけを逃がす人間が、他人と心を許しあい、仲間の幸せをも願う、ましてや社会の充実を願う人間になれるのか。
戦争のない、兵役のない人生を送ろうと考え、そういう世の中にしていく責任をこそ、我々は担うべきなのではないのか
そういうことなのだろうと思います。
しかし、平和とは、戦争さえなければよい、ということでもないでしょう。
私は、憲法9条には賛成ですし、そういう日本の時代を生きた人間です。
しかし、とりあえず「9条守れ」とシュプレヒコールしているメンバーに聞きたい
この前中国が尖閣に侵入したとき、何もできなかった日本の対応について、どう思っているのか
竹島にいろんな物的証拠を作っている韓国の行動に対して、話し合えば何とかなると思っているのか
話せばわかってもらえる、ということを、本当に考えているのか
それに対する明確で、全員同一の具体的答えを示してから、デモをやらなければならない
今回の件では、谷垣さんが完全に勝利です。
「デモをやるなとは言いません。でも、現状について、包括的に、広い視野で、情報を見つた上でよく考えてほしい。」
マスコミは今回、「安保に対する一方的な安倍政権の暴走に、みな不安で、いてもたってもいられずデモに参加した」「海外マスコミも取り上げている」というような内容で報じてきました。
不安ならば、勉強しましょう。
世界中の、紛争の中で心を失っている人たち、恨みしか残っていない難民たち、何百年にわたる負の連鎖が断ち切れず、来る日も来る日も報復の大地の上であえいでいる人たちの前で、
「日本を見習いなさい。武器を捨て、平和に暮らしています。皆さん、平和が大事なんです。」
…って、言えますか?
彼らの前で、現実的にしなければならないことが、平和に暮らす私たちを見せつけることなのかどうか、考えましょう。(いや、Yesと私は言いたいのですが)
デモを行っていない私が言うのもなんですが、
まず、学びましょう。
何が何でも選挙に行きましょう。
「それを考えるのが政治家だ」というの、もうやめましょう。政治家にとっても難問であることは、分かるじゃないですか。
どうしても私たちが、何らかの案を出さなければならないように思います。
ちなみに、与党安倍政権は言っています。
このままでは、日本の維持は危ない。
その原因が何であって、だからこうするべきだ、という論を進めています。
反対意見を出すのならば、まずは同じく、このままで、日本が危ないのか、安泰なのか、その見解から統一意見を出していただくべきですね。
全ては、そこからです。