songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

献身

2010-02-28 22:45:21 | Weblog
前回の藤原正彦さんの話の中で、もうひとつ聞き逃せないキーワードがありました。
「献身」「謙虚」です。

古臭い言葉です。献身的に、なんて、主体性がなく、盲目的に自らをささげていく気持ち。
およそ現代の気風に合いません。私も正直、苦手です。

しかし藤原さんは言うのです。「献身的な仕事や行いこそが、世界に冠たる日本を作りだしてきた原動力であり、諸外国に先んじていた要素だったのだ。」
「幕末から明治にかけて、ヨーロッパの人たちが日本人の心のありように驚いたことがある。謙虚な態度というのは、イギリスの紳士など、ごく一部の上流階層の人だけが持っていた品格であったからだ。国民的に謙虚さを持つ日本人には驚かされるばかりだった。」

私はその時、あの手塚治虫氏のことを思い出していました。
天才:手塚治虫。
驚くほどのバイタリティーと博学、探究心、もちろん画才。
彼の漫画、アニメへの情熱は自ら湧き出たものに違いありませんが、あれだけの才能をもってすれば、億万長者となって悠々自適の生活が当然できたはずです。

しかし手塚氏は、その国宝級の才能と情熱を、実質上無償に近い形で私たちに分け与えてしまった。
週に一度、30分のアニメ番組「鉄腕アトム」を作った時、手塚本人はじめ、すべての人が、無理だと思ったそうです。それだけの枚数を描くことは人間にはできない。それでも推し進めて、アニメ化させてしまった。制作現場では次々と人が倒れ、本人も倒れ、地獄絵のような状況で、それでも最終回までこぎつけたという。

この実績が、日本中にアニメブームをよび、今日のアニメ大国の大きな礎となっています。海外がなぜ追いつけないか。それは、「こんなに安くてやってられるか」というコストで、日本はやりきっていたからだそうです。これこそ、「献身」以外の何物でもありません。
当の手塚プロは「トリトン」制作後に倒産。掛け値なしで、「儲け度外視の奉仕作業」で仕事をしていたことがわかります。

現在、アニメ製作は、ほとんど韓国、中国人のスタッフで行われています。経済構造は確かに変わりました。しかし、献身的に、情熱に突き動かされて何かを成し遂げようとする人が現れない限り、日本の「次」はないのかもしれません。
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自己を見つめることなかれ

2010-02-21 16:34:40 | ライフ
相変わらず忙しい毎日を送っております。

今朝たまたまラジオを聞いていたら、ベストセラー「国家の品格」著者、お茶の水女子大の藤原正彦さんが出演しておられました。
お恥ずかしながら、私はその本を読んでおりません。しかし、聞いているうちに、おぼろげながら、藤原さんがおっしゃりたかったことが分かるような気がして、興味深く聞きいってしまいました。

おそらくこの方の主張には微妙に偏っているのだと思われます。
かつて「君が代」についてさんざん述べてきた私がここでこの方の名前を挙げると、
「ほーらやっぱりお前はそういう思想に染まっているんだよ。」
と攻撃されかねないような方なのだろうと思いながら聞いていました。支持も否定もするつもりはありません。

番組後半、「今の若者におっしゃりたいことはありますか?」の問いに、
「1.自分を客観的に見ようとすることをやめなさい。
 2.常に楽観的でありなさい。」
とお答えになったことは、しかしながら、わが意を得たり、と、膝をぽんと叩きたくなるような話で、大変考えさせられるものでした。

かつてどこかで自分も書いたかもしれませんが…
私自身が音楽の力を伸ばすことができたのは、「自分は音楽が好きで、多少才能がある」
と、客観的に言う「勘違い」を抱き、長い間、その、「実態のないわけのわからない自負」が意欲と努力を持続させてくれたからなのです。

差別、不謹慎と紙一重のことを書いてしまうかもしれませんが、
情緒に障がいを抱える子の中に、大変な才能を開花させるパターンがよくあります。
人からどう思われているか、とか、客観的にこれはどうなんだ、と思うことがほとんどないほうが、むしろとことん求める道へ突き進むことができるということだと思うのです。

ドリカムの吉田さん(私も同世代です)が、「私は歌が好きで、外ではところ構わず大声で歌っていた。それが現在の私の原動力」と言っていたことがあります。私も全く同じような生活をしていました。ま、私はあそこまでは進みませんでしたが。
私の場合、高校2年までそれを続けていて、自転車に乗りながら大声で歌っていたら、通りすがりの家から、「うるさい」の声が聞こえて、ああ、周りに聞こえているんだ、と気づいてやめたぐらいですから、ある意味相当情緒障がいレベルです。17年目にして気付いたのですから。(田舎ですので、道端にだれも歩いていなければいつも歌っていたのです。しかも全力で高い声張り上げて。)

でも、そうやって歌いながら自分の歌や音感を鍛えていった日々があったから、今の自分があります。周りの迷惑とか、客観的に聞くとへたくそとか、考えていなかった時期が非常に貴重だったのです。

楽観的であれ、という話も面白かったです。裏打ちされた自信なんてなくていい。まず、できるという構えを持つことが、可能性を広げると。それもわかりますね。

それに引き換え、私たちの職業(一応教育にかかわっています)は、どうなのだろうと自問自答しているのです。
「自分はどんな人間だろう」
「自分の特性、得意なことは何だろう。進路に生かせないかな。」
「あなたの行動が、人からどう思われているか、わかるかな?」

自分を客観視することによって自己を修正し、まともな人物になろうとすることを目標に教育活動は行われています。そういうことも大事なのですが、そればかりではどうなのかと。

難しいテーマですね。
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