オリンピックも終盤になってきました。
こんなにメダルを取るとは思いませんでした。
三宅選手の重量挙げに始まり、多くの種目で、感動に胸が震えました。
彼らの多くは、いわゆる「ゆとり世代」。
学力が足りないとか、世界水準で戦えないとか、空白の数十年とか散々な言われようをした世代です。
私も、ゆとり教育の行き過ぎに、疑問を持ちながらも何もできずに長年文部科学省の「意図」とやらを読み取ろうとしてあがいてきた一人です。
正直言って、「本当にこれでいいのか」と思うことがずいぶんありましたし、いまだにその弊害から逃れられず、悪循環の中で出口の見えない子たちがたくさんいます。
なにが「内容を簡単にする代わりに、全員が必ず完璧に習得できる内容を教え切る」だよ
グレーゾーンと言う言葉の意味すら知らない机上の理論者をトップにしていたせいで、現場は大変混乱しました。
いまでも文部科学省、中教審らの「思い付き教育案」「思いついたから研究指定校割り当てと実施報告ね」によって多くの教師と子どもはひどい迷惑をこうむっています。
しかし、何事も、「極端から極端へ」は非常によろしくない
世の中、「ゆとりは失敗だったから今後は徹底して学力アップへ、グローバルで戦える子を」に向かってまっしぐらのように見えます。
ちょっと待ってください、です。
そのゆとりの子たちが、今回のオリンピックで素晴らしい成果を上げています。
一番メダルを取っていなかったのが、今の政治家、世の中の中心になろうとしている世代の皆さんが若かった時代です。
ゆとりのすべてが悪だったという短絡思考はやめなければいけません。とにかく極端にはしてはいけません。
で、話は全く変わるのですが。
ゆとりの世代と言われた子たちがオリンピックの選手になって画像で見せる顔、本当に美しくて、心がときめきます。
うちの家族も、卓球の水谷選手を見ながら、最初は何をやっていても波多陽区にしか見えなかったのに、だんだん、かっこいい男に見えてきた、と言っています。
いや、波多さんをかっこ悪いと言っているわけではありませんよ。
でも、かっこいい顔、いい男、いい女というのはそういう顔だということに、だれも異論はないと思います。
汗だくになって、なりふり構わず、必死に食らいつく表情
1970年代にピークを迎えたモーレツ時代の反動のためか、1980年代以降、むき出しの必死な「さま」は、かっこ悪い、ダサい、と、徹底的に排除されてきたように思います。
もちろん一生懸命やってきた人はいるけど、そういう表情を見せることがはばかられるような風潮
クールに、さらりと勝利を持っていく姿に理想像が流れていきました。
メダルが少なくなったのも、その時代です。
かつて私が中学生を教えていた頃、異様な光景(今の子たちにとっては普通なのでしょうが)を毎日見ていました。
体育や部活など、運動が終わって教室に入ってきた生徒は、教室で一斉に制汗スプレーをこれでもかというほど体にかけているのです。
数十人が一斉にやっていました。
意図はもちろんわかります。汗臭いと言われたくない。エチケットだ、と。
でも私の学生時代は、よほど臭くない限り、汗を書けばお互い多少におうことなど全く気にすることはありませんでした。
汗をかいたから、当然だ、と。それが好きな女の子であってもです。
考えすぎだ、と言われそうだったので言いませんでしたが、スプレーをかけているその中学生たちを見て、私は少々哀れな気持ちになっていました。
汗臭さ、泥臭さを残して何が悪い。むしろかっこいいことが多いのに、と。
そういう子たちは、やはり合唱などに取り組んでも、真剣に歌うことはできませんでした。
あるクラスの子は、合唱発表会本番前の舞台脇でくしを取り出し、一生懸命髪型を作っているのです。
別にそれはよいのですが、やはり本番ではつんと澄まして表情は乏しく、とても魅力的とはかけ離れた態度として観客には映ってしまうのでした。
私も若いころ、人の目を気にし「なさすぎ」て、ずいぶんぶつかったり、悩んだり、失敗したりしました。
でも、その分愚直に一生懸命を通していたように思います。
今回のオリンピックの選手たちに、そんな表情がすごくたくさん見られました。
そういう人に限って、顔の造形はともかく(失礼)ちゃんとメイクしてテレビのスタジオに来ると、美男美女ぞろいで
むしろそのギャップにも心奪われます。
あの制汗スプレーの学生たちに、今の自分ならばどんな言葉がかけてあげられただろうか、と考えさせられるのです。
こんなにメダルを取るとは思いませんでした。
三宅選手の重量挙げに始まり、多くの種目で、感動に胸が震えました。
彼らの多くは、いわゆる「ゆとり世代」。
学力が足りないとか、世界水準で戦えないとか、空白の数十年とか散々な言われようをした世代です。
私も、ゆとり教育の行き過ぎに、疑問を持ちながらも何もできずに長年文部科学省の「意図」とやらを読み取ろうとしてあがいてきた一人です。
正直言って、「本当にこれでいいのか」と思うことがずいぶんありましたし、いまだにその弊害から逃れられず、悪循環の中で出口の見えない子たちがたくさんいます。
なにが「内容を簡単にする代わりに、全員が必ず完璧に習得できる内容を教え切る」だよ
グレーゾーンと言う言葉の意味すら知らない机上の理論者をトップにしていたせいで、現場は大変混乱しました。
いまでも文部科学省、中教審らの「思い付き教育案」「思いついたから研究指定校割り当てと実施報告ね」によって多くの教師と子どもはひどい迷惑をこうむっています。
しかし、何事も、「極端から極端へ」は非常によろしくない
世の中、「ゆとりは失敗だったから今後は徹底して学力アップへ、グローバルで戦える子を」に向かってまっしぐらのように見えます。
ちょっと待ってください、です。
そのゆとりの子たちが、今回のオリンピックで素晴らしい成果を上げています。
一番メダルを取っていなかったのが、今の政治家、世の中の中心になろうとしている世代の皆さんが若かった時代です。
ゆとりのすべてが悪だったという短絡思考はやめなければいけません。とにかく極端にはしてはいけません。
で、話は全く変わるのですが。
ゆとりの世代と言われた子たちがオリンピックの選手になって画像で見せる顔、本当に美しくて、心がときめきます。
うちの家族も、卓球の水谷選手を見ながら、最初は何をやっていても波多陽区にしか見えなかったのに、だんだん、かっこいい男に見えてきた、と言っています。
いや、波多さんをかっこ悪いと言っているわけではありませんよ。
でも、かっこいい顔、いい男、いい女というのはそういう顔だということに、だれも異論はないと思います。
汗だくになって、なりふり構わず、必死に食らいつく表情
1970年代にピークを迎えたモーレツ時代の反動のためか、1980年代以降、むき出しの必死な「さま」は、かっこ悪い、ダサい、と、徹底的に排除されてきたように思います。
もちろん一生懸命やってきた人はいるけど、そういう表情を見せることがはばかられるような風潮
クールに、さらりと勝利を持っていく姿に理想像が流れていきました。
メダルが少なくなったのも、その時代です。
かつて私が中学生を教えていた頃、異様な光景(今の子たちにとっては普通なのでしょうが)を毎日見ていました。
体育や部活など、運動が終わって教室に入ってきた生徒は、教室で一斉に制汗スプレーをこれでもかというほど体にかけているのです。
数十人が一斉にやっていました。
意図はもちろんわかります。汗臭いと言われたくない。エチケットだ、と。
でも私の学生時代は、よほど臭くない限り、汗を書けばお互い多少におうことなど全く気にすることはありませんでした。
汗をかいたから、当然だ、と。それが好きな女の子であってもです。
考えすぎだ、と言われそうだったので言いませんでしたが、スプレーをかけているその中学生たちを見て、私は少々哀れな気持ちになっていました。
汗臭さ、泥臭さを残して何が悪い。むしろかっこいいことが多いのに、と。
そういう子たちは、やはり合唱などに取り組んでも、真剣に歌うことはできませんでした。
あるクラスの子は、合唱発表会本番前の舞台脇でくしを取り出し、一生懸命髪型を作っているのです。
別にそれはよいのですが、やはり本番ではつんと澄まして表情は乏しく、とても魅力的とはかけ離れた態度として観客には映ってしまうのでした。
私も若いころ、人の目を気にし「なさすぎ」て、ずいぶんぶつかったり、悩んだり、失敗したりしました。
でも、その分愚直に一生懸命を通していたように思います。
今回のオリンピックの選手たちに、そんな表情がすごくたくさん見られました。
そういう人に限って、顔の造形はともかく(失礼)ちゃんとメイクしてテレビのスタジオに来ると、美男美女ぞろいで
むしろそのギャップにも心奪われます。
あの制汗スプレーの学生たちに、今の自分ならばどんな言葉がかけてあげられただろうか、と考えさせられるのです。