ソナタ論で進めてまいりましたが、とにかくなかなか更新できないところで、時間がたちすぎてしまいました。
論が進められなかった理由はいろいろありましたが、その中に、
「思った以上にちりとてちんは語られている」
「論ずる相手がでかすぎる」
というものがありました。
特に、ここから後は、「再現部、終結」という、このドラマの醍醐味に踏み込もうとしたのですが、いかんせん、再現されている部分が多すぎる。あまりにも見事すぎるのです。
また、私もそこまでマニアに見ていたわけではありません。
ただ、再三申し上げたいこととして、このドラマは、最初から考えられていた構想が非常にしっかりとしており、あらすじだけでなく、構造の美しさを初めて感じさせられたドラマだったのです。
いつか余裕があったらまた述べていきたいと思いますが、ひとまずここまで。
ソナタ、という形式美を通して「ちりとてちん」を語ってきましたが、あらすじの安っぽくないところも大好きでした。
特に感心させられたのが、A子、後半の描写。
東京から、A子は「やさぐれて」帰ってきます。
小草若と同じく、やさぐれているときの登場人物は、基本的に黒っぽい服を着ています。ですから、この時期のA子は、「黒A子」と呼ばれております。
このA子の黒状態がどうなっていくか。
最終回に向けて、必ず光が差してくるとは思っていたものの、当時見ていた私は、はらはらしながら注目していました。
初めは、思い出したように時々登場してはそのやさぐれた面をのぞかせていきます。それでも十分すぎるほどのインパクトはありましたが。
で、4週間もかかって、ようやく話が動き出します(その間に師匠が亡くなるので仕方ないと言えば仕方がないのですが)。21週目、B子の前で、
「B子のせいで、私の人生、めちゃくちゃや。」と、ついに爆発するA子。このセリフも、3週目の「A子のせいで、私の人生、めちゃくちゃや」の対になっている「再現部」の一つです。
ま、それは置いておいて。
この爆発こそ、A子が、喜代美の前でしかできない「泣き言、愚痴、弱みのさらけ出し」であり、後々考えれば、「どんだけB子のこと好きやねん。」と突っ込みたくなるほどの、大好き大好きの愛情表現の裏返しなのですね。清海にとって、世界でたった一人だけ、素直な自分を見せられるのが喜代美である証拠なのです。
…
安っぽいドラマであれば、いや、相当名作といわれるドラマでも、一度爆発してしまったA子のような緊急事態に対し、早急な修復が図られるのが普通です。
一度大げんかをして、和解の道を開く。
順ちゃんがキレて、どちらかにアクションを起こさせる。
思わぬイベントが起きて、それをきっかけに、二人の誤解が解けていく
などなど。
しかしこのドラマは、そのいずれも選ばなかった。
B子が乗り込んで、見合いを止めさせに行くところでも、大げんか、和解という筋にはならなかった。
秀臣さんと小梅さんとの和解をきっかけに喜代美が小浜での落語に清海を呼ぼうとしたところでも、「悪いけど、わたしはまだ、そんな気になれんさけ。」と、決して安易で、ありがちな展開には持っていきませんでした。
徹底的に丁寧に、しかもリアルに、一度崩れた心が芯から立ち直っていくまでのあゆみと時間が、結局9週間もの長きにわたって語られていったのです。その中には、このドラマのテーマになる要素が、ふんだんに盛り込まれておりました。私はこの深さに全く恐れ入ってしまいました。
これはもう、芸術だ、と。
二人が出会ってから、本当の友達になれるまで、結局26週間。この二人も、壮大なソナタの中の重要な核として奏でられていったのです。
論が進められなかった理由はいろいろありましたが、その中に、
「思った以上にちりとてちんは語られている」
「論ずる相手がでかすぎる」
というものがありました。
特に、ここから後は、「再現部、終結」という、このドラマの醍醐味に踏み込もうとしたのですが、いかんせん、再現されている部分が多すぎる。あまりにも見事すぎるのです。
また、私もそこまでマニアに見ていたわけではありません。
ただ、再三申し上げたいこととして、このドラマは、最初から考えられていた構想が非常にしっかりとしており、あらすじだけでなく、構造の美しさを初めて感じさせられたドラマだったのです。
いつか余裕があったらまた述べていきたいと思いますが、ひとまずここまで。
ソナタ、という形式美を通して「ちりとてちん」を語ってきましたが、あらすじの安っぽくないところも大好きでした。
特に感心させられたのが、A子、後半の描写。
東京から、A子は「やさぐれて」帰ってきます。
小草若と同じく、やさぐれているときの登場人物は、基本的に黒っぽい服を着ています。ですから、この時期のA子は、「黒A子」と呼ばれております。
このA子の黒状態がどうなっていくか。
最終回に向けて、必ず光が差してくるとは思っていたものの、当時見ていた私は、はらはらしながら注目していました。
初めは、思い出したように時々登場してはそのやさぐれた面をのぞかせていきます。それでも十分すぎるほどのインパクトはありましたが。
で、4週間もかかって、ようやく話が動き出します(その間に師匠が亡くなるので仕方ないと言えば仕方がないのですが)。21週目、B子の前で、
「B子のせいで、私の人生、めちゃくちゃや。」と、ついに爆発するA子。このセリフも、3週目の「A子のせいで、私の人生、めちゃくちゃや」の対になっている「再現部」の一つです。
ま、それは置いておいて。
この爆発こそ、A子が、喜代美の前でしかできない「泣き言、愚痴、弱みのさらけ出し」であり、後々考えれば、「どんだけB子のこと好きやねん。」と突っ込みたくなるほどの、大好き大好きの愛情表現の裏返しなのですね。清海にとって、世界でたった一人だけ、素直な自分を見せられるのが喜代美である証拠なのです。
…
安っぽいドラマであれば、いや、相当名作といわれるドラマでも、一度爆発してしまったA子のような緊急事態に対し、早急な修復が図られるのが普通です。
一度大げんかをして、和解の道を開く。
順ちゃんがキレて、どちらかにアクションを起こさせる。
思わぬイベントが起きて、それをきっかけに、二人の誤解が解けていく
などなど。
しかしこのドラマは、そのいずれも選ばなかった。
B子が乗り込んで、見合いを止めさせに行くところでも、大げんか、和解という筋にはならなかった。
秀臣さんと小梅さんとの和解をきっかけに喜代美が小浜での落語に清海を呼ぼうとしたところでも、「悪いけど、わたしはまだ、そんな気になれんさけ。」と、決して安易で、ありがちな展開には持っていきませんでした。
徹底的に丁寧に、しかもリアルに、一度崩れた心が芯から立ち直っていくまでのあゆみと時間が、結局9週間もの長きにわたって語られていったのです。その中には、このドラマのテーマになる要素が、ふんだんに盛り込まれておりました。私はこの深さに全く恐れ入ってしまいました。
これはもう、芸術だ、と。
二人が出会ってから、本当の友達になれるまで、結局26週間。この二人も、壮大なソナタの中の重要な核として奏でられていったのです。