風がはこぶもの【本田路津子さんの曲を 五十路後半男性だけど歌います】
【本番中あれこれ】
①本番中のおしゃべり
これは放映後、同級生に言われたことでしたが、
「ねえ、〇〇君(私のことです)、控えの席のところで、他の出番の女の子としゃべっていたじゃん。どうしたの?もう仲良くなっちゃったの?」
普通、出演者が歌っていたり、話していたりする番組の進行中に、私語などもってのほか。自分でもその指摘を受けるまでは覚えていませんでした。が、言われて少し思い出しました。
どの時間帯だったかは忘れましたが、確かに収録中、控えの席で隣の女の子に何かしゃべりかけられました。私も何も考えておらず、気が緩んでいたのでしょう。(とすると歌った後だったのかも)普通に受け答えをしていたのです。そんなことが一瞬あったことは思い出しました。しかしそれが、はっきりと何らかのアングルで映り込んでいたらしい。ビデオがほとんどない時代で録画がないからわかりませんが、多くの子がその場面を見ていたらしく、「仲良くなっちゃった?」とか詮索してきて私も慌てました。話しかけるほうも話しかけるほうですが、受けて答えていた私も大概ですね。
②あわて床屋
確か本番前の最後のリハで(この時は全員歌う場面は省略させられました)、番組の最後にみんなで一曲歌うという流れがありました。この週のラストの曲は「あわて床屋」でした。
しかし、出演者ほぼ全員がまともに歌えないという事態が発覚!私もかすかな記憶しかなかったので、歌いながらおぼろげな記憶を引っ張り出し、「ああ、こういう曲だった」と、でも気持ちよく歌わせていただきました。自分としては、出番で歌った「落ち葉」よりも、こちらのほうが、伸び伸びと気持ちよく歌えていた記憶があります。
でも、私の世代でも、もう誰も知らない曲になっているということも自覚した瞬間でした。父からはずっと言われておりました。「テレビで流れるような流行歌ばかり歌うような人間になるな。日本には、唱歌、童謡という立派な文化がある。そこに歌の基礎があるのだから」と、
だからと言ってエリート教育的に童謡ばかりを子どもに聴かせるようなことをされた覚えはないのですが、身の回りで歌われていた童謡は普通に聴いていたし、まだ私の世代では、ぎりぎり、子どもたちの遊びの中で自然に童謡を口ずさみ合うような生活、文化が残っていました。ですから「あわて床屋」もすぐに記憶のかけらを呼び出して歌うことができたのですが、ほかの出演者たちにとってはさっぱりだったようです。
おそらく審査員に水谷俊二先生がいらっしゃったこともあり、あの「最後の歌」のコーナーは、子どもたちに、唱歌や童謡を大切にしてほしいという願いで設けられた時間枠だったのではないかと、あの時にも思っていたし、今もそう信じております。石川進:キューピーちゃんの歌もお見事でした。
③狩人「若き旅人」
狩人のお二人にとっては凱旋出演だったのかもしれませんね。国民的大ヒット曲「あずさ2号」から、「コスモス街道」、そして1977年末に発売した3枚目のシングル「若き旅人」と、ヒット曲を連発していらっしゃいました。
「どんぐり音楽会」では、この「若き旅人」を歌われておりました。そしてその時初めて、私は「カラオケ」という言葉が業界にあることを知ったのです。
私たち出演者は、みんな、生のバンドをバックに歌いましたが、ゲストの狩人さんが歌うときには、そのバンドの皆さんは演奏されていませんでした。その代わり、モニタースピーカーから、豪華な演奏が聴こえ、それをバックに狩人さんは歌っていらっしゃいました。世に言う「カラオケ」です。
そんな仕組みがあるとは知らず、少なからず私はカルチャーショックを覚えました。1970年代は、まだそういう時代だったのです。その「カラオケ」という言葉が世の中で普通に使われるようになり、国民がみんなマイク片手に歌うようになったのは、その数年後のことでした。
私たち出演者は残念ながら狩人のお二人と直接会話やコンタクトを取ることはできませんでしたが、以前述べさせていただいたような経緯で、私は(おそらく)特別に、狩人さんのサイン色紙をいただくことができました。
収録終了後、提供各社からの参加賞としていろいろお土産をいただいて両親のいる客席に戻っていく私は、どうやっていただいたのか覚えておりませんが、こっそり狩人さんのサイン色紙も持っておりました(おそらくほかの出場者の方は頂いていないと思います)。
すると、目ざとい狩人ファンのお姉さんたちがそれを見つけたようで、私に話しかけてきました。
「あー、サイン持ってる!いいなー!」「ねえ、お願いだから譲ってくれないかなー…
なーんて嘘だよ。おめでとう。大事にしてね。」と、本気とも冗談とも取れない言葉をかけられました。私はいきなり話しかけられて思わず身構えてしまいましたが、この言葉に、「ああ、狩人さんはいいファンをたくさん獲得しているんだな」と(今の私の言葉でいうと)、やけに心が温かくなった記憶があります。
前回の写真にも少し載っていますが、この時の出演者に送られた参加賞は、
・(例の)オリエンタルハンバーグの素、マースカレーもあったと思う
・ハワイの飲み物、グアバ
・長崎堂のカステーラ
・サンビシ醤油詰め合わせ
・納谷橋饅頭 だったと思うのですが、写真を見るに、すでに納谷橋饅頭は提供を撤退していたのかもしれません。私はことのほかあの納谷橋饅頭が大好きだったので、親が遠出した時は必ずお土産にお願いしていたぐらいでした。ですからこの時ももらっていたような気もするのですが…わかりません。
「どんぐり賞」(その週のチャンピオン)は取れませんでした。もしもとっていたとしたら、それこそ中学生になって、チャンピオン大会に出なくてはならなかったのかもしれませんが、まあ、そこまで上手ではなかったということだったのだろうと思います。
かくして収録は終わりました。この夜は親子3人で名古屋駅の飲食店エリア「廣寿司」に行き、食べた「江戸」というメニュー(まぐろと鉄火だけ)のおいしさに驚いたことを覚えています。ねぎらいの言葉ももらいました。今でも名店ですが、「廣寿司」は当時テレビCMも流していたほど有名で、父母も昔名古屋住まいだったこともあり、きっと精いっぱいのご馳走を考えてくれたのだろう、と、今更ながら有難い思いです。父母亡き今、あの夜の食事の時間を思うとぐっと胸に来るものがあります。
④おまけ
で… この日の「どんぐり賞」を取った人
後々じわじわ来た名前の人なので覚えています。「中島美雪」さんと言いました。ただしこちらの地方ですので、「なかしま みゆき」と読みます。シンガーソングライター中島みゆきさんの名前を耳にしたとき、どこかで聞いたことのある名前だよな…と考えていた時に、思い出したのです。「あ、あの時のどんぐり賞の人だ」
そして彼女が歌っていた歌が、本田路津子さんの「風がはこぶもの」
今回動画投稿させていただいたいきさつは、ここからなのです。もちろん大好きな曲です。歌いながら、ずっとどんぐり音楽会のことを思い出していたので、自分の記憶、記録用に、連続して投稿させていただきました。
で、あと少しだけ追記させていただきます。
【本番中あれこれ】
①本番中のおしゃべり
これは放映後、同級生に言われたことでしたが、
「ねえ、〇〇君(私のことです)、控えの席のところで、他の出番の女の子としゃべっていたじゃん。どうしたの?もう仲良くなっちゃったの?」
普通、出演者が歌っていたり、話していたりする番組の進行中に、私語などもってのほか。自分でもその指摘を受けるまでは覚えていませんでした。が、言われて少し思い出しました。
どの時間帯だったかは忘れましたが、確かに収録中、控えの席で隣の女の子に何かしゃべりかけられました。私も何も考えておらず、気が緩んでいたのでしょう。(とすると歌った後だったのかも)普通に受け答えをしていたのです。そんなことが一瞬あったことは思い出しました。しかしそれが、はっきりと何らかのアングルで映り込んでいたらしい。ビデオがほとんどない時代で録画がないからわかりませんが、多くの子がその場面を見ていたらしく、「仲良くなっちゃった?」とか詮索してきて私も慌てました。話しかけるほうも話しかけるほうですが、受けて答えていた私も大概ですね。
②あわて床屋
確か本番前の最後のリハで(この時は全員歌う場面は省略させられました)、番組の最後にみんなで一曲歌うという流れがありました。この週のラストの曲は「あわて床屋」でした。
しかし、出演者ほぼ全員がまともに歌えないという事態が発覚!私もかすかな記憶しかなかったので、歌いながらおぼろげな記憶を引っ張り出し、「ああ、こういう曲だった」と、でも気持ちよく歌わせていただきました。自分としては、出番で歌った「落ち葉」よりも、こちらのほうが、伸び伸びと気持ちよく歌えていた記憶があります。
でも、私の世代でも、もう誰も知らない曲になっているということも自覚した瞬間でした。父からはずっと言われておりました。「テレビで流れるような流行歌ばかり歌うような人間になるな。日本には、唱歌、童謡という立派な文化がある。そこに歌の基礎があるのだから」と、
だからと言ってエリート教育的に童謡ばかりを子どもに聴かせるようなことをされた覚えはないのですが、身の回りで歌われていた童謡は普通に聴いていたし、まだ私の世代では、ぎりぎり、子どもたちの遊びの中で自然に童謡を口ずさみ合うような生活、文化が残っていました。ですから「あわて床屋」もすぐに記憶のかけらを呼び出して歌うことができたのですが、ほかの出演者たちにとってはさっぱりだったようです。
おそらく審査員に水谷俊二先生がいらっしゃったこともあり、あの「最後の歌」のコーナーは、子どもたちに、唱歌や童謡を大切にしてほしいという願いで設けられた時間枠だったのではないかと、あの時にも思っていたし、今もそう信じております。石川進:キューピーちゃんの歌もお見事でした。
③狩人「若き旅人」
狩人のお二人にとっては凱旋出演だったのかもしれませんね。国民的大ヒット曲「あずさ2号」から、「コスモス街道」、そして1977年末に発売した3枚目のシングル「若き旅人」と、ヒット曲を連発していらっしゃいました。
「どんぐり音楽会」では、この「若き旅人」を歌われておりました。そしてその時初めて、私は「カラオケ」という言葉が業界にあることを知ったのです。
私たち出演者は、みんな、生のバンドをバックに歌いましたが、ゲストの狩人さんが歌うときには、そのバンドの皆さんは演奏されていませんでした。その代わり、モニタースピーカーから、豪華な演奏が聴こえ、それをバックに狩人さんは歌っていらっしゃいました。世に言う「カラオケ」です。
そんな仕組みがあるとは知らず、少なからず私はカルチャーショックを覚えました。1970年代は、まだそういう時代だったのです。その「カラオケ」という言葉が世の中で普通に使われるようになり、国民がみんなマイク片手に歌うようになったのは、その数年後のことでした。
私たち出演者は残念ながら狩人のお二人と直接会話やコンタクトを取ることはできませんでしたが、以前述べさせていただいたような経緯で、私は(おそらく)特別に、狩人さんのサイン色紙をいただくことができました。
収録終了後、提供各社からの参加賞としていろいろお土産をいただいて両親のいる客席に戻っていく私は、どうやっていただいたのか覚えておりませんが、こっそり狩人さんのサイン色紙も持っておりました(おそらくほかの出場者の方は頂いていないと思います)。
すると、目ざとい狩人ファンのお姉さんたちがそれを見つけたようで、私に話しかけてきました。
「あー、サイン持ってる!いいなー!」「ねえ、お願いだから譲ってくれないかなー…
なーんて嘘だよ。おめでとう。大事にしてね。」と、本気とも冗談とも取れない言葉をかけられました。私はいきなり話しかけられて思わず身構えてしまいましたが、この言葉に、「ああ、狩人さんはいいファンをたくさん獲得しているんだな」と(今の私の言葉でいうと)、やけに心が温かくなった記憶があります。
前回の写真にも少し載っていますが、この時の出演者に送られた参加賞は、
・(例の)オリエンタルハンバーグの素、マースカレーもあったと思う
・ハワイの飲み物、グアバ
・長崎堂のカステーラ
・サンビシ醤油詰め合わせ
・納谷橋饅頭 だったと思うのですが、写真を見るに、すでに納谷橋饅頭は提供を撤退していたのかもしれません。私はことのほかあの納谷橋饅頭が大好きだったので、親が遠出した時は必ずお土産にお願いしていたぐらいでした。ですからこの時ももらっていたような気もするのですが…わかりません。
「どんぐり賞」(その週のチャンピオン)は取れませんでした。もしもとっていたとしたら、それこそ中学生になって、チャンピオン大会に出なくてはならなかったのかもしれませんが、まあ、そこまで上手ではなかったということだったのだろうと思います。
かくして収録は終わりました。この夜は親子3人で名古屋駅の飲食店エリア「廣寿司」に行き、食べた「江戸」というメニュー(まぐろと鉄火だけ)のおいしさに驚いたことを覚えています。ねぎらいの言葉ももらいました。今でも名店ですが、「廣寿司」は当時テレビCMも流していたほど有名で、父母も昔名古屋住まいだったこともあり、きっと精いっぱいのご馳走を考えてくれたのだろう、と、今更ながら有難い思いです。父母亡き今、あの夜の食事の時間を思うとぐっと胸に来るものがあります。
④おまけ
で… この日の「どんぐり賞」を取った人
後々じわじわ来た名前の人なので覚えています。「中島美雪」さんと言いました。ただしこちらの地方ですので、「なかしま みゆき」と読みます。シンガーソングライター中島みゆきさんの名前を耳にしたとき、どこかで聞いたことのある名前だよな…と考えていた時に、思い出したのです。「あ、あの時のどんぐり賞の人だ」
そして彼女が歌っていた歌が、本田路津子さんの「風がはこぶもの」
今回動画投稿させていただいたいきさつは、ここからなのです。もちろん大好きな曲です。歌いながら、ずっとどんぐり音楽会のことを思い出していたので、自分の記憶、記録用に、連続して投稿させていただきました。
で、あと少しだけ追記させていただきます。