年末に雑誌エスクァイアのことを書きましたが、最近何気なしに昔読んだ本を次々読み直していたら、常盤新平著「はじまりはジャズ・エイジ」という本にエスクァイア創刊の頃の話を偶然見つけました。
「その昔、デーヴィッド・A・スマートとアルフレッド・R・スマートという兄弟がいて、広告業に従事していた。1927年、兄弟はウィリアム・H・ワイントラウプという男と共同で、男性服飾のための業界誌をはじめ、その編集をやはり広告業界に籍をおくアーノルド・ギングリッチという若者にまかせた。ギングリッチはある広告のコピーを書いてデーヴィッド・スマートを感心させたのである。その雑誌「ナショナル・メンズ・ウェア・セールスマン」が成功すると、続いて彼らは「ジェントルマンズ・クォータリー」を創刊した。
1930年、スマート兄弟とワイントラウプは男子服飾店のウィンドー・ディスプレイ用のサービスとして、名士の盛装した写真を売りだした。ところが、それが同業者から攻撃された。写真がインチキだというのである。そこで三人はメンズ・ファッションの季刊誌「アパレル・アーツ」を1931年の10月にはじめた。これは市販せずに、メンズ・ショップにおいて、お客に無料で配ったところ、意外に好評だった。この「アパレル・アーツ」は経済雑誌の「フォーチュン」に似ていたという。スマート兄弟とワイントラウプは気をよくして、新雑誌の創刊を決意した。
伝説によれば、誌名は‘‘Stag”(男)だった。しかし、「スタグ」は商標として登録されていることをワシントンの弁護士がギングリッチに伝えてきた。その手紙の宛名が‘‘Arnold Gingrich, Esq.”となっていた。スマートがそれを見て叫んだのだ。
「エスクァイアだ!雑誌の名前はそれにしよう!」
「エスクァイア」の創刊号は1933年の10月、全米のニューズスタンドから選ばれた一万店で発売された。発行部数は十万部。定価は50セントだから、当時の雑誌としてはいちばん高いほうだった。ギングリッチの回想ではずいぶんもめたそうだが、不景気な30年代だったにもかかわらず、金のある読者を狙うということで、思いきって50セントにしたという。116ページのうち、30パーセントがカラー・ページだったから、制作費も高かったのである。男性雑誌らしく、小説陣にもアーネスト・ヘミングウェイをはじめ、ジョン・ドス・パソス、アースキン・コールドウェル、ダシール・ハメット、など男性的な作家をそろえ、スポーツ欄には、ボクシングのジーン・タニー、ゴルフのボビー・ジョーンズなどを登場させた。はじめは季刊のつもりだった。
ギングリッチは安い原稿料で有名作家の原稿を集めたらしい。他の雑誌が何千ドルも払う原稿をわずか2、300ドルで買ったのだ。作家に注文をつけなかった点がよかったのかもしれない。作家のほうはコマーシャリズムと妥協することなく、文学的に質の高い作品を「エスクァイア」に発表することができたのである。
トーマス・マンも寄稿したし、ヘミングウェイは短編やエッセーをしばしば書いた。ヘミングウェイの短編の代表的傑作とされる『キリマンジャロの雪』は「エスクァイア」に載った。「ジャズ・エイジの桂冠詩人」といわれたF・スコット・フィツジェラルドも「エスクァイア」に数多くの短編とエッセーを発表している。
「エスクァイア」は創刊号から予想以上に売れたので、スマートは季刊からさっそく月刊に切りかえた。雑誌界の予想ではニューズスタンドの売上げは2万5千部程度だろうということだったが、月刊にした最初の号は9万部も売れ、1934年末ー創刊1年後ーには18万4千部に達した。1935年には74万2千部まで伸びている。
(数値、年号他、異説もあり)
この講談社文庫版は1985年に出ていて、その頃読んだはずなのにまったく憶えていません。
新しく発見した気分ですが、後年になって古いエスクァイアを集めたのも、もしかしたら刷り込みでしょうか。
「その昔、デーヴィッド・A・スマートとアルフレッド・R・スマートという兄弟がいて、広告業に従事していた。1927年、兄弟はウィリアム・H・ワイントラウプという男と共同で、男性服飾のための業界誌をはじめ、その編集をやはり広告業界に籍をおくアーノルド・ギングリッチという若者にまかせた。ギングリッチはある広告のコピーを書いてデーヴィッド・スマートを感心させたのである。その雑誌「ナショナル・メンズ・ウェア・セールスマン」が成功すると、続いて彼らは「ジェントルマンズ・クォータリー」を創刊した。
1930年、スマート兄弟とワイントラウプは男子服飾店のウィンドー・ディスプレイ用のサービスとして、名士の盛装した写真を売りだした。ところが、それが同業者から攻撃された。写真がインチキだというのである。そこで三人はメンズ・ファッションの季刊誌「アパレル・アーツ」を1931年の10月にはじめた。これは市販せずに、メンズ・ショップにおいて、お客に無料で配ったところ、意外に好評だった。この「アパレル・アーツ」は経済雑誌の「フォーチュン」に似ていたという。スマート兄弟とワイントラウプは気をよくして、新雑誌の創刊を決意した。
伝説によれば、誌名は‘‘Stag”(男)だった。しかし、「スタグ」は商標として登録されていることをワシントンの弁護士がギングリッチに伝えてきた。その手紙の宛名が‘‘Arnold Gingrich, Esq.”となっていた。スマートがそれを見て叫んだのだ。
「エスクァイアだ!雑誌の名前はそれにしよう!」
「エスクァイア」の創刊号は1933年の10月、全米のニューズスタンドから選ばれた一万店で発売された。発行部数は十万部。定価は50セントだから、当時の雑誌としてはいちばん高いほうだった。ギングリッチの回想ではずいぶんもめたそうだが、不景気な30年代だったにもかかわらず、金のある読者を狙うということで、思いきって50セントにしたという。116ページのうち、30パーセントがカラー・ページだったから、制作費も高かったのである。男性雑誌らしく、小説陣にもアーネスト・ヘミングウェイをはじめ、ジョン・ドス・パソス、アースキン・コールドウェル、ダシール・ハメット、など男性的な作家をそろえ、スポーツ欄には、ボクシングのジーン・タニー、ゴルフのボビー・ジョーンズなどを登場させた。はじめは季刊のつもりだった。
ギングリッチは安い原稿料で有名作家の原稿を集めたらしい。他の雑誌が何千ドルも払う原稿をわずか2、300ドルで買ったのだ。作家に注文をつけなかった点がよかったのかもしれない。作家のほうはコマーシャリズムと妥協することなく、文学的に質の高い作品を「エスクァイア」に発表することができたのである。
トーマス・マンも寄稿したし、ヘミングウェイは短編やエッセーをしばしば書いた。ヘミングウェイの短編の代表的傑作とされる『キリマンジャロの雪』は「エスクァイア」に載った。「ジャズ・エイジの桂冠詩人」といわれたF・スコット・フィツジェラルドも「エスクァイア」に数多くの短編とエッセーを発表している。
「エスクァイア」は創刊号から予想以上に売れたので、スマートは季刊からさっそく月刊に切りかえた。雑誌界の予想ではニューズスタンドの売上げは2万5千部程度だろうということだったが、月刊にした最初の号は9万部も売れ、1934年末ー創刊1年後ーには18万4千部に達した。1935年には74万2千部まで伸びている。
(数値、年号他、異説もあり)
この講談社文庫版は1985年に出ていて、その頃読んだはずなのにまったく憶えていません。
新しく発見した気分ですが、後年になって古いエスクァイアを集めたのも、もしかしたら刷り込みでしょうか。