Men's wear      plat du jour

今日の気分と予定に、何を合わせますか。 時間があれば何か聴きましょう。

今年の冬

2018-02-28 |  その他
今さらですが、今年の冬は寒かったですね。
上空に寒波がきていた2月初めに関西に行ってしまい、連日下がマイナス2~3度で久々に寒いおもいをしました。


(比叡山の東側の麓でみた、寒そうな画)

寒い季節は乾燥とのたたかいですが、心なしか昨年よりましな気もします。
乾燥といえば、外国製の保湿クリームを使っていた友達が、ポンプの先が容器の底までとどいてないので、最後まで使い切るのに毎回面倒な思いをすると言ってたことがありました。
「言ってあげた方がいいかな?」
「そうだね、何万人か分かんないけど、改善されたらきっと世界中の利用者がスッキリするね」
なんて言ってたのも懐かしい。

数年前に買った、一枚仕立ての薄いコートがあります。
買うときに分かっていましたが、裾にあおりどめがありません。
後で付ければいいかと思いましたが無精して未だそのままで、風雨の強い時には「イギリス製なのにダメだなぁ、何で付けないかなぁ」と、パンツの膝下を濡らしながら毎回思います。
私の話はスッキリしていませんが、何だかそういうことを忘れない教訓として、そのままにしておこうなんて気持ちもないではない今日このごろ。


旅に出るたび思い出す、あのシューマイは.....
でなくて、こちらは一枚仕立てでもいわゆるダブル・フェイスのボリュームある素材。
生地を接ぐ部分の張りで、特徴ある雰囲気が生まれます。
少ないながら、ここ数年いくらか見ます。
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Vanity Fair

2018-02-25 |  その他
前回と同じ「はじまりはジャズ・エイジ」という本に、1920年代にピークを迎えた雑誌ヴァニティ・フェアについても記事がありました。



「ヴァニティ・フェア」という雑誌があった。現物を見たわけではないのだが、すこぶる洗練された雑誌である。じつは1960年に、この「ヴァニティ・フェア」のエッセー、短編、写真を集めたアンソロジーが出たので、私も雑誌の性格を知ることができた。
発行部数が最も伸びたときでも、9万9千部だったというから、読者はごく限られていたことになるだろう。アメリカ人の多くは「ヴァニティ・フェア」によって、ピカソやマティス、ゴーギャンをはじめて知った。
もともと、「ヴァニティ・フェア」は「ドレス・アンド・ヴァニティ・フェア」として「陽気な90年代」といわれる1892年に創刊された。ファッションのほかに、スポーツ、音楽、演劇の雑誌だったのだが、1913年に「ヴォーグ」の発行人コンデ・ナストが買いとり、翌14年にフランク・クラウニンシールドという名編集者を得て、面目を一新した。一時ロンドン生活を送ったこともあるクラウニンシールドは才人であり、絵や小説の目ききであり、顔がひろかった。新しい才能の発見者でもあった。
彼の好きなものは「絵であり、稀覯本であり、しゃれたドレスであり、ダンスであり、庭園、別荘であり、美女」だったのである。
クラウニンシールドはエドワード王朝の優雅な趣味に生きる最後の紳士といわれた。粋人である。「ヴァニティ・フェア」は彼の趣味の反映であって、「シック・マンスリー」とも呼ばれた。
美術、演劇、文学のページがハイブラウだった。クラウニンシールドの個性がにじみでている雑誌だったのである。「ヴァニティ・フェア」ほど編集者の個性、趣味が生かされた雑誌はほかになかったといわれる。
けれども、「ヴァニティ・フェア」が黒字を記録したのは1913年から、「ヴォーグ」に吸収される25年間で、わずか1年しかなかったという。広告収入が少なかったのだ。1920年代には50万ドルを記録したこともあったが、それも長くは続かず、1935年には29万ドルに落ちている。アメリカの雑誌を支えているのは、読者だけではない。広告主も雑誌を支えている。「ライフ」や「ルック」が廃刊に追いこまれた直接の原因は、広告主が見離したことである。そして、広告主が雑誌を見離すのは、読者が熱心にその雑誌を読まなくなったからである。
1930年代のアメリカは大不況に見舞われたので、「ヴァニティ・フェア」のようなぜいたくな雑誌が1937年までよく続いたものだと思う。もっとも、クラウニンシールドは1936年に退いてしまった。雑誌も時代に適応できなければ、生きてはいけないし、時代はつねに変わりつつあり、その結果、アメリカでは新しい雑誌がつぎつぎ生まれてくる。



エスクァイアの何分の一しか売れてないですし、そこから現存するコンディションの良いものを探そうとするとどうりで高いはずです。しかし1930年代のものを見ると、エスクァイアと同じくらい広告があるように見えます。ちょっと違うかなと思うのは、ペットの広告くらいでしょうか。
仕立屋は「バーナード・ウェザリル」、他「フィンチレイ」「F・R・トリプラー」などエスクァイアでもなじみの店が広告を出しています。





今はどうか分かりませんが、ただ「vanity fair」で検索するとおそらく古典文学の方が一位で、次になぜか女性の下着がゴソゴソ出てきてしまう可能性があります。誤解されぬよう、場所とタイミングにご注意ください。
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またまたEsquire

2018-02-24 |  その他
年末に雑誌エスクァイアのことを書きましたが、最近何気なしに昔読んだ本を次々読み直していたら、常盤新平著「はじまりはジャズ・エイジ」という本にエスクァイア創刊の頃の話を偶然見つけました。



「その昔、デーヴィッド・A・スマートとアルフレッド・R・スマートという兄弟がいて、広告業に従事していた。1927年、兄弟はウィリアム・H・ワイントラウプという男と共同で、男性服飾のための業界誌をはじめ、その編集をやはり広告業界に籍をおくアーノルド・ギングリッチという若者にまかせた。ギングリッチはある広告のコピーを書いてデーヴィッド・スマートを感心させたのである。その雑誌「ナショナル・メンズ・ウェア・セールスマン」が成功すると、続いて彼らは「ジェントルマンズ・クォータリー」を創刊した。
1930年、スマート兄弟とワイントラウプは男子服飾店のウィンドー・ディスプレイ用のサービスとして、名士の盛装した写真を売りだした。ところが、それが同業者から攻撃された。写真がインチキだというのである。そこで三人はメンズ・ファッションの季刊誌「アパレル・アーツ」を1931年の10月にはじめた。これは市販せずに、メンズ・ショップにおいて、お客に無料で配ったところ、意外に好評だった。この「アパレル・アーツ」は経済雑誌の「フォーチュン」に似ていたという。スマート兄弟とワイントラウプは気をよくして、新雑誌の創刊を決意した。
伝説によれば、誌名は‘‘Stag”(男)だった。しかし、「スタグ」は商標として登録されていることをワシントンの弁護士がギングリッチに伝えてきた。その手紙の宛名が‘‘Arnold Gingrich, Esq.”となっていた。スマートがそれを見て叫んだのだ。
「エスクァイアだ!雑誌の名前はそれにしよう!」



「エスクァイア」の創刊号は1933年の10月、全米のニューズスタンドから選ばれた一万店で発売された。発行部数は十万部。定価は50セントだから、当時の雑誌としてはいちばん高いほうだった。ギングリッチの回想ではずいぶんもめたそうだが、不景気な30年代だったにもかかわらず、金のある読者を狙うということで、思いきって50セントにしたという。116ページのうち、30パーセントがカラー・ページだったから、制作費も高かったのである。男性雑誌らしく、小説陣にもアーネスト・ヘミングウェイをはじめ、ジョン・ドス・パソス、アースキン・コールドウェル、ダシール・ハメット、など男性的な作家をそろえ、スポーツ欄には、ボクシングのジーン・タニー、ゴルフのボビー・ジョーンズなどを登場させた。はじめは季刊のつもりだった。
ギングリッチは安い原稿料で有名作家の原稿を集めたらしい。他の雑誌が何千ドルも払う原稿をわずか2、300ドルで買ったのだ。作家に注文をつけなかった点がよかったのかもしれない。作家のほうはコマーシャリズムと妥協することなく、文学的に質の高い作品を「エスクァイア」に発表することができたのである。
トーマス・マンも寄稿したし、ヘミングウェイは短編やエッセーをしばしば書いた。ヘミングウェイの短編の代表的傑作とされる『キリマンジャロの雪』は「エスクァイア」に載った。「ジャズ・エイジの桂冠詩人」といわれたF・スコット・フィツジェラルドも「エスクァイア」に数多くの短編とエッセーを発表している。
「エスクァイア」は創刊号から予想以上に売れたので、スマートは季刊からさっそく月刊に切りかえた。雑誌界の予想ではニューズスタンドの売上げは2万5千部程度だろうということだったが、月刊にした最初の号は9万部も売れ、1934年末ー創刊1年後ーには18万4千部に達した。1935年には74万2千部まで伸びている。
(数値、年号他、異説もあり)



この講談社文庫版は1985年に出ていて、その頃読んだはずなのにまったく憶えていません。
新しく発見した気分ですが、後年になって古いエスクァイアを集めたのも、もしかしたら刷り込みでしょうか。
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どっち派?

2018-02-22 |  その他
新橋で飲んでるおじさんが、
「やっぱり俺はザギトワだな!」
「俺はどっちかって言ったら、メドベージェワかなぁ」
「ザギトワ!」
「じゃ、俺もメドベージェフ!」
「⁇?」
「それは、あの頭の大きいオタマジャクシみたいな人でしょ!」
なんて...

引っ越しや片付けなどで、久しぶりに見る写真や本など出てくると手がとまって、家族から戦力外の烙印を押されるご亭主もいらっしゃるかと思います。
先日何となく本棚をあさっていたら、久しぶりにあれを読もうかこれを読もうかと思うような、おそらく一度しか読んでない本がいくつかありました。



ランダム・ハウス創業者のベネット・サーフの本。
いくつかのエピソード以外忘れていて新鮮な気分で読みましたが、上下刊のとくに前半はアケスケな話で、書かれた方が故人じゃなかったら大変だったと思います。

後半は会社の買収や合併など、アメリカで名を遂げた人の本らしく金の話が多くなります。
そのほとんどは駆け引きを面白おかしく回顧しています。
読みながら、規模もまったく比べものになりませんが、卑近な例を考えていました。
外国の人と取引して心がけるのが迅速な決済です。特に初めての相手の時は、他に信用してもらえる材料もないので、相手が驚くくらい可及的速やかに処理します。
たまに良いものが廻ってくるのはそのお陰かとも思いますし、まったく偶然かもしれません。
でもむやみに急ぎ過ぎて、降りかかる失敗もないではありません。
いわば、損して得取れ派か。


ザギトワも「仲良くできそう」という秋田犬。
20年くらい前、ムッソリーニが処刑されたミラノの広場を(その時はそうとは知らず)食後に散策していると、海外では珍しい秋田犬をつれた男女がいました。シャイな性格なんだといわれたその犬は「ユーキ」と言いました。
また、我が家の散歩コースでは大きな秋田犬と80後半のおじいちゃんに会います。
その「メグちゃん」と仲良くするには、おじいちゃんの手渡してくれるオヤツが必要でした。
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古い服を着て立派に見えないような人を信用してはいけない

2018-02-20 |  その他
全体はそう見えませんがよく見ると袖口など擦り切れた服を着ていて、その視線に気づいたように「ようやく自分のものになってきた」というふうな言いまわしをする外国の方がいます。



今回のタイトルは、帽子の話で引用したA.フラッサーの本に紹介されているトーマス・カーライルという人の言葉だそうです。
久しぶりに読むとこの本にはいろいろ面白いところがあって、



「ごく稀にはまったくセンスのないと思われる人(こういう人を教育するのは残念ながらほとんど不可能です)もいることはいますが、ほとんどの人の場合は正しい装い方を勉強することによってセンスを磨くことができます。
生まれつき良い趣味とスタイルのセンスをもち、何が自分に一番よく似合うか知っているという人は稀です。ほかのすべてのことと同じように装うセンスも後天的に培われます。しかしそのためにはすべての学習と同じく、興味をもって取り組み、経験を重ねていかなければなりません。そしてそれにも増して重要なのは、その学習が良い趣味を作るための基本的な原則と、しっかりとしたルールに基づいていなくてはならないということです」



「これらの原則は1930年代に発展し、それからずっと父から子へ、そしてテイラーから客へと受け継がれてきたものばかりです。しかし1960年代に入ってこの伝統は崩れてしまいました。若者は自分より年上の人のいうことに耳をかさなくなってしまったのです。今まで受け継がれてきた知識はほとんど失われてしまうところでした。しかし今また人々は装うことに関心をもち始めました。過去の伝統を再び取り戻す時がやってきたのです」



「今日アメリカの男たちはやっと過去のあやまちから学びつつあります。そのあやまちの多くは今だに洋服ダンスの隅に掛かっていますが、ある意味では高い授業料を払って貴重な勉強をしたといえるでしょう。今では人々は洋服を選ぶのにもっと慎重になりました。洋服の値段がとても上がったからです。それに自分の求める商品に対する知識もずいぶんと増えました。そしてファション業界もそれに応えています。自動車業界と同じくファション業界も、自分たちのあやまちから学んだのです。デトロイトが機能的でシンプルなモデルの自動車を作り出したように、ファション業界も機能的でシンプルな洋服を作り始めました。極端なスタイルはほとんど姿を消し、再び質の良い服が求められるようになってきたのです。
当然、1930年代に続く時代にもその当時の流行に流されず、自信をもってエレガントな装いをし続けてきた人たちは、少数ながらいました。彼らの例は特筆に値します。1930年代にはその他の時代に例を見ないスタイルとエレガンスが確立されました。そしてそのスタンダードは現在でも、われわれの努力を測る尺度として立派に通用するのです」



「わたしの信念は礼儀にかなったやり方で自分らしさを表現するということです。そして自分らしさとはデザイナーや、店、あるいは雑誌などのいうことを鵜のみにしないでいられるだけのセンスをあなたが育てた時初めて生まれるものなのです。今のオートメーションの時代にあって、装うことは人間がコントロールできる数少ない分野の一つではないでしょうか」(水野ひな子訳)



「1930年から36年にかけて創造された何種類かの基本的な型は、すべての男性が自分自身の個性とスタイルを打ち出す上で、表現の尺度として今日でも十分通用するものである」というイブ・サンローランの言葉も引用されています。

'80年代に書かれたものですから、もちろんその後や現在の流行は予測できなかったと思いますが、それを顧みることのできる今の私たちは「歴史は繰り返す.....二度目は喜劇として」という言葉が過去のものでないことを知らされます。



また主旨と関係ありませんが、
「生来的なものなのか、生まれてからの教育によるものなのか、男というものは買い物が嫌いです。確かに買い物は疲れますし、時間もかかります。ほとんどの男性が買い物は出来るだけ早く、効率よくすませてしまいたいと思っていることでしょう」
というくだりを読んで、A・E・ホッチナー著「Papa Hemingway」の一節を思い出しました。

「ニューヨークの買い物にたいするアーネストの態度は、映画見物にたいする態度とおなじで、何日もあれこれ考えあぐねたあげく、最後に、いやでたまらない難行にとりくむのだった。店のなかでほど生まれつきのはにかみぶりが発揮されることはなかった。カウンターや店員を見ただけで、どっと汗がふきだしてしまって、いちばん最初に見せてくれたものをすぐ買うか、店員が商品を棚からとろうとするよりさきに逃げ出してしまうか、どちらかだった。こうしたショッピング症候群のただ一つの例外は、アバークロンビー・アンド・フィッチで、それもとくに銃砲売場と靴の売場だった。しかしこのデパートでも、衣服売場の店員が、彼に背をむけてラックからトレンチコートをとるときには、まず彼の袖をしっかりつかまえておくようにいわれていたとしても、ふしぎではない」(中田耕治訳)
ヘミングウェイだけじゃなく、こういう男性は多いですね。


(ニューヨークで七つ折りのタイも売られ、通販対応していたという1936年の広告)
Comments (2)
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