京都から琵琶湖周辺を訪れるようになると、松尾芭蕉の足跡にふれることがあります。
墓のある義仲寺はもちろん、湖南地方には門人も少なくなかったそうです。
また京都にもどってぶらぶらしていると、芭蕉を敬慕してやまなかった与謝蕪村などに所縁ある場所に出会ったりもします。

以前ハンサムな仏像があると書いた奈良の当麻寺へも、芭蕉は少なくとも二度参詣しています。
晩年ちかく、彦根出身の門人が国へ帰るというときに書き送ったものに「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用ふる所なし」という一節があります。
「自分の俳諧は夏の炉か冬の扇のようなもので、何の役にも立たない」と自嘲・謙遜のように受けとれる言葉ですが、それこそ自分の純粋な文学だという強い意志に支えられています。
また違う時には、財産も家もなくただ風雅だけに没頭してきた自身を振り返って「なし得たり、風情終に菰をかぶらんとは」とぼろを纏いながらも思い描いた境地に達した自らを讃えました。
昨年の夏、近江八幡をぶらぶらしていると、「日本一遅い乗り物」というポスターにつられ「水郷めぐり」を楽しみました。
艪を操りながら船頭さんがところどころ説明してくれて、「あれが俎板にするヤナギの木、けっこうな値がするでしょ」と教えてもらうまで、あの枝垂れてる柳の木がなんで俎板かとずっと謎だったのですが、意外な所でまったく別の木だったと判明しました。

「今年の夏は厳しくないですか?」
「昨日は今日みたいな風もなくて照り返しもキツかったから、お客さんもかわいそうだったねー」

水草のあいだをゆるゆると舟に揺られていると、秋山小兵衛といわないまでも、江戸の人になったような気分を味わえます。
小一時間のコースを終えて船頭さんをねぎらうと背中の方で、
「⚪️⚪️さんお疲れ様ー!、大丈夫だった?」と威勢のいい女性の声が聞こえました。
「うーん、死ぬかと思ったよー」
危うく年配の船頭さんを殺すとこでした。
墓のある義仲寺はもちろん、湖南地方には門人も少なくなかったそうです。
また京都にもどってぶらぶらしていると、芭蕉を敬慕してやまなかった与謝蕪村などに所縁ある場所に出会ったりもします。

以前ハンサムな仏像があると書いた奈良の当麻寺へも、芭蕉は少なくとも二度参詣しています。
晩年ちかく、彦根出身の門人が国へ帰るというときに書き送ったものに「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用ふる所なし」という一節があります。
「自分の俳諧は夏の炉か冬の扇のようなもので、何の役にも立たない」と自嘲・謙遜のように受けとれる言葉ですが、それこそ自分の純粋な文学だという強い意志に支えられています。
また違う時には、財産も家もなくただ風雅だけに没頭してきた自身を振り返って「なし得たり、風情終に菰をかぶらんとは」とぼろを纏いながらも思い描いた境地に達した自らを讃えました。
昨年の夏、近江八幡をぶらぶらしていると、「日本一遅い乗り物」というポスターにつられ「水郷めぐり」を楽しみました。
艪を操りながら船頭さんがところどころ説明してくれて、「あれが俎板にするヤナギの木、けっこうな値がするでしょ」と教えてもらうまで、あの枝垂れてる柳の木がなんで俎板かとずっと謎だったのですが、意外な所でまったく別の木だったと判明しました。

「今年の夏は厳しくないですか?」
「昨日は今日みたいな風もなくて照り返しもキツかったから、お客さんもかわいそうだったねー」

水草のあいだをゆるゆると舟に揺られていると、秋山小兵衛といわないまでも、江戸の人になったような気分を味わえます。
小一時間のコースを終えて船頭さんをねぎらうと背中の方で、
「⚪️⚪️さんお疲れ様ー!、大丈夫だった?」と威勢のいい女性の声が聞こえました。
「うーん、死ぬかと思ったよー」
危うく年配の船頭さんを殺すとこでした。