あの頃チャンネル(2009年04月12日~2009年04月18日)
先日、4月2日の10時に募集を開始したニューロリハビリテーションセミナーは、20分程度ですべてのコースを締め切る事態になってしましました。
基礎編、応用編、臨床編は200名の定員ですが、多くの受講者が想定されることから、300名までとるようにしましたが、それでもこのような事態を招いてしまい、年度計画を考えていた方で、今回間に合わなかった方にはお詫び申し上げます。
もう1度、年度計画ですべてのコースを開催と考えたときもありますが、
大学の入試、オープンキャンパスなどのスケジュール、
そして講師陣のスケジュールを考えると難しく、
せいぜい1コースをと思っています。
ただし、これらのコース内容はある一貫性をもって構成していますので、
どこかだけチョイスするのを悩んでいるのも事実です。
応用編、臨床編のニーズが高いことは承知ですが、
基礎編があってこその応用編、臨床編でもあるので、
このあたりを悩むところではありますが、
どちらかの開催、あるいはその両者をミックスして、
独自の別の内容を提供するというのも考えています。
しかしながら、あとはスケジュールとのにらめっこですので、
それを年度で開催できるか、ここ数日考えています。
さて、今年度でニューロリハビリテーションセミナーは3年目を迎え、
次年度はこれを継続しつつ、
新たな展開も考えています。
継続することも大切ですが、
それがルーチンワークになれば、
劣化してきます。
劣化すれば、評判が悪くなり、
それは畿央大学の評判だけでなく、
ニューロリハビリテーション全体の批判にもなりかねません。
人間は非常に繊細かつネガティブな動物でもあるので、
自分が期待したことが提供されない場合、
そのもの(人、もの)を批判したり、否定したりしてしまいます。
そもそも人間の心は違うはずと理解していても、
自分と他者を対比して、
自分の願望が提供されない場合、
その他者を批判してしまいます。
大いにして、若いときにはこれがありますが、
あるところ、タームでその意識変革ができないと、
結果的につまらない人生を歩んでしまいます。
たとえば、病院での上司など、
若者が新しいものを提案したときに、
結局は自分の方向性とそれが違ってた場合、
それを否定してしまいます。
10代、20代の恋愛でもよくあることです。
一方、若手が上司に新しいことを提案してもつぶされ、
疲弊していくのもよくあります。
結論から言うと、他者にあまり期待しないことです。
この言い方をすると、誤解を招きそうですが、
自分が求めることを他者に求めても、
他者がそれを重要とは思っていないことは大いにあることから、
結局は意識のすれ違いで、それがストレスになります。
そもそも人間は違うのだから、
良きもあしきも、自分の弱いところを相手が補い、
相手の弱いところを自分が補うことにより
システムが成り立っていると思うのが肝要です。
私の以前の上司は管理に弱かったのですが、
それを補うように私が管理をしました。
多少、ルーズさに腹がたつこともありましたが、
その創造力は目を見張るものがあり、
それがあるから、自分は縁の下の力もちになろうと思っていました。
一方、現在は上司という立場になり、
方向性、創造性は後輩たちよりも優れている感覚はあります。
けれども、連絡などのルーズさが露呈してきました。
それを補うように後輩たちがその仕事をしてくれています。
人間には弱いところがある。
その一方で強いところがある。
弁がたつが、管理はない。
いろんなことの意見を述べるが、その具現化には弱い。
いろんな人間がいます。
だからこそ、ストレスになりますが、
お互い補完しあい、種が保存されているのです。
利己的であり、利他的、これは人間がそもそも持っている能力ではなく、
人間として社会を生きることによって、
つくっている能力なんだと思います。
関係性から生まれる意識の極みではないでしょうか。
話はそれてきましたが、
ニューロリハビリテーションセミナーに受講できなくて
残念だった人、後悔している人、そして、一部のシステムトラブルで腹が立っている人、などいたようですが、
それも自分の意識、
我々は最善のおもてなしをしようと考えていましたが、
ホームページのシステムトラブルなどで、
思うようにいかなかったこともありました。
決して適当になんてことは思ってなかったわけですが、
相手側からみるともっとサービスをと思ったことでしょう。
これも人間の意識と意識の違いであり、
これを埋めていくのが人間社会なのです。
心の理論とは相手の心を類推するということだけでなく、
自分のこころと相手のこころはそもそも違うということをメタ認知することです。
けれども、人間はいつしか後者を忘れてしまい、
自分の意識と相手の意識を同じと考えてしまい、
自分がこう考えているのに(自分がこうしているのに)なんであなたはこう考えないの!?(こうしないの!?)と思ってしまうのです。
そもそも違うと思えば、解決できることはいっぱいあるのです。
基礎編、応用編、臨床編は200名の定員ですが、多くの受講者が想定されることから、300名までとるようにしましたが、それでもこのような事態を招いてしまい、年度計画を考えていた方で、今回間に合わなかった方にはお詫び申し上げます。
もう1度、年度計画ですべてのコースを開催と考えたときもありますが、
大学の入試、オープンキャンパスなどのスケジュール、
そして講師陣のスケジュールを考えると難しく、
せいぜい1コースをと思っています。
ただし、これらのコース内容はある一貫性をもって構成していますので、
どこかだけチョイスするのを悩んでいるのも事実です。
応用編、臨床編のニーズが高いことは承知ですが、
基礎編があってこその応用編、臨床編でもあるので、
このあたりを悩むところではありますが、
どちらかの開催、あるいはその両者をミックスして、
独自の別の内容を提供するというのも考えています。
しかしながら、あとはスケジュールとのにらめっこですので、
それを年度で開催できるか、ここ数日考えています。
さて、今年度でニューロリハビリテーションセミナーは3年目を迎え、
次年度はこれを継続しつつ、
新たな展開も考えています。
継続することも大切ですが、
それがルーチンワークになれば、
劣化してきます。
劣化すれば、評判が悪くなり、
それは畿央大学の評判だけでなく、
ニューロリハビリテーション全体の批判にもなりかねません。
人間は非常に繊細かつネガティブな動物でもあるので、
自分が期待したことが提供されない場合、
そのもの(人、もの)を批判したり、否定したりしてしまいます。
そもそも人間の心は違うはずと理解していても、
自分と他者を対比して、
自分の願望が提供されない場合、
その他者を批判してしまいます。
大いにして、若いときにはこれがありますが、
あるところ、タームでその意識変革ができないと、
結果的につまらない人生を歩んでしまいます。
たとえば、病院での上司など、
若者が新しいものを提案したときに、
結局は自分の方向性とそれが違ってた場合、
それを否定してしまいます。
10代、20代の恋愛でもよくあることです。
一方、若手が上司に新しいことを提案してもつぶされ、
疲弊していくのもよくあります。
結論から言うと、他者にあまり期待しないことです。
この言い方をすると、誤解を招きそうですが、
自分が求めることを他者に求めても、
他者がそれを重要とは思っていないことは大いにあることから、
結局は意識のすれ違いで、それがストレスになります。
そもそも人間は違うのだから、
良きもあしきも、自分の弱いところを相手が補い、
相手の弱いところを自分が補うことにより
システムが成り立っていると思うのが肝要です。
私の以前の上司は管理に弱かったのですが、
それを補うように私が管理をしました。
多少、ルーズさに腹がたつこともありましたが、
その創造力は目を見張るものがあり、
それがあるから、自分は縁の下の力もちになろうと思っていました。
一方、現在は上司という立場になり、
方向性、創造性は後輩たちよりも優れている感覚はあります。
けれども、連絡などのルーズさが露呈してきました。
それを補うように後輩たちがその仕事をしてくれています。
人間には弱いところがある。
その一方で強いところがある。
弁がたつが、管理はない。
いろんなことの意見を述べるが、その具現化には弱い。
いろんな人間がいます。
だからこそ、ストレスになりますが、
お互い補完しあい、種が保存されているのです。
利己的であり、利他的、これは人間がそもそも持っている能力ではなく、
人間として社会を生きることによって、
つくっている能力なんだと思います。
関係性から生まれる意識の極みではないでしょうか。
話はそれてきましたが、
ニューロリハビリテーションセミナーに受講できなくて
残念だった人、後悔している人、そして、一部のシステムトラブルで腹が立っている人、などいたようですが、
それも自分の意識、
我々は最善のおもてなしをしようと考えていましたが、
ホームページのシステムトラブルなどで、
思うようにいかなかったこともありました。
決して適当になんてことは思ってなかったわけですが、
相手側からみるともっとサービスをと思ったことでしょう。
これも人間の意識と意識の違いであり、
これを埋めていくのが人間社会なのです。
心の理論とは相手の心を類推するということだけでなく、
自分のこころと相手のこころはそもそも違うということをメタ認知することです。
けれども、人間はいつしか後者を忘れてしまい、
自分の意識と相手の意識を同じと考えてしまい、
自分がこう考えているのに(自分がこうしているのに)なんであなたはこう考えないの!?(こうしないの!?)と思ってしまうのです。
そもそも違うと思えば、解決できることはいっぱいあるのです。