卒業生が巣立って1日。大学は静けさと寂しさの空気が漂っています。そして、毎年のごとく「自分自身」の中で起こるこのセンチメンタルな感情。。。卒業生をおくりだすことは、誇らしげながらも、毎年ながらとっても寂しい。そして、しばらく、そのなんとも言いがたい余韻に浸っているのです。
卒業式の中で卒業生によって歌われた「遥か」の際、涙腺がゆるくなってしまいました。
さて、謝恩会で言ったように、実は今年の卒業生のおかげで、僕は教育と言うものが、やっとわかりはじめたような気がします。この学年を境に、つまりその下の学年から、とっても授業が優しくなったのです。要は、相手を操作しようとするのではなく、相手にのまれてしまおうというスタイルです。教員生活はおそらく18年ぐらいですか、やっと教育というものが心の底から楽しくなったのです。遅すぎますが。。
自分の思うようにならない授業をこの学年で数多く経験する事で、自分の弱さを知り、そして愚かさを知ることができました。今となってはみんなにとても感謝する次第です。
さてさて、謝恩会では相変わらずおちゃらけてしまい、年甲斐も無く、そして役職甲斐も無く、翌日には相当に反省する次第ですが、ここに当日は言えなかった、、彼ら彼女らに伝えたい言葉があります。それが「自由意志」です。
大学を卒業し、やっと自分の足で歩く事ができます。そうです。自由を勝ち取ったのです。この自由とは自分勝手な振る舞いというわけではなく、自分の意志で道を決断し、その道を歩く事ができるということです。20数年かけてその自由意志を皆さんは勝ち取りました。大学生活はいわば自立と依存という相反するものの葛藤のなかで生きていて、その矛盾につぶされそうになったこともあるかもしれません。けれど、これからは自分の意志で自由に歩けるのです。だから、自己責任というのがついてまわるのです。責任という意識を自己の行動の基盤に必ずおいてくださいね。
そして、皆さんが対象とする多くの方々は、子どもの時から発達をかさね、、せっかく勝ち取ったその自由意志を奪われた人たちです。自分の意志で、自分の好きなときに食事ができる、便所に行く事ができる、買い物に行く事ができる、そして仕事を選ぶことができる。この自由意志や選択を奪われるというその心ははかりしれません。せっかく長い年月かけて勝ち取ったものを病気や事故で一瞬に奪われるわけですから。
今この時、自由意志を勝ち取った卒業生の皆さん。この自由意志のありがたみを感じつつ、それを奪われた人々のリハビリテーションを心底その視点から考えてあげてください。そうすれば、決して盲目にはならないと思います。僕は、そうした盲目でなく、いかような道も考えてあげることができる人こそ、畿央大学のキャッチフレーズである「優しさをチカラに変える」ことができる人だと思うのです。