森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

身体のない世代

2008年07月11日 10時32分40秒 | 過去ログ



昨日は午前中、洞川中学校より2年生の大西君、西浦君、柳谷さん、
そして、以倉先生、小屋先生が研究室へ。
総合学習の一環のようだ。

「脳における記憶の仕組みについて」を

調べているようで、
10ぐらいの質問を用意していただき、
それについて説明した。

みんな「脳」のすごさや、よわさに、
気づいてもらったようだ。

興味、関心、感情などの人間らしさを大切にしようね。

2時間ほどいろんな話をして、
大学生と違って、無垢な「こころ」に、大人として惹かれた。

その後、会議をして、
「身体運動学」のもう1章分の図の読み込みを終えた。
なんとか、今週中に決着をつけ、
来週は、違う仕事をしないといけない(もうズレこみっぱなし)。

自分の計画(目標)に負け続けている。


そういうときに、忘れていた原稿の催促をいただく。
7月中旬に印刷に回すらしい。
もう中旬じゃないか・・・・

なんとか、それも今日、今から岡山に向かう新幹線内で行う。


さっきテレビを見たが、20代の海外旅行がへっているようだ。
ネットなどで、バーチャルで満足する世代。
ただ生きているだけで、夢を追いかけない世代。
そういうネガティブな思考もわきたつが、

この生きるために必死な世の中に、今の大人たちがしたのだとも思う。

生理的(危険でない)なものだけで満足する、
まさにマズローの欲求階層の最下位に位置する。
とりあえず、仕事につき、飯が食えれば・・・いい世代なのかもしれない。
「こうしたい・・・磨きたい・・」などの野望はどこに行っているのか・・・

まさに、バーチャルでしか生きられない、
身体のない世代である。

外国にも行って、異文化を体験してごらん。
眼でみる、耳で聞く、よりも、自分の身体を動かし、
動いて感じてごらん。

最初から、ネット上での先入観・バイアスのみで生きると、
生きている「楽しみ」が減衰していくよ。

だから、先入観な脳で支配され、自暴自棄になるんだよ。


生物として「動く(感じる)」ことは原点なんだから。






第13回認知神経科学会学術集会

2008年07月10日 12時38分31秒 | 過去ログ
第13回認知神経科学会学術集会

会期:2008年7月12日~13日

場所:東京大学

本学大学院からのエントリーは、

1.他者の後方観察による視線認知の脳内機構(M2:信迫)

2.姿勢の相違がプリズム順応課題遂行中における脳活動に及ぼす影響(M2:谷口)

3.道具観察時の特定の感覚情報への意識化が脳活動に及ぼす影響(M2:河野)

4.筋感覚から外在物への選択的注意が脳活動に及ぼす影響(M2:大植)



共同研究者のエントリーは、

5.整形外科的疾患患者におけるリハビリテーションに運動イメージトレーニングは有用か?(神戸大大学院 山田)

6.慢性腰痛患者では腰部の運動イメージの想起能力が低下している?(神戸大大学院 山田)

です。


僕も岡山の講義後、向かいます。



モザイクな時間経過

2008年07月09日 23時33分16秒 | 過去ログ
今日は教育学部の発達脳科学の授業がAMあり、
一部のグループには、
ゲーム体験による脳活動を他の先生方に実験実習していただき、
それ以外のグループでは、個別に
「ミラーニューロン」「クオリア」「ワーキングメモリ」を
建学の精神の視点から解説するというレポートに関する質問を受け答えした。

質問の仕方から垣間見るその脳活動。
私は質問から相手の脳の活動レベルがわかってしまう。
そして、目線の置き方などから、
その認知的、あるいは情動的経験が、
どのような状態であるかも。
そういう自分がときに嫌になるが、
逆によいときももちろんある。
脳を勉強すると、心まで垣間見ることができる。
唯一わからないのは、自分自身だ。

その合間に、臨床実習の依頼の電話をかけまくり、
快諾をいくつかいただき、
自分の脳がまさにパッチワークであると思う。

午後は、「身体運動学」の1章分の図の読み込みがやっと完成した。
ほんとはすべて仕上げるつもりだったが、
またもや、時間と自分に負けてしまった。
自分にいつまで負けるのか。
もう少し、作業能力を高めたいものだ。

その間も、自らの携帯で、
臨床実習の依頼をしまくる。
大学から予算を配当してもらいたいものだ。
まさに携帯を用いた電話のほとんどが仕事である。

これをお読みのPTの皆様でもし実習受け入れ
(次年度のみで結構です)の可能性がありましたら、
下記の大学の教員紹介のページのアドレスから
私までメールをいただければうれしい限りです。

畿央大学教員紹介

本学の学術的・臨床的援助は「すばらしい」と自負しています。
今まで講演で巡り、出会った先生方、是非にご協力をお願い申し上げます。



午後には、大学院生の中野君の研究を確認し、
論文を書くように、GOサインを出した。
内容からして、どこかアクセプトされるであろう。

合間に「よさこい」の関係の電話もしながら・・・

その後、院生の信迫君の週末の認知神経科学学会のポスターを確認し、
印刷のGOサインをだし、
その合間も、臨床実習の依頼返答の電話を受けながら、
モザイクな時間が流れながら、
19時40分から大学院のM1の授業に向かう。
来年度は大学院の授業が増えるようだ・・・・・・・
平松君、河村民平君の研究計画を聞き、
一部、 実験スタートのGOサインを出した。
スタートダッシュも肝要である。

私は、とっても理系脳なのだ。
普段は文系的思考と志向を前面に出しているが、
高知弁でいうと、グダグダな「ようだい」はあまりすきじゃない。
とにかく、人生設計、そしてワーキングメモリを全面的に活かして、
完璧なスケジュールでフィニッシュさせてもらいたい。




17年間の来歴

2008年07月08日 23時52分38秒 | 過去ログ
昨日は高知、香川と新規実習地依頼にめぐる。
後輩の施設、古巣、そして、友人に求めた施設など、
来年度の高知、香川出身者のために動く。
どこも快諾して頂き、感謝します。
経済的支援は目もくれず、
心と心の繋がりで生まれる、
この関係性に「人間」でよかったと感じる。




17年間、セラピストでがんばってきて「よかった」と感じるときである。
1年目からがむしゃらにして、
出るくいを打たれながらも、
出すぎたくいは打てない状態まで、
そして、それにより、「エゴ」を生み出さず、
人間関係(金でなく、膝を突き合わし、一杯やる)を重視してきて、
「ほんま」によかったと思う。
こういうとき、「田舎」の精神が自らに宿っている幸せを感じる。
「都会」のコンクリートジャングルの中では、
そうした精神は、そのもそも人間にはもっているが、
そのニューロンを使わなかったら、
組織化されないのであろう。





帰りの「南風」は、17年の来歴のうれしさもあってか、
あるいは、宮田塾の本年度の4分3秒の楽曲をエンドレスに聴いていたから、
意外と楽しかった。









新しい高知駅の駅舎を始めてながめ、




前の駅舎の跡地がむなしく、
8月のよさこいの観光シーズンには、
この殺風景な風景が観光客に目に入るのは残念・・・と思った。
以前はやしの木が伸びに伸びていたが・・・





新幹線を乗り継ぎ、奈良に21時すぎに帰り、
長旅の整理を行う。
海外旅行でも航空機に荷物を預けず、機内持ち込みにする自分が、
今回ばかりは、よさこい祭りで使用する備品の運びもあってか、
大きな荷物で移動した。

本日は講義が3つあったが、
大学院生(ティーチングアシスタント)、助手の先生の協力もあってか、

身体にはほどよい負荷のみで終わった。
PHP研究所から来客があり、
「親学推進協会」のことを聴き、
子どもの脳をはぐくむ関わり方に関する援助を可能な限り行うことを話した。

その後、大学院生の指導を行い、
奈良リハセンターの面々と研究の打ち合わせをして、
22時過ぎに帰る。

明日こそは、と、心に誓う。
出版予定の「身体運動学」のテキスト図表を終了させる。


それにしても、このブログのアクセスは、
つねに、100万ブログのうちの三桁代なので、
それは結構な数の方々にみられているようだ。


意味ある「勉強」の話をときにはしないといけないのかも、
と人に気を使っては、そのよさが失われるので、
わが道、わがボイスで向かい合う、がよいか・・




夏の始まり

2008年07月07日 09時48分37秒 | 過去ログ
土曜日の夜は、青土社の栗原さんを交えて、午前2時すぎまでの懇親会。
いわゆる「現代思想」的なものとして、やりたい草案はあるが、
ともかく、今しないといけないものを優先した上で、
夏休み期間にどう表現していくかを考えたい。

みなさんの講演を日曜日に聞いた後、
エンディングを観れないために後ろ髪を引かれたが、
高知に行くために羽田空港まで出た。

サミットもあってか、厳戒態勢のなか、
そして40分遅れて高知についた。

愛宕病院の福岡君に迎えにきていただき、
野市青少年センターの体育館へ。
「いよいよ」始動。
夏が始まったという感じだ。
今年の踊り子の皆さんは、みなさん「こころ」が優しい。
初日なのにみなさんの表情をみると、
笑顔が伝染するということがわかる。
はやくも幸福をいただいた。

Happy sunshine!

今日は洞爺湖サミットで「よさこいソーラン」の披露だそうだが、
本家のよさこいを8月9日~12日(10~11日本祭)を観にきませんか?
本家ならではの、ショーではなく、双方向の共鳴する「祭り」がそこにあります。

しかし、フライデーされた!といえば、よからぬことを想像するこの仲間はとってもGOODだ。
素の自分に戻れる。


さて、今日は高知の病院を2つめぐり、
そして香川の病院を経由して、
夜に奈良に戻る予定。

このブログをみていただいているセラピストの皆さん、
ぜひとも本学実習地として「手」を上げていただければと思います。
学術的援助は全国の学校のなかでも唯一無二なものを展開しています。
その大きなものは、教授~助手までの教員の無償による講義、講演、実技、そして共同研究です。

経済的援助とともに、その学術的援助は、
こころを通わす手段となります。

ともに、「未来」を創造していく施設を広く求めます。
よろしくお願いいたします。



不満、後悔、そして未来へ

2008年07月06日 07時50分10秒 | 過去ログ
先週は久しぶりに身体の痺れ感が持続し、
ブログをうつことができなかった。
このサーカディアンな間隔は、「ストレス」なのかはわからないが、
自分らしく生きることで、それも解消されるのだろう。

私という現象ではなく、
私らしさの思想といったものなのか。

一昨日は学会評議員会と理事会。
表現という場は、
自らを省みる場でもある。

いつものように飲みすぎ、
情動を賦活することで、
シミュレーション脳をネグレクトして、
脳を助ける。
しかし、身体にとっては悪循環になるのかもしれない。

昨日は学会で慶応大学の高幡先生の講演の司会を行う。
彼は1979年徳島県生まれの29歳の精神科医。
まさに、新進気鋭なブレインである。
ノーベル賞を受賞したエーデルマンの著書
「脳は空よりも広いか」の訳者でもある。

意識の諸特性で「意識とは何か」を論じられ、
その後、意識の神経科学についてのエビデンスについて語られた。
とりわけ、システムとしての脳、そして、内~外の神経ダイナミクス、
複雑系の神経ネットワークモデルを用いて、
意識の科学にできるだけの接近を試みたようだ。

まずは、意識とは、注意や記憶、知覚と違って、
コラム-モジュール-フレームという単純な構造処理ではないこと。
そして、普段の意識の用い方は、注意にすぎないこと。
すなわち、僕の解釈としては、
意識と意識するとは違うこと。
意識するとは能動的な注意機構であり、
たちまち立ち上がるといった意識とは別物であるように感じた。
普段用いている「意識」とは、思考するや注意するや想像するにすぎない。
そのような認知システムではないと僕は理解する。
ここに人間の本質の難しさがあり、
それはゾンビシステムなのかもしれない。
ゾンビシステムには、現代の治療的接近では解決できない。

さまざまな意識研究の問題を考えた。
クリック(ノーベル賞受賞者)とコッホの数百万ビットから40ビットへのトップダウン処理も視覚的情報処理であり、
それは視覚に基づく意識システムであり、
目を閉じても、私がそこに存在し続けているという、
私の身体といった視点、
すなわち、それ自体が意識であるということの解明ができない。
体性感覚は自らがアクセスしなくとも、
そこに存在しているのである。
これは、認知を超えるものである。

意識とはある局在が担当しているのではなく、
脳のネットワークのニューロンスパイクの同期化、
あるいは、脳-身体-環境のネットワークで起こるもの、
これ自体は、そうなのかもしれない・・・最近は?をつけることも自らにあるが。

しかしながら、意識がオシレーションにより起こるのであれば、
それは地震のメカニズムのように、表面で現れず、地殻変動というものによる。
つまり、皮質の電気信号の時系列分析のみでは解決できない。
地殻変動を起こす、皮質下、辺縁系などの、神経伝達物質の変化の可能性がある。
人間に意識が生まれるのは、
電気信号を化学物質に変換し、それをまた電気信号に変換する。
この不便なネットワーク構造をもっているからではないかと思う。
電気信号のみで意識が生まれるのであれば、
機械、それ自体がもっているはずだ。
サーモスタッドに意識が宿るかどうかの議論になるが、
この揺らぎが電気信号同時の干渉、同期化(環境との相互作用)によって生まれるのであれば、機械にも意識が宿るはずだ。
情動による皮質のニューロンスパイクに重み付けが起こる、この結びつけ問題を超える脳の機能が、意識であるのか。
そして、その意識を生み出すハブが大脳皮質の重点的番地であるのならば、
そのハブを創っていくプロセスがクラスターによる振り分けに基づく自己組織化なのかもしれない。

この自己組織化は成長・発達に意味を持つのであるが、
脳卒中の脳自体も自己組織化してしまう。
この自己組織化自体が回復を遅らせているのかもしれない。
脳はいきあたりばったりで、ニューロンをシナプス結合するのである。
その整理、清掃社業が環境との相互作用であるが、
自由度を奪われた身体であれば、
その結合は単純なものでしかない。

脳損傷後の活動した活動した!という可塑的変化が
本来の脳活動を失わせる可能性が大いにある。
感じられないまま動かさせるこの介入によって、
脳を賦活させることができるが、
それは適切な組織化でないかもしれない。
この勝手気ままなクラスター的自己組織化に打ち勝つ、
教師としてのセラピストがどこまで立ち向かえるか。
片麻痺が最終的に元に戻らない仮説がそこにもあるかもしれない。

意識のスモールワールドに意識と認知の神経ダイナミクスがある。

いずれにせよ、認知の樹でもあったが、
「それは必ずしも最善であるのか」と反省し続け、
未来に向かわないといけない。

不満、後悔を持つ人間、それは未来な人間だ。

とにかく、人間というものは筋肉の塊ではない、まさに複雑ワールドなのだから、
難解な科学こそが、その真実なのだ。

患者の家族は元に戻らない現実といつも格闘している。
回復とは単に見えるものではない。
関節を曲げられている身体、歩かされている身体、それは自分ではない。
リハビリテーションとは何なのか。
単純な思考でそれ自体を説明することがナンセンスである。


強靭なハートをもった攻撃的なセラピストにあいたい。



今週の「フライデー」に出ています・・・

暇ならみてください。