私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

「私」の意識要素と身体の関係について

2015年01月23日 20時27分22秒 | 私の成り立ち
◇「私」の意識要素と身体の関係について◇

自覚や悟りのこととは関係が薄いのですが、参考になる方もおられるかもしれないと思い、ここにもアップすることにしました。
なお、この文章は、メールで頂いたご質問に関連してお答えしたものを手直したものです。

「私」という意識又は感覚lの要素は、大きく分けて、お腹(丹田付近)と、胸(ハート付近)と、頭(目の奥からサードアイの奥又は頭頂にかけての付近)の三カ所に分散しています。
このため、その三つの意識要素(あるいは場所)のどれを最も強く感じるかで、「私」という意識又は感覚の中心の位置も変わってきます。

ちなみに、その三つの場所(あるいは意識要素)にどのような 違いがあるかと言いますと、頭には、良い悪いの分別等の思考をする意識と、ただ観ている観照意識の要素があります。
胸(ハート)は、感情や感覚の意識なのですが、それらの愛情や悲しみ等の比較的精神性の強い意識の要素がここにあります。
腹も、感情や感覚の意識なのですが、それらのうち、より肉体に近い部分、例えば憎しみや恐れ、怒り、欲などに関する意識の要素がここにあります。

基本的には、悟りを知らない一般の方や、悟りの道に入ってもまだ悟りの浅い方は、頭(脳)でする分別等の思考が優位となっているため、頭の位置に私を感じる方が多いのだろうと思いますが、そういう方の場合、頭だけでなく、腹の意識もそうとう強く活動し、影響を与えています。

悟りの道に入り、ハートが開き始めると、ハートの意識が優位になり、私という意識のセンターをハートで感じるようになります。
そして、さらに悟りが進み、ハート(あるいは、ハートにある意識要素)がほぼ完全に滅せられると、頭の観照意識が優位となり、私という意識のセンターを頭の位置に感じるようになります。


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私の成り立ち(3)-考えの二つの階層

2014年08月05日 10時58分55秒 | 私の成り立ち
◇私の成り立ち(3)◇

この記事は、過去記事「私の成り立ち(1)」「私の成り立ち(2)」の続きです。

「私の成り立ち(1)」で、私(自我)とは断続的かつ連鎖的に起こってくる考え(認識)そのものであると書きました。
今日は、その考えの二つの階層について書いてみたいと思います。

起こってくる考えには、言わばその考えを受け取るだけの受動階層に属するものと、起こってきた考えに対する積極的な関与を伴う能動階層に属するものとがあります。

受動階層に属する考えは、その考えが起こってきたとき、自我の感覚としてはそれを認識するだけ(受け取るだけ)です。
また、考えは数個から数十個程度(いや、数百、数千というべきか?、笑)の群をなして起こってくるのですが、その一群の考えの起点となる最初に起こってくる考えは、常にこの受動階層に属する考えになっています。
例えば、五感を通じた音等に関する最初の認識や、ふと湧き起こってくる記憶に対する最初の認識などが、この受動階層の考えに該当します。

能動階層に属する考えは、それが起こってきたとき、その起こってきた考えに対する何らかの積極的な関与を伴います。
その関与とは何かと言いますと、起こってきた考えを握りしめることです。
考えを握りしめると、それによりさらに別の考えが派生的に起こってきます。
そして、その派生した考えも握りしめることになります。
するとまた新たな考えが派生することとなり、一段落するまで考えの連鎖が続きます。
この能動階層に属する考えが起こってきたときの自我の感覚としては、分別心等の強い自我感覚を伴ったものとなる傾向があります。

最初に受動階層の考えが起こってきて、それが能動階層の考えに繋がっていく簡単な例について書いてみます。
例えば、同じ職場にAさんという人がいて、そのAさんの言動があったとします。
そのAさんの言動に対する五感を通じた最初の認識は、常に受動的な考えです。
そのAさんの言動に対して、それを掴まない人は、Aさんの言動があったという認識が直ぐに流れていき、Aさんの言動を起点して発生した考えの連鎖は直ぐに収束します。
またこの人は、Aさんの言動を掴みませんから、その言動が心に印象を残すこともありません。

これに対し、Aさんの言動を掴んでしまう人は、Aさんの言動に対する認識があると、それに続いて、その言動に対する分別等の能動階層の考えが連鎖していきます。
Aさんの言動が悪いと判断した場合は、Aさんの言動にはいつも問題がある、私がAさんのことを正さないといけない、あるいはAさんに何か言い返さないといけない等の考えが連鎖していき、憤り等の感情も湧き起こり、心の中が暫く騒がしい状態が続きます。
また、Aさんの言動に対しする批判的な考えが印象として心に刻まれます。
その心に刻まれた印象は、Aさんに関連して起こってくる次回以降の考えの連鎖の種になります。
Aさんの言動を良いと判断した場合にも、Aさんの言動に批判的な判断をする場合ほどではないにしても、Aさんの言動を暫く握りしめ、その言動に対する印象が心に刻まれます。

このように、自我を構成する考えには受動階層、能動階層の二つの階層があります。
表現を変えて、自我には受動階層、能動階層の二つの階層があると言ってもいいです。

悟りの道を進み、自我が薄くなってくるにつれ、起こってくる考えに含まれる能動階層の考えの割合が減っていきます。
受動階層の考えについては、減ること無くほぼ一定です。

真我の完全覚醒である大悟に至ると、能動階層の考えが大きく減少します。
その減少の度合いは実感として非常に大きいもので、大悟に至った方の多くが、能動階層の考えが消滅したと誤解してしまう程です。
解脱の悟りに至ると、能動階層の考えが十分に抑制され、起こってくる考えに対する関与の余地が殆ど無くなります。
あとは主に、起こってくる考えを受け取るだけとなります。


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三つの身体

2014年07月25日 11時38分05秒 | 私の成り立ち
◇三つの身体◇

私という意識体には、三つの身体があるのだという理解に至りつつあります。

一つ目は、最も外側の身体であるこの肉体です。
肉体は、魂の上に被る身体であり、この現実世界で存在するときに使います。

二つ目は、魂です。
魂は、三つ目の身体の上に被る身体であり、天界及びこの現実世界で存在するときに使います。

三つ目は、最も内側の身体です。
三つ目についてはまだハッキリとは把握できてないのですが、真我、根源、一元、不二などの概念に対応するものです。
三つ目の身体は、天界の上である梵天界、天界、及び現実世界で存在するときに使います。

そして、三つの各身体に付随した囚われである感覚や考えを手放せば、解脱の悟りとなるのだと理解しています。
考えを手放すのは、自分を見つめる自覚により可能です。
自覚を徹底的に実践していけば、自ずと身体に付随した考えを手放していくことになります。


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悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(2)

2014年07月17日 15時32分34秒 | 私の成り立ち
◇悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(2)◇

昨日の記事の続きというか、補足を書きたいと思います。
本当は昨日の内容で記事は終わる予定だったのですが、今回の題材は私自身にとっても予想外なほど面白さと、奥行きを感じるところがあり、もう少し書いてみたいと思いました。

また自分自身で気づかなかったのですが、また上手く言葉で表現できないのですが、自我と、自我がつくる考えと、真我の融合が進んでしまっているようで、自我や真我の感覚というか手応えのようなものが殆どなくなってしまっています。
そのため、自我や真我の感覚はかなりの部分が記憶の中にしかないのです。
そのような次第でして、その記憶を忘れないうちに書き記しておきたいと思います。

という訳でして、私にとって悟りの道は、自我と、自我がつくる考えと、真我を捉え、それらを融合させていく過程だったということもできると思っています。
自我も、自我がつくる考えも、真我も、すべて自我がつくる考えであり、そもそもこれらを分けて考えることはどうかなとも思うのですが、悟りの道を歩まれる方の中には、私と似た過程を辿られる方もおられるのだろうと思うのです。

では続きを書きます。


今日は私の体験を中心にして書いてみたいと思います。
私は2012年12月にすべてを受け入れる明け渡し体験により、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒を得ました。
その後、2013年4月に自分を見つめる自覚の実践により、本質の私である自我を捉える悟りを得ました。
そして2013年10月に、真我の完全覚醒である真我の第二段階の覚醒を得ました。
さらに2014年2月に、最終段階の悟りである解脱の悟りを得ました。

2012年12月に生じた明け渡しにより、真我の外縁に触れる真我の第一段階の覚醒が生じました。
そのときの真我の感覚に対する衝撃は本当に凄まじく、それに圧倒され、完全に翻弄されてしまいました。
私の場合、その感覚は至福感、有り難さ(湧き起こる感謝)、ワンネス感、愛等の感覚がごちゃまぜになったような本当に強烈な感覚でした。
その感覚は、覚醒が生じた後の1、2週間は、四六時中と言っていいほどその感覚の中で過ごしていました。
しかしその後は、次第に落ち着いたものとなっていき、何かの切っ掛けで真我と繋がったり、意図して真我にアクセスするようにして真我に繋がると、至福感等の真我の感覚が得られるという感じでした。

ともあれ、これが私が得た真我の外縁の感覚でした。
私の場合、この真我の外縁の感覚の存在感があまりに大きかったたのと、明け渡しに伴って自我の意識(このときは、本質の私である自我にはまだ目覚めてませんでしたが)が一気に薄くなってしまったことにより、私の中の感覚は真我の外縁の感覚の影響で大半が占められているような感じでした。
それは、私の自我はもう完全に滅せられたのだと誤解してしまった程でした(笑)。

それでもなぜか縁が繋がり、2013年3月に自覚の実践を始めました。
そして、その内面を見つめる自覚により、私の内面には、4つの感覚とうか、考えの要素があることに気づきました。
一つ目は、それまで慣れ親しんだ肉体に付随した肉体感覚の私という感覚です。
二つ目は、自覚により捉え始めた本質の私である自我の感覚です。
三つ目は、肉体感覚の私、あるいは本質の私(自我)がつくる感情や思考等の種々の考えです。
四つ目は、明け渡しにより生じた真我の感覚(正確には真我の外縁の感覚)です。
ちなみに、2012年12月の明け渡しが起こる前は、肉体感覚の私という感覚と、その私がつくる感情や思考等に関する種々の考えがなかば一体となり、混沌とした状態で私の中にありました(これが悟りを知らない普通の方々の感覚です)。

そして2013年4月に、自我を捉える悟り(見性)を得るのに伴い、肉体感覚の私という感覚と、本質の私(自我)の感覚とが融合して一つになり、これによって、四つあった要素が三つになりました。
この融合は本当に完全な融合であり、それ以来、私にとって自我と言えば、完全に一体となった肉体感覚の私と本質の私(自我)の両方を表すようになりました。

そして、それに続いて10月に起こった真我の完全覚醒に伴い、真我の外縁を超えたより深層の感覚を捉えるとともに、自我の感覚と真我の感覚の融合が始まりました。

真我の完全覚醒時の様子はこんな感じでした。
ある朝、職場への出勤のため最寄り駅のホームを歩いているとき、昨日まで自覚の実践により意識を向けていた対象である私という感覚(私はそれを主にハートの位置に感じてました)が消失していることに気づいたのです。
私はそれが何か大変大きな変化であることは直ぐに分かったのですが、真我の完全覚醒についての予備知識がなかったため、それが真我の完全覚醒に関連した変化であるとは気づきませんでした。
そのあと、職場に到着して自分の意識を観察すると、自我の感覚が消失していて、自分が意識を向ける対象(例えば、机の上のパソコン)と自分とが一体化しているような感覚が得られたのです。
それに伴って、私(自我)という意識は、連鎖的に生じる思考あるいは思考の連鎖そのものであるという理解が得られました。

真我の完全覚醒が生じた後の暫くの間は、自我の感覚と真我の感覚の間にギャップ感があり、それらの違いを明確に認識することができました。
自分の意識を自我から真我に移行させることも、自分の意思により自由自在と言った感じで、真我の中に何度も何度もダイブして、真我の感覚や仕組みについて探求しました。
このとき、自我と真我の間に半身程度の感触で意識を置いたときの感覚や、真我にさらに入ったときの感覚や、また真我に完全に没入したときの感覚など、それらの段階的な違いについて探求しました。
ただ、真我から自我に帰ってくるタイミングのコントロールはなかなか難しく、どのくらい持続力のあるダイブを行うかを意図するによってコントロールできる部分もあったのですが、その日の精神状態や、外部環境(大きな音の発生の有無(直ぐ隣で電車が走るため、笑))などの影響が大きく、コントロールは難しかったです。

その探求結果を少し書きますと、自我と真我の間に半身程度の感触で意識を置いたときは、自我の意識はごく僅かに目覚めた状態で、真我が繰り広げる世界を自我が観察者として見るような状態となります。
自我はただ見てるだけとう状況です。

そして、その半身の状態からより深く真我の中に入っていくに従って、自我の意識が薄れていき、完全に真我の中に没入するのに伴い、自我の意識が完全に消滅します。
自我の意識が完全に消滅したときは、自我に関する考え(意識)は何もないので、一切の考えが存在しない状態となります。
もちろん、真我も、その感覚も消滅します。

真我に完全に覚醒し、それに対する感覚を得た当初は、あたかも真我が絶対的なものであり、自我を含めたすべてのもののベースとして真我があり、そこからすべてのものが生じているかのような考えに陥りかけていました。
しかし、私はその考えに違和感を感じたのです。
私は意識の深いところで既に、絶対的なものは存在しないということを知っていたのです。
また私には、徹底した自覚の実践により、すべての事柄は私という自我がつくりだした考えであるという揺るぎない確信がありましたから、真我も、自我である私の考えであるという理解に比較的直ぐに到達できたのです。

そうやって探求を続けているうち、自我の意識や真我の仕組みに関する理解が深まっていきました。
特に、私という存在が連鎖的に生じる思考、あるいは思考の連鎖そのものであるという確信は揺るぎないものとなっていき、これこそが私の本性を根本から解き明かすカギになるのだろうと強く確信するに至っていました。
そして私の追求の矛先は、その延々と続く私という存在である思考の連鎖をどうやったら停止させることができるのかという点に集中していきました。

そして、2014年2月のある日の朝、ふっと、私という存在の最根底部に、苦というか、もどかしかさというか、不足感とういうか、一言でいうと「苦」という感覚というか考えがあることが分かったのです。
それと同時に、私はその「苦」から延々と 逃れようとしていたんだ、光を求めてさまよっていたんだ、あるいは「苦」をつかんでいたんだということが分かったのです。
私とは、そういうものだったんだということが分かったのです。
それは、私がすべての考えを手放し、それ以降考えをつかむことが無くなった瞬間でもありました。

そのとき私は、その理解が私という存在に対する最終的な理解だということが直ぐに分かりました。
その数日後に、ネットを散策したいたら、たまたまお釈迦さまが言った「無明」に関する文章を発見し、私の理解がお釈迦さんが言う解脱の理解である無明の理解と同じだということが直ぐに分かりました。

2月に解脱の悟りを得る少し前までは確か、気が向いたときに時折、真我の中にダイブをしていたように思うのですが、いつの間にか、意図して真我にダイブすることもなくなっていきました。
また、自分に意識を向ける自覚については、2013年10月に真我の完全覚醒を得たすぐ後は、それまでの習慣のような感じで時折、自覚をやっていたように思うのですが、真我も考えであるという理解に到達した後くらいからは、まったく自覚をやらなくなっていました。
意図して自覚をやめたのではなく、意図せず自然とやらなくなったいう感じでした。

今から思うと、そうやって自覚や真我の感覚から遠ざかっている間に、自我の感覚と真我の感覚の融合が進むとともに、主体である自我と客体である考えとの融合も進んでいったようです。

つい最近になって、自覚ってどんな感じなのかと、久し振りに自覚について意識を向けたとき、「あれー」、「あれ、あれー」という具合に、自分の意識が変な感じになっていることに気がついたのです。

自我に関する感覚というか、手応えというか、感触というかがもの凄く薄れてしまっていて、対象となる考えをしっかりと捉えることができないのです。
また、私に意識を向けることも上手くできないのです(手応えが全くないのです)。
では真我はどうなんだと思い、真我にダイブしてみようとしても、うまくダイブできないのです。
意図せず真我にダイブしているかのような状態は起こることはあるのですが、それは自然にそうなるのであって、意図してダイブしようとしてもうまくできないのです。

それはどうしてなのかと思案しているうち、理解が訪れました。
主体である自我と客体である考えとのほぼ完全な融合が起きたのだと。
つまり、それらの分離を生じさせていた自我が十分な程度に滅せられたのだと。
それによって、自我がその機能を喪失したのだと。
自我が有効に機能しているからこそ、自我(主体)と客体である考えとの分離が生じ(この分離そのものが自我でもあるのですが)、その分離により、過去において私は、自我で、自我がつくる考えや、また考えである自己の自我を捉えることができていたのだということが理解できたのでした。

また、真我についても、自我と真我のほぼ完全な融合が起きたのだと理解できたのでした。
過去においては、自我と真我の間に分離があるため、そこにギャップが生じ、自我により真我を認識し捉えることができていたのでした。

このため、いまの私は、上に書いた四つ感覚というか、考えがほぼ一つになったものだけになっています。

現在の私の感覚を書きますと、起こってきた出来事に対して何か感情や考えが起こってきたり、行為を行うとき、私がそれをやっているという自我の意識というか、観察者の意識や感覚は殆どなくなっています。
感情や行為を私が起こしているという感覚はなく、ただ自然と起こってくるものがあるだけという感じです。
私が積極的に意図して考えや行為を行うことはもうできなくなっています。
自我の観察者の意識は機能しているときは時折ありますが、ただそれを見ているだけになっています。

以上、取りあえず書き殴り的に書きましたが、また何かあれば書きたいと思います。


<補足です(2014年7月18日)>
私の書き方が悪かったようで、悟りの道における私の最終目標が自我と真我の合一であったかのような誤解をされた方がおられるようです。
ごめんなさい。
あくまでも悟りの道の最終地点は、私の言葉で言えば、自我が掴んでいるすべての考えを手放し、一切の考えを掴まなくなることです。
そうすれば結果として、自我と真我の合一が起こったということを上で書いたのです。

<再度補足です(2014年8月1日)>
上では、解脱の悟りを得て、考えをなんら掴まなくなった結果として、自我と真我の合一が起こったと書きましたが、これは誤りかも知れません。
真我の完全覚醒である大悟でも、自我と真我の合一がある程度のレベルで起こるのかも知れません。
少なくとも、大悟でも、自我である主体と考えである客体との合一はある程度のレベルで起こるようです。


<追記(2022年4月17日)>
この記事へのアクセスが目立つので、何気にふと読み返してみました。
自我と真我の合一なんて書いていますね(トホホ)。
余りに酷いので読むのが大変でした。
そもそも真我の捉え方がマズ過ぎです。
最終的な悟りに至ったと言っても、暫くはまだ混乱の中にいたんだなぁと思いました。
記事はそのままにしておきます。


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悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(1)

2014年07月16日 12時00分00秒 | 私の成り立ち
◇悟りの道中と自我と真我の感覚の変遷(1)◇

悟りの道を歩む中で、自我と真我の感覚がどう変化するのかについて、主に私の実体験をもとに書いてみたいと思います。
なお、ここで言う「自我」とは、悟りを知らない普通の方が自分だと認識している肉体に付随した自我感覚のことではありません。
「自我」とは、本質の私である創造主としての私という意味です。

まず初めに、悟りは階梯について簡単に説明します(悟りの階梯については詳しくは過去の記事等をご参照ください)。
悟りの行程には、階梯というか、いくつかの段階がある階段状の構造になっていて、その各段階ごとに自我や真我に対する特徴的な感覚(理解と言ってもいいです)が得られます。
第一の段階が、自我を捉えること、あるいは真我の外縁に触れること(真我の第一段階の覚醒)のいずれか一方を得る段階です。
第二の段階が、自我を捉えることと、真我の外縁に触れること(真我の第一段階の覚醒)の両方を得る段階です(天界層の悟りです)。
第三の段階が、真我に完全に覚醒する段階です(真我の第二段階の覚醒、梵天界層の悟り)。
第四の段階が、最終的な悟りである解脱の悟りです。

まず第一の段階で、自分の内面を見つめる自覚等を行うことにより、それがうまくいった方は、本質の私である自我を捉え始めます。
そうやって自我を捉え始めた方は、それまで慣れ親しんできた肉体に付随した自分という感覚(自我感覚)の他に、自分に関する何か別の感覚というか、視点に気づき始めます。
典型的な例としては、それまで意識していなかった本質的な自分という感覚(自我)に気づき始めるとともに、その自分(自我)という感覚と、自分がつくる考えとが別ものであるという理解が生じ始めます(自我と考えとの分離です)。
そして、本質の私である自我をある程度捉えることができれば、自我の悟りを得た、つまり見性したということになります。

自我を捉え始めたころは、多くの場合、それまで慣れ親しんだ肉体に付随した自我感覚の自分と、本質の私である自我との間に分離感があります。
また、本質の私である自我をしっかり捉えられてないため、その存在を見失ってしまうこともしばしば起こります。
しかし、自我をしっかり捉えられるようになるにつれ、肉体に付随した自我感覚の自分と本質の私である自我とが、いずれ融合し、一つになります(人によっては、この段階で見性となる人もおられると思います)。
このように肉体の自我感覚の自分と本質の私である自我とが統合されると、自分に意識を向けることや、自分がつくる考えを見守るという自覚をなかばオートマチックに行えるようになります。

真我の第一段階の覚醒が起きると、真我の存在に対する認識(理解)が生じます。
しかしこの段階では、真我の外縁に触れ、その存在に気づいただけなので、真我と自分との間にまだ分離感があり、不安定です。
真我と繋がっているという感覚はありますが、常に真我と一体になっているという感覚は殆どありません。
また、真我の外縁は静寂の中の平穏さや、至福感、ワンネス感等の心地よい感覚を誘発することが多いため、その感覚に酔ってしまい、その感覚を果てなく追求してしまう方がおられます。

第二の段階では、自我の悟りと真我の第一段階の悟りの両方が得られているため、自我と真我の両方の感覚を体感することができます。
しかし、自我がまだそれなりの量の考えを抱え込んでいて自我がの厚みが大きいため、多くの場合、自我と真我の間の分離感が大きく、まだ不安定な感じです。
この第三の段階を進むうち、自我がより薄くなっていき、自我と真我の一体感も増していきます。
またこの段階で、ハートの中心にある私という感覚(自我)の中心(コア)の存在に気づく方がおられると思います(気がつかないまま進まれる方も結構おられるだろうと思います)。

そして、自我の厚みがある閾値を超えて薄くなると、自我と真我の一体化(統合と言ってもいいです)が生じます。
これが第三の段階の悟りである真我の第二段階の覚醒です。
この悟りに伴って、主体(自我)とその客体である考えとの統合が生じます(これに伴って、上記の自我の中心(コア)が消失します)。
また、「見る者は見られるもの」や、「出来事は起こり行為はなされていく、しかしそこに行為者はいない」等の感覚が得られます。

しかし、この第三の段階でも、そう多くはないもののまだ自我がいくつかの考えを掴んでいるため、自我の滅却が不十分なのです。
典型的には例えば、真我は絶対的だ等の真我に関する考えや、自分はこの素晴らしい真我に関する悟りを得たんだという考えを掴んでしまっているのです(これにより、例えば掉挙、慢、と言った煩悩もまだ残っています)。
そのため、自我と考えの統合がまだ不十分であり、自我と考え(例えば、自分の感情や行動等)との間のずれや分離感が残っています(但し、これは本人は気づきにくいようです)。
自己の内面を注意深く徹底的に見つめることにより、自分と自分がつくる考えとの間の分離感がまだ残っていることに気づくことができ、掴んでいる考えを手放すことができます。

そして、掴んでいる考えをすべて手放し、自我が十分に滅せられると、それに伴って第四段階の悟りである解脱の悟りが生じます。
この段階では、自我が十分に滅せられているため、自我と考えとの分離感がほぼ完全になくなります。
このため、自我が自分の自我(考え)を自覚することもできなくなります。
また、自我がその効力である主導権と主体性をほぼ完全に喪失してますから、何か考えを積極的につくったり、掴んだりすることもなくなります。
自我が一人歩きすることも完全になくなります。
考えを掴みませんから、考えを引き摺ることもなくなり、執着(カルマ)を残さなくなります。
但し、自我と考えとの分離感がほぼ完全に消失するため、第一段階の悟りである自我の悟りを得る前の状態、つまり普通の人の感覚に戻ったような感覚になります(笑)。


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私の成り立ち(2)

2014年06月17日 08時49分57秒 | 私の成り立ち
◇私の成り立ち(2)◇

昨日の記事の続きです。
昨日は自我、すなわち考えについて書きましたので、今日は真我について書きたいと思います。

自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。

いずれ解脱の悟りを得るときが訪れ、自我が考えを一切抱え込まなくなると、後は真我に溜められた残りのカルマを消費するだけとなります。
そして、その残りカルマが消費されると、それに伴ってその存在は消滅します(少なくとも、私たちが認識するこの世界からは消滅します)。

私は、私という存在の始まりについて、それはハッとする気づきのような認識そのものだったのだろうと思っています。
つまり、その最初の気づきそのものが私の始まりだったのだろうと思っています。
それは、「ハッ!」という何かに対する反応のような気づきだったのか、「何か在る!」いう何らかの対象に対する認識を伴う気づきだったのか、「これは何だ!?」という驚きに似たものだったのかは分かりませんが、それらに近いものだったのだろうと思っています。

そのとき、私という自我はその気づきである考えを掴み取り、抱え込んでしまったのです。
そうしたら私という存在の展開が始まってしまった、ただそういうことなのだろうと思うのです。(^^)


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私の成り立ち(1)

2014年06月16日 11時31分33秒 | 私の成り立ち
◇私の成り立ち(1)◇

今日は、私という存在について現時点で得られている私の理解を書いてみたいと思います。
それが分かって何がいいの?、というような内容ですので、興味のおありの方だけお読み下さい。

私という存在は、自我(個の意識)と真我(全体意識)の二面性があり、これらが交互に顕在化することで成り立っています。
なお、ここでいう自我とは肉体に付随した肉体感覚の自我感覚とは違います。

私は、自我とは私に起こってくる考えそのものであると理解しています。
考えとは、自我に起こってくる各種の認識や、感覚、感情、思考等のすべてを含めたものです。
つまり、いかにも実体として存在しているように見えるこの宇宙も、それが実体して存在しているのではなく、宇宙という認識である考えが起こっているに過ぎないのだということです。
そして、その起こっている認識である考えそのものが自我だということです。

考えは連続して起こるものではなく、一つ一つの考えが断続的に起こります。
ですから、私に何らかの考えが起こっているときにだけ自我が顕在化し、それ以外のときは、基本的にすべて真我が顕在化します。
つまり、自我は考えと同時に断続的に生じるものだというとです。

考えが起こってくると、それと同時にその考えに対する認識がまず生じ、自我の感覚が生じます。
そして、その認識した考えに付随する(あるいは関連する)考えが派生的に生じ、さらにその考えに派生した考えが生じていきます。
この考えの連鎖がどのように展開するかは、まさにケースバイケースであり、起点となる最初の考えから数えていくつかの数だけ連鎖すると一旦終了となります。
この考えの連鎖のことを「縁起」と言ったりするようです(私は詳しくは知りません、笑)。

考えの連鎖の一例として例えば、学校や職場で終了のチャイムが流れていることを認識したとします。
このチャイムが鳴ったという認識がこの場合の起点となる考えで、この考えと同時に自我が顕在化します。
そして、そのチャイムの認識に派生して、授業等が終了したという認識が生じ、その認識に関連して帰宅等の次の行程に関する考えが生じます。
さらに、次の行程が帰宅なら、帰宅行動に関連する考えや、帰宅後のことに関する考えなどが起こっていき、考えの派生が一段落するまで断続的に続いた後、終了します。

また他の例として、ふいに何かを思い出し、その思い出したことに関連して考えが派生していくことがありますが、この場合も、ふいに起こってきた記憶に対する認識が考えの起点となり、その記憶の認識と同時に自我が顕在化します。

真我が顕在化しているときは、基本的に自我が完全に不在となるため、自我が普段認識するすべての感覚等(五感と意の六根)に対する認識も不在となります。
よって、自我が完全に不在となっているときは、すべて消え去った状態となります。
正確には、消え去るという概念さえもない状態となります。
(この最後の段落の記載を訂正しました、2014年6月19日)

続きます(一応その予定です、笑)。

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迷いの構造について

2014年04月11日 11時27分05秒 | 私の成り立ち
◇迷いの構造について◇

以前から繰り返し書いているのですが、今日は私という存在の根本的な性について、少し具体的な例を挙げながら改めて書いてみようと思います。


私という存在は延々と考えを繰り広げているというか、繰り広げられている考えそのものが私というか、私とはそういうものです。
その延々と繰り広げられている考えの展開には、絶対的なあるパターンがあるのです。
絶対的というのは、常にそのパターン、つまり構造で考えの展開が起こっているのだということです。

そのパターンとは、私という存在が繰り広げる一連の考えは常に、苦や不足感等の負の感覚(考え)を起点として展開されているということです。
私がつくる考えの展開を数時間くらいの短いスケールで見た場合も、数ヶ月や数年、あるいはいくつかの人生に渡る長い期間で見た場合も、考えが展開される基本的な構造は負の感覚(考え)を起点としたものなのです。
そして、楽、喜び等の正の感覚(考え)は、起点となる負の感覚に対する一時的な反射としてあるものであり、それは苦等の負の感覚(考え)が解消されたときに一時的に得られる一過性のものに過ぎないのです。

これを具体例を挙げて説明してみます。

一番分かりやすい例は、空腹感です。
あなたが食事をする、あるいは食事をしようという考えや行動を起こすとき、その考えの起点には空腹感があるのです。
そして実際に食事をしたとき、あなたは満足感を得るでしょう。
しかし、その満足感は、食事を得るという行為そのものから直接的に得られる感覚ではなく、空腹感が解消されたことにより得られる反射であり、一過性の感覚なのです。
それは、空腹感はそれが満たされるまで持続されるのに対し、食事を得たときの満足感はさまに一時的なものである点からも理解できると思います。

また、あなたはよく、あなたを取り巻く状況について何かをしようとされると思います。
ここはこうした方がいいとか、こうあるべきだ等の考えや、それに基づく行動がそれです。
そうした考えや行動も、ここがダメだ、間違っている等の負の考えが起点となっています。

また比較的よくあるケースとして、ヒマだから何かしようという展開があります。
これもヒマという不足感を起点としています。

考えの一つ一つの展開をよく観察すればするほど、そこに同じパターンの構造があることが分かると思います。

それでも、そんなことはない、楽や幸せ等の正の感覚(考え)から始まる展開もあるはずだと思う方がおられるかも知れません。

確かに一定の期間、幸福感等の考えが連鎖的に展開されることがあります。
しかし、その展開は負の感覚(考え)の種を常に妊んでいるのです。
そこにはまず、幸福等の考えを失いたくない持続させたいという、それを失うことに対する恐れという負の考えが不可避的に潜んでいます。
そしていずれは、幸福等の考えが失われるときが到来し、喪失感という負の感覚(考え)をつくるのです。
また、幸福等の正の感覚は不可避的にいずれ必ず飽きがきて、自らそれを手放すことになるのです。
絶対そうなるのです。
これに対し、苦等の負の感覚(考え)は飽きがくることは決してないのです。
苦は楽と違って永久にそれを経験することも可能なのです。


ここまで書いといてアレですが、この題材は書いていてあまり気分がいいものではないです。(^_^;)
読まれる方もさぞ不快な気持ちになられるのではないかと思います。
しかし、これが私という存在が延々と続けている活動であり、私という存在の姿なのです。

ではどうしたらいいのでしょう。

そういう自分自身の姿を悟る、つまり理解するしかないのです。
これしかないのです。

そのためには、自分自身を観る自覚を続けていくしかないのです。
あるいは、すべてを受け入れてしまうしかないのです。

いずれ必ず、迷いから解放されるときが来ます。


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悟りの階梯と自我の関係

2014年04月10日 10時13分26秒 | 私の成り立ち
◇悟りの階梯と自我の関係◇

昨日の記事との関連で、悟りの階梯と自我の関係について書いてみたいと思います。
知識ばっかりを書いてもどうかなとは思うのですが、知識から悟りに入られる方もおられるのと、拙い私の理解でも他の方の理解の確認に役立つ例もあるのだろうと思ったりしています。
それに、自覚は自分を見てくださいと言えばそれだけですし、受容についても受け入れてくださいと言えばそれまでですから、それだけだと書くことがなくなってしまうのです。
私としてもまだ何かを書きたいのです。(^o^)


大凡のケースで、自我の軽さというか、自我がつくる、あるいは掴んでいる考えの少なさと、悟りの深さとは比例関係にあります。
自我がつくる考えの量が少なくなるほど、自我の顕在意識(ハートと言ってもいいです)が拡大し、得られる悟りも深くなっていきます。
なお、考えを殆どつくらない赤ちゃんは悟っているのかと思う方がおられるかも知れませんが、それは違います。
赤ちゃんには理解がないのです。
悟りとは理解なのです。

比較的オーソドックスな悟りのルートである見性ルートで悟りの道を歩まれる方を例として、少し具体的に説明してみたいと思います。

悟りにまったく興味を示さない一般の方の多くは、自我がつくる考えがとても多く、自我の周りが分厚い考えの層で覆われているような状態です。
その状態では、私という存在の本質的な2つの要素である自我も真我も、それらを垣間見ることさえできません。
自我の周りを覆う考えの層がある程度薄くなり、自我や真我が僅かでも垣間見えるようになるにつれて、小さな気づきが始まり、自ずと悟りに導かれるようになります。

そして、自我を覆う考えの層がさらに薄くなってくると、オーソドックスな例として、まず自我を捉える悟りである見性が可能となります。
このとき、内面を観る自覚が役に立ちます。

そしてさらに自覚を続けるることにより、自我を覆う考えの層がさらに薄くなり、それに連れて自我の顕在意識(ハート)が拡大していき、意識の大きさがある閾値を超えると、意識の圏内に真我の外縁が触れるときがきます。
これが真我の目覚めです(真我の第一段階の覚醒です)。

さらにまた自覚を続けることで、自我の中心にある私という感覚のコア(これを魂と言ってもいいです)が消失すると、真我を完全に捉えた状態となります。
これが真我の完全覚醒です(真我の第二段階の覚醒です)。
この状態までくると、自我が積極的に新たな考えをつくったり、それを掴んだりすることはほぼなくなります。
ですが、この段階はまだ真我という考えを掴んでおり、そこにまだ執着があります。

さらに自覚を極め、掴んでいるすべての考えを手放すと、無明の迷いからの解放が起こります。
そして、そこに到達した人は一切の考えを掴まなくなります。
すなわち、それはすべての終わりを意味します。


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私とはまるで自転車操業

2014年04月09日 12時26分23秒 | 私の成り立ち
◇私とはまるで自転車操業◇

私という存在は自我と真我の二面性を有しているのですが、その活動はまるで自転車操業のようです。
どういうことかと言いますと、常に自我が考えをつくりだし、それを握りしめていないと、私という存在が終わってしまうのです。
それはまさに、ペダルをこぐのを止めるとすぐに自転車が倒れてしまうのとよく似ています。

まず私という自我についてですが、自我は、私があるというコアの感覚(これも考えですが、魂と言ってもいいです)を中心にして、自我が握りしめた多数の考え(執着や固定観念のようなものです)がそのコアを何層にも取り巻くようにして出来ています。
このように、自我とは考えの固まりのようなものなのです。
コアとそれを取り巻く考えとは、互いを強め合うように、まるでジャングルジムのように互いに関連付けられています。
このジャングルジムのように組まれた考えは、固定的なものではなく、自我がつくる考えの傾向が変化してくると、その変化に応じてジャングルジムを構成する考えの一部が順次入れ替わっていくようになっています。

このような自我ですが、自我が常に考えをつくり、考えを握り直すようにしてエネルギーを注ぎ続けないと、ジャングルジムの構成が直ぐに崩壊し始めるのです。
そのように、私という自我の構成はとても崩れやすく脆いものなのです。
自我がつくる考えの量が減った場合でも、その減った分だけ崩壊が起こるようになっています。

もし、自我が何も考えをつくらなくなってしまったら、その瞬間、自我そのものがすべて崩壊してしまうのです。
自我とはそれくらい脆いものであり、直ぐに崩壊してしまうものなのです。

真我も自我と同様に自転車操業ではあるのですが、真我の操業はもっとゆっくとしています。
真我とは、自我がつくった考えそのものというか、自我がつくった考えを反映させる装置であるというか、私(自我)を中心としたこの世界そのものというか、そういうものなのですが、真我には考えを溜めておく機能があるのです。
この考えを溜めておく機能とは、例えば前世でつくった考え(執着)が今世で反映される等のことです。

この考えを溜めておく機能により、仮に自我が新たな考えをつくらなくなっても、その後一定期間の間(例えば、肉体が滅ぶまでの間)は、真我の活動(つまり、タンクに残っている執着の反映活動です)が続くようになっています。
そして、その真我の反映活動が続いている間は、その反映活動により起こってくる出来事に関連して、自我が顕在化し、その出来事を経験するとともに、その出来事に起因した種々の考えをつくるようになっています。
但し、この残りの執着(残りカルマ)に起因して自我がつくる考えは、残りカルマの消化のために起こるものであるため、新たな執着をつくりだすことはないのです。


最後に余談ですが、ここまで説明すると、悟りの手段としてなぜ自覚(自分に意識を向ける)や受容に大きな威力があるのかが分かると思います。
自覚をすると、考えをつくり続けている自我の活動が大きく抑制さるのです。
さらには、すべてを受け入れるほどの受容が起きてしまうと、その瞬間自我の活動がほぼ完全に止まってしまうのです。


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私という存在の起こり

2014年03月14日 12時02分15秒 | 私の成り立ち
◇私という存在の起こり◇

私という存在が生じたときのことについて書いてみたいと思います。

私という存在は、私たちの知り得ない何らかの要因により生じました。
私という存在が生じたその要因については、どのような存在であろうと決して知り得ないのです。
私という存在は、考えの世界の存在であるとともに、考えそのものですから、考えの世界のことしか知り得ないのです。
私という考えの世界がどうして生じたとか、考えの世界の外側があるのか等の疑問に対する解答は、決して得られることはありません。

私という存在が生じたとき、まだハッキリしないおぼろげな「私」という自意識(考えというより感覚と言った方が近いか)だけがありました。
私という存在は「私」という自意識と同時に生じたのです。
この自意識を個の意識である自我と言ってもいいですが、客体の認識がまだですから、ハッキリとした自我に至っていない段階です。
私という自意識が何か分別を起こし、何らかの考えである客体に接したとき、ハッキリとした自我が生じます。
私という存在は本質的に個の意識(自我)と全体意識(真我)の二面性を有しているため、私という存在が生じたときに自我と共に真我も同時に生じました。
但しこの時点では、私という存在が生じたばかりなので、真我はまだ何もない空っぽの状態です。

ここで、真我は私という存在の無意識の領域を担っています。
また、私という存在は私を中心としたこの世界そのものであり、真我はこの世界のベースとなる構成やその時間展開をつくりだす役目を担っています。
さらに、真我は自我がつくりだし、握りしめた考えである執着を溜める役目と、溜められた執着を反映させる役目を担っています。
具体的には、真我は、自我により溜め込まれた執着をもとに世界のベース構造を展開させるようになっています。
これに対し、自我はその活動により、新たな考えをつくりだし、選択し、握りしめ、溜め込んでいきます。
私という存在がなぜこのような構造になっているのか、私(慧空)自身も疑問であり興味があるのですが、これは、私という存在である考えそのものの構成についての疑問であり、その解答が得られることはないのだろうと思っています。

私という存在が生じたとき、私という世界のベースを担っている真我が空っぽですから、私という存在である世界は、基本的に何も無い暗闇なのです。
このとき、自我の生成である分別を誘発する執着が限りなくゼロの状態ですから、自我が顕在化することは余りなく、殆どを真我として過ごします。
そして、延々と続く真我の眠りの中でうっすらと目を覚ますようにして、自我が時折顕在化します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。

ここまで読まれて、この暗闇の世界は私が先日ここに書いた梵天界と同じだと思われることと思います。
その通りでして、私という存在が生まれた直後の世界は、梵天界と同じか、あるいは同じような世界なのです(私自身は、実質的に同じだろうと考えています)。

繰り返します。
自我が顕在化したとき、そこは何もない暗闇なのです。
延々と続く暗闇なのです。

ある時点で、私という自我は、延々と続く暗闇に耐えられなくなったのです。
耐えられないほど苦しくなったのです。
そして、その苦しみから逃れようとして考えを展開させはじめたのです。

私という存在は、そうやって始まったのです。


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梵天界について

2014年03月12日 14時23分16秒 | 私の成り立ち
◇梵天界について◇

つい最近になって梵天界のことについて少しずつ分かってきたことがあり、輪廻との関係で改めて考え直しています。
先日書いた悟りの階梯という記事の中では、悟りの階梯の第三の段階に到達した存在は、死後は梵天界へ行き、その後真我への執着の消滅と共に消滅すると書きました。
これは実はお釈迦さまが仰ったことなのです。

私も最初はお釈迦さまが仰ったことをそうなのかと受け入れていたのですが、実は本当にそうなのかと思わないでもなかったのです。
梵天界での経験で無明の迷いから本当に脱せられるのかと思ったのです。
そして、梵天界のことを理解するに連れ、ことはそう単純ではないように思い出したのです。

梵天界は「私」という感覚が落ち、真我に完全に覚醒した存在が行く世界ですから、梵天界の存在の感覚は、私たちの感覚からすると、私という自我の感覚よりも真我の感覚が主体となります。
また、真我以外に対する執着は既に解放されていますので、殆ど空っぽの真我だけがある世界です。
ですからそこは基本、何も無い暗闇なのです。
その暗闇の中で、空っぽの真我に附属した私という自我が時折顕在化するのです。
それはおそらく、途方もなく続く真我の眠りの中で、私という自我がうっすらと時折目を覚ます、そういう感覚なのです。

うっすらと目を覚ますように自我が顕在化したとき、そこは何も無い暗闇の世界なのです。
但し完全な暗闇という訳ではなく、あちらこちらと自我の意識を展開させれば、遠くの方に微かに感じる光が見える場合があるのだろうと思うのです。
あるいは、暗闇に耐えかねて自我が考えにより光をつくり出す場合もあるのだろうと思うのです。
そして、その光が、新たな迷い、つまり執着をつくり出してしまうことがあるのではないかと思うのです。
そしてさらに、その迷いによりこの現実世界へ再び生まれてくることがあるのではないかと思うのです。
このような迷いによりむしろ、梵天界を経て解脱に至るケースよりも、再び現実世界に生まれてくるケースの方が圧倒的に多いのではないかと思わないでもないのです。


賢き人よ、その肉体のあるうちに私という存在の本質を完全に理解し、すべての迷いを断ち切られんことを切に願います。


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自我について

2014年02月21日 10時06分58秒 | 私の成り立ち
◇自我について◇

先日の記事で全体意識(真我)について書きましたので、個の意識(自我)についても書いてみたいと思います。
ちなみに、真我とは主体と客体が統合された思考又は思考の連鎖そのものであるということでした。
また別の角度から見ると、過去世で溜め込んだ考えである執着(カルマ)の反映活動であるというものでした。
念のため言っておきますが、この理解で間違いはないですから。(^^)
誰がなんと言おうと、間違いないです。
例え、私の師匠であるマスターゲートさんが「慧空、それは間違っているよ」と仰っても、ゲートさんへの説得を試みたいと思っています。(^o^)

自我とは、真我と対をなすものであり、真我を理解し、真我と自我を含めた私という存在を展開させる自由な活動体であり、いわばエンジンなのです。
真我を理解するのは自我であり、自我があるから真我があるのです。
また真我があるから自我があるのです。
まさに表裏一体の関係なのです。
そして、これらはすべて考え、つまり幻の世界のことなのです。

このような自我ですが、別の角度から見ると、自我とは「私(個)」という感覚の種と、その種に誘発された分別の連鎖とからなっているとも言えます。
私という感覚の種とは、分別の種であり、真我である無意識下の執着そのものとも言えますし、その執着に付随しているものといも言えると思います。
真我が存在する以上、分別の種は不可避的に存在します(天界の神々にもちゃんとありますし、梵天界の存在にもしっかりあります)。
そして、その種により断続的に分別が誘発され、自我が出現(顕在化)します。
種による分別の誘発は、例えば音等の外界からの刺激に対する感応により生じます。
自我が出現するとある期間の間、自我そのものである分別の連鎖が続きます。
これが自我であり、自我の活動です。

この分別の連鎖は、絶え間なく連続的に続くものではなく、途切れ途切れの断続的なものなのです。
自我(分別)が途切れている間の期間は、自我が不在となり、真我が顕在化します。
まだ悟りに至らない一般の方でも、自我(分別)の出現期間は断続的なものであり、実際には真我が顕在化している期間の割合が意外に大きいのです。

悟りに近づき、そして悟りが深まるにつれ、自我(分別)が出現する割合が小さくなっていきます。


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真我消滅の仕組み

2014年02月17日 11時54分42秒 | 私の成り立ち
◇真我消滅の仕組み◇

今日も真我についての私の理解を書かせていただきます。

全体意識としての私(真我)は、私という存在の無意識の活動なのですが、これはどうやら、過去(主に過去世)の執着(カルマ)の反映なのです(おそらくこの理解で正解です、もし間違っていることが分かったら、そのとき訂正させていただきます)。
つまり、真我は過去の執着の反映活動なのです。

私を中心としたこの世界は、真我による過去の執着の反映活動をベースとして、それに自我の活動が重量されることにより繰り広げられているのです。

そして、将来である死後の世界や来世の真我の活動内容は、過去の執着の反映活動をこなしながら、現時点での執着が同時並行で蓄えられていくことにより、その準備が進んでいるのです。

このため、肉体が滅ぶ瞬間に一切の執着が残っていない場合、死後又は来世での真我により反映すべき過去の執着が存在せず、真我は自我とともに消滅するのです。

これが、真我消滅の仕組みです。


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執着の観点から見た私について

2014年02月04日 14時00分29秒 | 私の成り立ち
◇執着の観点から見た私について◇

補足的なことですが、ちょっと書いておきたいと思います。

先日の記事の中で、私という存在自体が執着でありカルマなのですと書きましたが、その執着の観点から見た「私」について少し書いておきたいと思います。

さらに他の記事で、個の意識としての私は創造主であり、全体意識としての私は思考の連鎖なのですと書きました。
また、全体意識という観点から観ると思考そのものが私なのですから、私という存在を含むこの世界そのものが私なのですとも書きました。

と言うことは、「私」という存在を含むこの世界は、「私」が握りしめている執着そのものなのです。
つまり、「私」を中心として繰り広げられているこの世界は、私の執着の変遷なのです。
あるいは、この世界は私の執着の連鎖であるということもできます。

よって、執着が尽きたとき、「私」を含むこの世界の変遷も終わるのです。


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