◇再度なぜ私を捉えることが大切なのか◇
半年程前に、「なぜ私を捉えることが大切なのかについて」という記事を書きましたが、大事なことなのでもう一度書いてみようと思います。
まずは、お膳立てから書きます。
一切のことがらは考えであり、実体が無く、あるとも無いとも言えない、幻のようなものです。
ですから、私も考えであり、実体が無く、あるとお無いとも言えない、捉えどころのないものです。
そもそもところ、確かなものなど何処にもないのです。
しかし、そのように幻のような多種多様な考えの中で最も確かなものを敢えて挙げるととすると、それが「私」なのです。
最も確かなものは、目の前にあるパソコン等の物体ではなく、「私」なのです。
そして私たちには、そのようにあるのか無いのかよくわからない「私」が一人に一つずつ備わっているのです。
なぜ私を捉えることが大切なのか、大きくわけてその理由は二つあります。
私たちには否応なく「私」が備わっているのですが、多くの方はそれを意識することなく、無自覚に生きています。
そのため、意識が外側に拡散しやすく、自らの本心に向き合うことも難しくなります。
生きることに対する取り組みも深まりずらいです。
私を捉えることで、意識が「私」に向き、自らの本心にも向き合いやすくなります。
これが一つ目の理由です。
もう一つの理由について。
一切は考えであり、この世界も考えなのです。
それはそれで合っているのですが、それだけでは意識の置きどころがなく、意識が彷徨ってしまうのです。
世界の中心である私を捉えることで、意識が定まりやすくなり、悟りへの取り組みも進みやすくなります。
また、私自身もそうでしたが、多くの方々は私を捉えることなく、覚醒体験等により悟りの行程に入ってしまいます。
悟りの行程に入ると、自我や自我感覚が急激に希薄化しますから、「私が無くなった」、「私はもとから無かった」等の誤った認識に嵌まり込みやすくなります。
そもそも、一切のことがらについて、あるとも無いとも言えませんから、「私が無い」という認識は間違いであり、そのような間違った認識により悟りが起こることはないのです。
間違った認識に囚われている限り、そこで迷い続けることになります。
さらに、悟りの行程に入り、進んでいくとき、手掛かりになるのは自分自身、即ち「私」の微妙な感覚だけなのです。
そのとき、「私」を捉えらていないと手掛かりとなるものが得らず、どうしても迷ってしまうのです。
ですから、悟りの行程を歩んでいく際には、どうしても「私」を捉えておく必要があるのです。
これが二つ目の理由です。