◇思考の連鎖と私(1)◇
以前ここに、私とは思考の連鎖、あるいは思考そのものであると書いたのですが、ただでさえ突飛雄牛のない話のなのに、余りにも簡単に書きすぎてしまったかなあと思い、少し引っ掛かっていました。
今日は、そのあたりについて改めて書いてみようと思います。
「私」について考察するに、「私」とは止めどなく連鎖的に推移するスポットライトのようです。
そして、その毎瞬ごとにスポットライトが当てられる先では、スポットライトの動きに連動して種々の考えが生成されていきます。
ある瞬間に、何らかの事象についてスポットが当てられているときは、そこでその事象に関連する考えの生成が起こります。
そして、次の瞬間に「私という考え」の方にスポットが当てられると、その瞬間、「私という考え」が生成されます。
ここがポイントなのです。
「私という考え」、すなわち、私たちが普通の感覚で私自身と思っている「私という存在」は、スポットが他の事象に当てられていて「私という考え」がつくられてない間は、存在していないのです。
つまり、感覚的な「私という存在」は、常にあるのではなく、間欠的につくり出される考えであり、幻なのです。
では、普通の感覚での「私という存在」が間欠的につくり出される幻なら、「真の私」とは何なのでしょう。
止まることなく推移し続けるスポットライトの動き、すなわち思考の連鎖こそが「私」なのです。
かなり突飛雄牛のないことを書いています(余計分からなくなってしまったでしょうか、笑)。
どうぞあまり深く考えられることなく、スルーしてください。
無理に考えても理解できるものではありません。
考えるより、感じていただきたいという感じです(笑)。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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以前ここに、私とは思考の連鎖、あるいは思考そのものであると書いたのですが、ただでさえ突飛雄牛のない話のなのに、余りにも簡単に書きすぎてしまったかなあと思い、少し引っ掛かっていました。
今日は、そのあたりについて改めて書いてみようと思います。
「私」について考察するに、「私」とは止めどなく連鎖的に推移するスポットライトのようです。
そして、その毎瞬ごとにスポットライトが当てられる先では、スポットライトの動きに連動して種々の考えが生成されていきます。
ある瞬間に、何らかの事象についてスポットが当てられているときは、そこでその事象に関連する考えの生成が起こります。
そして、次の瞬間に「私という考え」の方にスポットが当てられると、その瞬間、「私という考え」が生成されます。
ここがポイントなのです。
「私という考え」、すなわち、私たちが普通の感覚で私自身と思っている「私という存在」は、スポットが他の事象に当てられていて「私という考え」がつくられてない間は、存在していないのです。
つまり、感覚的な「私という存在」は、常にあるのではなく、間欠的につくり出される考えであり、幻なのです。
では、普通の感覚での「私という存在」が間欠的につくり出される幻なら、「真の私」とは何なのでしょう。
止まることなく推移し続けるスポットライトの動き、すなわち思考の連鎖こそが「私」なのです。
かなり突飛雄牛のないことを書いています(余計分からなくなってしまったでしょうか、笑)。
どうぞあまり深く考えられることなく、スルーしてください。
無理に考えても理解できるものではありません。
考えるより、感じていただきたいという感じです(笑)。
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