私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

空を批判する

2024年03月03日 10時03分38秒 | 悟り
◇空を批判する◇


仏教で使われる概念に、空というものがあります。
今日は、その空を批判します。

空は、日常的な概念について説明するためにわざわざ導入された概念ですが、この空という概念を持ち込むというやり方そのものが既に筋が悪いのです。

そもそものところ、一切のことがらは説明をすることが不可能なのです。
よりわかりやすく言うと、一切のことがらは説明を尽くすことができないのです。
ですから、空という概念を持ち込んだところで説明できないという状況には変わりないのです。
むしろ、いたずらに概念を増やすことで余計ややこしくなってしまうだけです。

わざわざ空なんて概念を持ち込まなくても、日常的な概念を使って同程度の説明は十分にできるのです。
むしろ、空を持ち込まない方が、ややこしくならずに、よりわかりやすくすっきりとした説明ができます。
ここはとても大切なところです。


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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21 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2024-04-25 23:04:07
もうあまり質問しないほうがいいのかもしれませんが、観照意識ではなくで自我なんですね。意外だなぁ
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あさんへ (慧空)
2024-04-25 19:57:24
私とは、自我のことです。
これ以上、説明してもきりがありません。

識は、この世界そのものとして展開している意識の最小単位のことです。
この世界である意識は、識の連鎖として捉えることができます。
この識は、頭で考えても理解するのは困難だろうと思います。
実際に体感しないことには、しっくりといきません。
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Unknown ()
2024-04-25 18:26:46
慧空さん
ご親切に教えていただきありがとうございます。よく頭ではわかります。
この世界の三大要素は私、識、苦なのですね。世界の三大要素の一つとしての私ご説明いただけないでしょうか?
それと実は識は他の記事でも触れられていたかもしれないのですがしっかりわかりません。あくまで概念としてなんなのかご説明いただきますとありがたいのですが
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あさんへ (慧空)
2024-04-25 12:24:10
無常という考えがダメな最大の理由は、無我によるものです。
これは、無常の例外を挙げるまでもないことです。
例外を敢えて挙げるとすると、無常の例外は涅槃だけなのかもしれません。

苦についても、もちろん無我の対象です。
有るのか無いのかも含めて、よくわからないものです。
それでも、悟りに関しては極めて重要な要素であり、正面から向き合う必要があります。

一切は無我ではありますが、
私、識、苦の三要素は、この世界の最も本質的な要素なのだろうと考えています。
返信する
Unknown ()
2024-04-25 09:48:30
無常の例外は涅槃だけですか?無常の問題は無我なので何事も言い切ることはできない、と言うのが無常が成立しない理由ならなぜ苦は残っているのですか?
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あさんへ (慧空)
2024-04-25 06:49:23
最初の存在がどうして生まれたのかは、残念ながら決してわからないことなのです。
存在が生まれた後のことも、それがどういうものなのかがわからないのですから、それがなぜ生まれたのかはさらにわからないことです。
まったく歯が立たず、完全に、これっぽっちもわからないことです。
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Unknown ()
2024-04-25 05:50:44
>悟りの意識状態は何らかの形で次の転生に残るようなので、解脱すると、もう転生はしないのではないかと考えています。
前世でのやり残し、つまりは解脱に向けてのやり残しをやるために輪廻すると言うのはストーリーとして素人にも腑に落ちます。ただそうすると最初の生命と言うか人間はどうして生まれたのでしょうか?何かわかることはありますか?
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あさんへ (慧空)
2024-04-24 20:38:05
補足です。

デカルトのことが出て来ましたが、
「我想う故に我あり」でしたっけ、
一般的な概念からは確かにそう言えるところはありますが、
厳密に言えば、これは間違っています。

私が何かを考えることは、私という自我が存在するという根拠にはならないのです。
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あさんへ (慧空)
2024-04-24 20:30:12
「実体」という言葉をしょうことなしに使っていますが、実体なんてものはどこにも無いのですから、説明のしようがないです。

一切に実体が無い、絶対が無い、根拠が無いは、無我に含まれる意味合いです。
この無我は、大悟くらいの深い悟りに到達すると自ずとそれに伴って理解するものですが、悟らなくても、ものごとを合理的あるいは論理的に突き詰めて考えていくと、必ずそこにぶち当たり、否応なく理解せざるを得ないのです。

ブログ記事にも書きましたが、一切に根拠が無いのです。
1+1が2になるのも、実は根拠が無いし、目の前にあるリンゴやパソコンモニター等も、それが本当にそこに存在しているものなのか(実体があるものなのか)、どこにも根拠が無いのです。

私という自我についても、そうです。
私があるという確固たる根拠はどこにも無いのです。

根拠が無いものは、それがどういうものなのかはもちろん、有るのか無いのかも、ハッキリしないのです。
つまり、一切のことがらは、実はそれがどういうものなのかも含めて、有るのか無いのかもハッキリしないものなのです。
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Unknown ()
2024-04-24 15:39:27
すみません。珍妙なと言う言葉はデカルトがスコラ哲学者との議論についてそのような言葉を使っていたように記憶していたからです。突然使うのは不適切だったかもしれません。すみません。
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Unknown ()
2024-04-24 15:30:43
無我の話の時に、全てのものに実体がない、と言う話が出てくるのに何か不思議な感じがしています。悟りとは関係のない一般的な人々の世界観の中で我々の肉体を含めたこの物質世界があってそこにモノが存在していると言う世界観は、唯識的な世界観に変わる時にすでに観念上の存在になり実体があるとは考えなくなります。この時に全てのモノに実体がない、と言うのには意味があるように思えます。しかし、元々物質世界とは関連のない観念上の存在である私に実体がない、と言うのは、言うまでもなくその通りであり、意味をなさないように思えたのです。無我の話に出てくる、実体とはなんなのでしょうか?

次に、私と言う存在はあるともないとも言えない、と言う時に、なぜそう言えるのかがわからなくなっています。デカルトを引くまでもなく、如何なる珍妙な仮説を持ち出そうとも、私が考えていることを認識する時、この考えている存在はあるとしか言えないような気もします。ここから如何なる議論も始めるべきと思いますが、どう言う所以で私と言う存在はあるともないとも言えない、と言う結論になったのでしょうか?もし私はある、と言うことになったなら無我も成立しなくなってしまいます。どのように考えればいいのでしょうか?
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あさんへ (慧空)
2024-04-23 18:02:23
>それでは涅槃に入ってからもう一度輪廻に入るのかもわからないのではないと言うような気もしますがどうなのでしょうか?

その可能性は否定できないとは思います。
しかし、悟りの意識状態は何らかの形で次の転生に残るようなので、解脱すると、もう転生はしないのではないかと考えています。

>それから、何もかもあるともないとも言えないともおっしゃいます。一方で根本苦はあるかのように語られます。

根本苦も、あるとも無いとも言えない実体の無いものです。
無我には、例外はありません。

>なんとなく解脱に至る過程と解脱が成立したあと、それからそのあと、で必要な要件が変わるような気もします。

そういう部分はあるのだろうと思います。
私自身も悟りの階層を上がる度に、それまでは役に立っていた悟り概念をどんどん捨てていきました。
返信する
Unknown ()
2024-04-23 14:26:51
全然わかってないのですが、わからないついでに質問をさせてください。
解脱者が涅槃に入るのかどうかもわからない、とおっしゃいます。それでは涅槃に入ってからもう一度輪廻に入るのかもわからないのではないと言うような気もしますがどうなのでしょうか?
それから、何もかもあるともないとも言えないともおっしゃいます。一方で根本苦はあるかのように語られます。根本苦があると言うのであれば、全ては無我であるとも言えないような気もしますがどうなのでしょうか?

なんとなく解脱に至る過程と解脱が成立したあと、それからそのあと、で必要な要件が変わるような気もします。空、無我、無常、根本苦を認識している必要性と言いますか、階層に至るには大事だが、通過してしまうと特に重要でなくなる概念があるのではないのかと思ったりしました。

何もかもよくわからない素人の話でお騒がせして申し訳ないです。私にはよくわかりませんので慧空さんのお考えの役に立てば何かご返信くださったり、雑音であれば無視してください。
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あさんへ (慧空)
2024-04-22 19:51:17
別の記事にも書きましたが、結論として、無常という考えは間違っているのです。
つまり、無常という考えの言っている、ものごとは変化するものであるというのは、言い切り過ぎであり、この点で間違っているのです。
無我の観点からすると、一切のことについて断言できませんし、
現に、涅槃のように変化しないものもある可能性がありますから。
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Unknown ()
2024-04-22 17:42:06
多分慧空さんみたいに解脱したかた以外は、輪廻の主体も涅槃に入って終わるなら、やっぱり全ては無常と言う教えは正しかったんだ、と考えるのではないかと思いました。

感情も肉体も一過的な物に過ぎない、輪廻の主体こそが不変の自己なんだからそこで安らぎをえる、と言う教えは考えないといけなくなるわけですね。感情も肉体も輪廻の主体も時間スケールが違うだけで全ては無常なのだと、言うことにならないかと思いました。
返信する
あさんへ (慧空)
2024-04-22 09:18:03
>輪廻の主体についても無常なのでしょうか?

興味深い切り口だと思います。
私自身も、そんなこと考えたことなかったです。
もし解脱し、涅槃に入るという現象が本当にあり得るのなら、涅槃は何も起こらないし、何も変化しませんから、
涅槃は無常の唯一の例外である可能性があると思います。
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Unknown ()
2024-04-22 08:26:18
そうなんですね。答えていただきありがとうございました。

さて、一切、全ては、無常、と言いますが、輪廻の主体についても無常なのでしょうか?解脱すると輪廻から外れると言いますが慧空さんもどうなるのかわからないとおっしゃっています。としますと一切全てと言い切るわけにも行かないようにも思えます
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あさんへ (慧空)
2024-04-20 13:41:39
空の概念には、空っぽという意味も含まれるだろうと思います。
入れ物に該当する概念は無くて、入れ物等も含めて一切が空っぽだと言っているのです。
しかし、空の空っぽという意味合いの要素は小さくて、主要な意味要素ではないはずです。

なぜなら、空っぽというなら、類似の概念として「無」がありますが、空と無は本質的に異なるものですから。
空は、有る無しについてはウエイトは置いていないというか、相手にしてないはずです。
有る無しの議論は、結論がなく、一切のことがらについて有るとも無いとも言えないものですから。
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Unknown ()
2024-04-20 09:02:57
日本語で空(クウ)と言いますと、言外にある空間(入れ物)を想定していて、その中がカラッポだと言う意味があるかと思います。想定している入れ物について何か思い当たる概念はありますか?
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Unknown (あさんへ)
2024-04-19 07:53:30
偉そうに空を批判していますが、実は私は空について殆ど知らないのですw
空に触れることなく、それを知らないまま悟ってしまったのです。
つまり、悟りに空は必須ではないのです。

でも空について少しは知っているので、その範囲で説明を書きますね。
空と同義な言葉として、無常、無我があります。
無常とは、一切は常に変化するものであるという意味です。
無我は、一切に実体あるいは絶対がないという意味です。
私はよく知らないので余り強く断言はできませんが、空は、この無常、無我を合わせたような意味のはずです。

空よりも、無常、無我の方が遥かに日常的な概念でしょ。
空についてもっと日常的な言葉で説明すると、「考え」です。
意識あるいは識と言ってもいいです。
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Unknown ()
2024-04-19 06:24:18
あです。
なんだか空にとてもきょうみがあります。
>日常的な概念を使って同程度の説明
とあるので、できれば教えていただけないでしょうか?
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