◇龍樹は縁起を誤解している◇
この記事は、昨日の記事の補足です。
龍樹が縁起を間違って解釈しているので、そこを指摘しておこうと思い、書くことにしました。
この縁起の解釈を間違っているのは、龍樹だけでなく、ひょっとすると釈迦もそうなのかもしれないと考えています(しかし、私にはそこまで調べる程、興味がありません)。
私とは意識であり、世界そのものなのです。
その意識の展開を微細に見ると、映画フィルムのコマのように断続的に分かれており、その最小単位のコマがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なり展開することで、意識の展開が起こっていることがわかります。
その意識の展開の最小単位のコマのことを、私は識と呼んでいます。
識と識の間の間隔は、私の体感で言いますと、短くて1000分の1秒から長くて10分の1秒程度です。
なお、識の展開は、意識の集中度を極限まで高めると、実際に体験することができます。
次に、識と縁起の関係についてです。
識は、一つ前の識が契機となって次の識が起こるという具合に連鎖的に連なって起こることが多いです。
つまり、全部についてではないすが、一部の識の連なりについては、前後の識の間に何らかの因果関係を持ち込むことは可能です。
言い換えれば、識の連なりについて、全部ではないが、一部については前後の識の間から何らかの因果関係を推測することは可能なのです。
例えば、車の運転をしていて、焼き肉屋の看板が目に入ったのを契機に、食べたいという食欲がわき、空腹感が生じ(あるいは、空腹感に気づき)、食べようと考え、車を操作して焼き肉屋に入る等の展開がそうです。
このように、識の前後において因果関係のようなものを推測できることがあるため、先人たちは、識の展開について縁起と呼ぶようになったのだと、私は考えています。
しかし、この縁起という呼び方は非常に危うく、誤解を呼びやすいのです。
起こっているのは、幻のような識の展開だけなのです。
識はただ起こって、消えていっているだけなのです。
識は、因果関係に基づいて起こっているのではないのす。
因果関係は、人が後から持ち込んだものなのです。
その証拠に、識と識の間には取り立てて因果関係という程の明確な関係性は無いのです。
確かに、上述したように識の一連の連なりの中に前後の識の間にそれなりの因果関係を推測できるケースがありますが、その場合でも、前後の識の間の関係は一義的に定まったものではなく、かなり不確定な部分が含まれていて、一つ前の識に対して次の識がどう転ぶかはサイコロを振るようなランダムな部分があるのです。
さらに、一連の流れとして識の展開が起こっているときは、不確定ながらも前後の識の間にそれなりの因果関係を当てはめることが可能ですが、識の展開はそのような一続きの流れのようなものばかりではないのです。
途中で、突然流れが変わってしまい、そのまま全く違う流れになってしまったり、識の内容がランダムにあちこち、飛び飛びになりながら、展開していくということも多々あります。
むしろ、後者のケースの方が多いかもしれません。
そのように、識の展開の流れが突然変わってしまうときなどは、識の前後において因果関係など全く無いのです。
例えば、何かをしているときに、急に別のことを思い付いたときなどがそうです。
このように、連鎖する識と識の間に因果関係があるというのは、百歩譲っても言い過ぎであり、誤りなのです。
識の連鎖は、因果関係に基づいて起こっているのではなく、ただ起こっているだけなのです。
一部の識の連鎖において、前後の識の間に因果関係があるかのように見えるだけなのです。
龍樹は、縁起に基づいて、一切無自生、続いて一切空を論証したとされています。
しかし、縁起の認定のところで大間違いをしているため、この論証は成り立っていないのです。
龍樹は、連鎖する識に着目するのではなく、識と識の間の関係性の方に着目し、そこに縁起があると誤認してしまったのです。
さらには、識はただ起こってきているだけなのに、識は縁起により起こっていると誤認してしまったのです。
着目すべきは、連鎖的に起こる一つ一つの識なのです。
この誤認は、龍樹だけでなく、釈迦もそうだったのかもしれないと考えています。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇自覚の要領をひとつにまとめた有料記事「自覚のヒント」のご案内はこちらです。
◇有料のスカイプ個人セッションのご案内は、こちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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この記事は、昨日の記事の補足です。
龍樹が縁起を間違って解釈しているので、そこを指摘しておこうと思い、書くことにしました。
この縁起の解釈を間違っているのは、龍樹だけでなく、ひょっとすると釈迦もそうなのかもしれないと考えています(しかし、私にはそこまで調べる程、興味がありません)。
私とは意識であり、世界そのものなのです。
その意識の展開を微細に見ると、映画フィルムのコマのように断続的に分かれており、その最小単位のコマがパッ、パッ、パッと連鎖的に連なり展開することで、意識の展開が起こっていることがわかります。
その意識の展開の最小単位のコマのことを、私は識と呼んでいます。
識と識の間の間隔は、私の体感で言いますと、短くて1000分の1秒から長くて10分の1秒程度です。
なお、識の展開は、意識の集中度を極限まで高めると、実際に体験することができます。
次に、識と縁起の関係についてです。
識は、一つ前の識が契機となって次の識が起こるという具合に連鎖的に連なって起こることが多いです。
つまり、全部についてではないすが、一部の識の連なりについては、前後の識の間に何らかの因果関係を持ち込むことは可能です。
言い換えれば、識の連なりについて、全部ではないが、一部については前後の識の間から何らかの因果関係を推測することは可能なのです。
例えば、車の運転をしていて、焼き肉屋の看板が目に入ったのを契機に、食べたいという食欲がわき、空腹感が生じ(あるいは、空腹感に気づき)、食べようと考え、車を操作して焼き肉屋に入る等の展開がそうです。
このように、識の前後において因果関係のようなものを推測できることがあるため、先人たちは、識の展開について縁起と呼ぶようになったのだと、私は考えています。
しかし、この縁起という呼び方は非常に危うく、誤解を呼びやすいのです。
起こっているのは、幻のような識の展開だけなのです。
識はただ起こって、消えていっているだけなのです。
識は、因果関係に基づいて起こっているのではないのす。
因果関係は、人が後から持ち込んだものなのです。
その証拠に、識と識の間には取り立てて因果関係という程の明確な関係性は無いのです。
確かに、上述したように識の一連の連なりの中に前後の識の間にそれなりの因果関係を推測できるケースがありますが、その場合でも、前後の識の間の関係は一義的に定まったものではなく、かなり不確定な部分が含まれていて、一つ前の識に対して次の識がどう転ぶかはサイコロを振るようなランダムな部分があるのです。
さらに、一連の流れとして識の展開が起こっているときは、不確定ながらも前後の識の間にそれなりの因果関係を当てはめることが可能ですが、識の展開はそのような一続きの流れのようなものばかりではないのです。
途中で、突然流れが変わってしまい、そのまま全く違う流れになってしまったり、識の内容がランダムにあちこち、飛び飛びになりながら、展開していくということも多々あります。
むしろ、後者のケースの方が多いかもしれません。
そのように、識の展開の流れが突然変わってしまうときなどは、識の前後において因果関係など全く無いのです。
例えば、何かをしているときに、急に別のことを思い付いたときなどがそうです。
このように、連鎖する識と識の間に因果関係があるというのは、百歩譲っても言い過ぎであり、誤りなのです。
識の連鎖は、因果関係に基づいて起こっているのではなく、ただ起こっているだけなのです。
一部の識の連鎖において、前後の識の間に因果関係があるかのように見えるだけなのです。
龍樹は、縁起に基づいて、一切無自生、続いて一切空を論証したとされています。
しかし、縁起の認定のところで大間違いをしているため、この論証は成り立っていないのです。
龍樹は、連鎖する識に着目するのではなく、識と識の間の関係性の方に着目し、そこに縁起があると誤認してしまったのです。
さらには、識はただ起こってきているだけなのに、識は縁起により起こっていると誤認してしまったのです。
着目すべきは、連鎖的に起こる一つ一つの識なのです。
この誤認は、龍樹だけでなく、釈迦もそうだったのかもしれないと考えています。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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