◇無我の体験と解脱について◇
私はつい最近になって、完全な無我の体験が実はとても重要なのかも知れないと思うようになっています。
特に最終的な悟りである解脱の悟りを得る局面において、完全な無我の体験が導きというか、手掛かりになるのかも知れないと思っています。
なお、ここでいう完全な無我というのは、比較的多くの方が瞑想中に体験する何も無いという感覚や静寂等とは異なります。
何も無いという感覚や静寂は、静寂等を感じている自我の意識が残っていますので、完全な無我ではないのです。
完全な無我とは、自我の意識が完全に無くなり、何も感じず、何の考え(認識)も生じてない状態のことです。
過去及び現在において悟りの道を歩まれる方々を観ますに、その多くの方が、解脱の悟りに到達することなく、真我の体験や理解(悟り)に留まってしまわれます。
そのような方々の中には、悟りの道中で真我が見せる神秘的な体験をこれこそが究極だと思い込み、掴んでしまう方がおられます。
静寂の中の平穏さや、光に満ちた至福感などがそれです。
これらは確かに素晴らしく大変貴重な体験ではありますが、それは真我が見せる幻なのです。
幻を掴んでいるのです。
私からすると、どうしてそのような幻を抱え込んでしまうのか大いに疑問を感じるのです。
何の疑問や違和感を感じることなく、これこそが絶対的な真理だ、実体だと信じ込んでしまうのはどうしてなのかと思うのです。
それでふっと思ったのです。
そのような幻を掴んでおられる方々は、ひょっとすると完全な無我の体験がまだ無いのかも知れないと。
仮にそのような体験があったとしても、浅くしっかりとしたものではないのではないかと。
しっかりとした完全な無我の体験が無いため、真我が見せる幻を疑問や違和感を抱くことなく掴んでしまうのかも知れないと。
これはなかなか確かめるのが難しいことですが、あり得ることだと思っています。
しかし、完全な無我の体験をしたからと言って悟れる訳ではないので、無我に拘らないようにして頂きたいと思います。
ただ、完全な無我の体験をするような存在は、自我がつくる考えが大分薄くなっているでしょうから、いずれそう遠くないうちに深い悟りに入っていくことになるのだろうとは思います。
それで最後に、完全な無我の体験をするための技法について書いてみたいと思います。
私は殆ど瞑想を知らないのですが、ちらちらと調べてみたところ、呼吸法を利用した瞑想、例えば数息観(やり方はネットで検索してください)が一番いいのではないかと思っています。
要するに呼吸に意識を集中しながらただ座るのです。
ただそれだけです。
また、呼吸瞑想は集中力や心の調整能力を養うのにもとてもいいと思います。
お釈迦さまがすべての入門者にまずやらせたのが数息観だったそうで、とてもうなずけることだと思っています。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
スピリチュアル ブログランキングへ
私はつい最近になって、完全な無我の体験が実はとても重要なのかも知れないと思うようになっています。
特に最終的な悟りである解脱の悟りを得る局面において、完全な無我の体験が導きというか、手掛かりになるのかも知れないと思っています。
なお、ここでいう完全な無我というのは、比較的多くの方が瞑想中に体験する何も無いという感覚や静寂等とは異なります。
何も無いという感覚や静寂は、静寂等を感じている自我の意識が残っていますので、完全な無我ではないのです。
完全な無我とは、自我の意識が完全に無くなり、何も感じず、何の考え(認識)も生じてない状態のことです。
過去及び現在において悟りの道を歩まれる方々を観ますに、その多くの方が、解脱の悟りに到達することなく、真我の体験や理解(悟り)に留まってしまわれます。
そのような方々の中には、悟りの道中で真我が見せる神秘的な体験をこれこそが究極だと思い込み、掴んでしまう方がおられます。
静寂の中の平穏さや、光に満ちた至福感などがそれです。
これらは確かに素晴らしく大変貴重な体験ではありますが、それは真我が見せる幻なのです。
幻を掴んでいるのです。
私からすると、どうしてそのような幻を抱え込んでしまうのか大いに疑問を感じるのです。
何の疑問や違和感を感じることなく、これこそが絶対的な真理だ、実体だと信じ込んでしまうのはどうしてなのかと思うのです。
それでふっと思ったのです。
そのような幻を掴んでおられる方々は、ひょっとすると完全な無我の体験がまだ無いのかも知れないと。
仮にそのような体験があったとしても、浅くしっかりとしたものではないのではないかと。
しっかりとした完全な無我の体験が無いため、真我が見せる幻を疑問や違和感を抱くことなく掴んでしまうのかも知れないと。
これはなかなか確かめるのが難しいことですが、あり得ることだと思っています。
しかし、完全な無我の体験をしたからと言って悟れる訳ではないので、無我に拘らないようにして頂きたいと思います。
ただ、完全な無我の体験をするような存在は、自我がつくる考えが大分薄くなっているでしょうから、いずれそう遠くないうちに深い悟りに入っていくことになるのだろうとは思います。
それで最後に、完全な無我の体験をするための技法について書いてみたいと思います。
私は殆ど瞑想を知らないのですが、ちらちらと調べてみたところ、呼吸法を利用した瞑想、例えば数息観(やり方はネットで検索してください)が一番いいのではないかと思っています。
要するに呼吸に意識を集中しながらただ座るのです。
ただそれだけです。
また、呼吸瞑想は集中力や心の調整能力を養うのにもとてもいいと思います。
お釈迦さまがすべての入門者にまずやらせたのが数息観だったそうで、とてもうなずけることだと思っています。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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よろしければ、また起こしくださいな。
なにぶん、ヒマしておりますので(笑)。
『わたし』もこんな質問したくはなかったのですが(笑)
ありがとうございました。
普通の感覚で言えば、「自我」とは自分という感覚や意識のことです。
この普通の自分という感覚や意識は、どこまで悟っても、薄くなっていく傾向にはありますが、最後まで残るんです。
ですから私(慧空)にも、いまでも自我やその感覚は薄くなりながらもありますよ。
その一方で、自我に対する認識(理解)として、ある段階を超えて悟りが深まっていくと、私という自我が幻であることが、理解の面でも、感覚の面でも、深く附に落ちていきます。
ですから、この理解や感覚の側からお話しすると、自我は幻ですということになるのです。
この自我があるような無いような微妙なところについて、ご理解頂けるといいんですが、頭で理解されようとしても、無理なんだと思います。
ぜひ、ご自分で体感していただきたいと思います。
もう一つ質問です。
自我ってありましたか?
>体験したのは誰なのですか?
>無我ならココに無我体験を書けないですよね。
完全な無我を体験したのは、私ですよ。
ですから、それを書いているのも私です。
当たり前です。
ただし、こういうことなのです。
完全な無我に落ちているときは、意識が完全に切れているので、何も感じないし、何も分からないし、何も無しです。
意識が戻った瞬間に、自分の意識が切れていたことに気づくのです。
その意識の断絶のことを完全な無我とか、滅尽定といいます。
体験したのは誰なのですか?
無我ならココに無我体験を書けないですよね。
私も自分なりに工夫してみます。
ご返答有り難うございました(礼)
特に意識している工夫やコツなどはありません。
有益な情報を何もお出しできなくてすみません。
ただ、私は瞑想時の姿勢に対するこだわりは殆どありませんで、楽な姿勢なら(少々無理な姿勢でも結構大丈夫です、笑)何でもいいという感じです。
具体的には、職場で椅子に座って机に向かっているときに自然と瞑想状態に入ってるということが多いです。
そのときの姿勢は本当にいろいろです。
私が瞑想を試みようとするとき、背筋を伸ばし、ただ座るという姿勢を保つことすらままならないです(汗)
それは日頃の悪姿勢の積み重ねであり、坐骨、足腰、背中、首肩すべてにバランスを崩し筋肉は強張り心身ともに緊張した状態であることを今更ながらに痛感しています(苦笑)
彗空さんが瞑想をするとき、坐骨を安定させるとか背筋を伸ばし安定した姿勢を保つための工夫というかコツみたいなものは有りますか?
コメントありがとうござます。
横からも大歓迎です(^^)
完全な無我の状態とは、感覚等を含むすべての自我の認識が不在となった状態です。
ですから、完全な無我に入っているときは、呼吸が止まっていることの認識もありません。
何らかの自我の認識が生じて無我から出てきたときに、呼吸が止まっていることに気づくという感じです。
なお、心臓の鼓動は止まることは決して無く(鼓動が止まったら比較的直ぐに死んでしまいますので、笑)、ゆっくりになるという感じです。
そこで、彗空さんの完全な無我とは〈完全な自我の不在〉との説明ですが、完全な無我の状態時の呼吸や心臓の鼓動の状態を〈認識している〉何かがまだ残っている?ということでしょうか?
完全な無我という1つの状態の中に完全に認識は不在なのか?まだ残っているのか?素朴な疑問が湧いています(汗)
完全な無我になることと、呼吸が止まることはイコールではなくて、完全な無我になっても呼吸が止まっていないときもあるのではないかと思いますし、呼吸が止まっても完全な無我までには至っていないこともあると思います。
完全な無我になったときは呼吸が止まることがよくあるという程度のことです。
呼吸が止まった状態は、数秒から長くても十数秒くらいだと思います。
数分とか、それ以上その状態がつづくことはないだろうと思います。
死んでしまいますので(^o^)
深い瞑想状態がほぼ連続して数時間とか、数日続くことがあるという話をどこかで読んだことがありますが、
そのときは、呼吸は続いているはずだと思います。
→呼吸も止まる、心臓の鼓動も止まる、(その場合、脳や肉体維持機能などはどうなっているのでしょうか…?)状態が、継続する
その長さの上限が、3日というのか…そういう感じです。
→呼吸も止まる、心臓の鼓動も止まる
です。
それとも、「呼吸や心臓の鼓動がとてもかすかにゆっくりになる」、
くらいでいいのでしょうか。
(その状態の、「短期間の気絶」とか「夢を見ない深い睡眠」は、
なるほどなーと思わなくもないのです)
(でも、仮死状態にはなったことがないのです…)
「心臓の鼓動等は抑制され、呼吸が止まる」というのは、
仮死状態まで行ってしまうタイプのものですか?
(3日、もしくは、21日以上続くと、肉体が死んでしまうという…)
コメントありがとうございます。
瑜伽さんが上で書かれている状態は、いわゆる思考が停止したという状態の一つだと思います。
思考が停止しているだけで、その状態を認識している自我の意識はまだ残っているのだろうと思います。
完全な無我は、自我の意識が完全に不在となっていることを言っています。
分かりやすい例かどうか分かりませんが、感じとしては、短期間の気絶が起きた状態に近いと思います。
あるいは、夢を見ない深い睡眠に一時的に入ったような感じとかです。
そのとき、心臓の鼓動等は抑制され、呼吸も止まっていたりします。
完全な無我のことなんですけど、
ものすごく頭の中が静かで、
まったく脳内で何の言葉(会話、考え、など)が
浮かんでこず、
もちろん楽しいとか嬉しいとかそういう感情も
浮かんでこず、
「・・・なにがおきたんだー」
というしかないような状態でしたか?